技術としての「轆轤(ろくろ)師」を追う…古代に金属器をどう作ったのか?

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前項としてこれらを。
以前から気になっていた。
「ろくろ挽き」の単語である。
土師器もろくろ牽きによる成形が行われていたのは、発掘調査報告書を読むと登場する。
これ、現代陶芸でも、ろくろ挽きは行われている訳で。
同時に、お椀やこけしもろくろ挽き。
と、前項にある様に金属器もろくろ挽きとあった。
なら、「轆轤(ろくろ)」とは何ぞや?
調べなければ気が済まぬ筆者は、ちょっと著書で探ってみた。
ものと人間の文化史 31 ろくろ」である。
基本的にはこの著書は「木地師(木製食器やこけしを作る職人)」の文化史が中心。
元々「木地師」の伝承には、その祖を「惟喬親王」とし信仰する事が多いとある。
「惟喬親王」が彼らに「轆轤」を授けたと言うもの。

この「惟喬親王」は文徳天皇の第一皇子。
だが母が「紀氏」。
後に「藤原氏」を母に持つ第四皇子が産まれた為にそちらが皇位継承する事となり、仏門に入った方だ。
この第四皇子こそ「清和天皇」。
木地師の「山立御免」の巻物もマタギ同様に、清和天皇から勅許を賜る話を聞いていたので、成る程なと勝手に思ったりする。
何せ「惟喬親王」は、清和天皇の兄なのだから。

さてでは、轆轤の起源は?
弥生期には土器や木製品で成形されたとされるものがあるようで、かなり古くから使われていたと考えられる。
現代陶芸同様に縦軸の物が先行しているようで、大陸からの渡来人の影響で横軸型の物が登場したらしい…が、あくまでも推定。
元々「現物」としての出土は無く、出来上がりの現物に残された跡や古書記載から、轆轤師の存在や轆轤の再現がされている模様。
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古書上では「轆轤師」として朝廷や寺社の工人衆だが、その官位は低かったり無官位、又は事業毎に集められ給料で働く人として「正倉院文書」らに記録される。
古代~中世では、轆轤を持った集団が轆轤を持って山に入り、各地で木地師として定着した…ざっとこんな歴史の様だ。
渡来人としては「秦氏」系と著者は考えている模様。


と、言う訳で「本題」に移ろう。
実は筆者が知りたかったのは「木地師」としての技術文化史ではない。
金工師」として轆轤を使った歴史を知りたかった訳で。
では、引用してみよう。

「当時についてなによりもわたしたちが留意すべきことがらは、「ろくろ」を用いて挽き作られた円形の器物が、すべて木製品にかぎらなかったという事実であり、そのことは小林行雄もかつて指摘している通りてある。(『古代の技術』)。たとえば、天平宝字六(七六二)年の正倉院文書『造東大寺司解』の一節には、
鋳作露盤冠管一口 功二百卅五人(中略)
轆轤引作露盤盤七口 功五百五十七人
~中略~
とあるが、そこで「ろくろ」を用いて挽き作られたものは、鋳所において鋳造された青銅製露盤などの部品であり、それらがただちに錯作(研磨)の工程に移されたことが明らかである。さらに『延喜式』の「内匠寮式」をみると、
銀器
御飯筍一合 径六寸。一寸七分。深 料。
炭 一石二斗。
~中略~
などとあって、御飯筍・酒壺~中略~などの銀器の製作に、「ろくろ」工が参加していることが明らかである。すると、こうした古代の古文書にみえる「ろくろ」には、木工用以外に金工用などがあり、そうしたものを操作する工人もまた、「ろくろ」工といったことを知っておく必要がある。」

ものと人間の文化史 31 ろくろ」 橋本鉄男 (財)法政大学出版局 1979.1.20 より引用…

随分古い。
東大寺造営の記録か?
仏具や装飾用の金具を作る為、また、延喜式では銀の器を作る為に、
・青銅や銀を溶かす
・鋳物で成形
轆轤にかけて研磨する
こんな製造プロセスを追っていた事になる。
奈良,平安では、金属を削り込むのではなく、ザラザラを平滑研磨する為にろくろで回転させて仕上げた…と言う事なのだろう。

予想通り。
筆者は以前「旋盤」を使った事がある。
多分「旋盤」を使った事がある方なら気付くだろうが、真鍮らを削り込むのはなかなか力が掛かる。
ちゃんと固定しないと超硬バイト(刃物)が折れたり、現物がぶっ飛ぶ。
現物が中途半端に柔らかければ、そんなに一気に削る事が出来ない。
同時に固定が難しく、肉厚が無ければ、固定する力で現物が歪む。
削るではなく、ヘラ絞りの様に変形させていくとしても、この固定の問題は生じてくる。

さて、奈良,平安、北海道での擦文期に当たる時代に、「轆轤」を旋盤の様に扱い、青銅や真鍮、佐破理らの銅椀を削り込んだりヘラ絞りで作る事が出来たのか?
ここが筆者の最大の疑問。
妥当なところ、弱い力で固定して、砥石やとのこで仕上げるなら可能だろう。
が、前項にあるように銅椀を「成形」出来たのか?
鋼の技術は平安期に飛躍的に進歩し、それが日本刀に至るのだが。
この辺は今後また、追ってみたいと思う。
場合により、前項らにある銅椀は、もっと後世の物ではないか?と言う疑問。
勿論、平安期で可能であれば何の問題も無い。
同時に出土した擦文土器の編年経過にも裏付けが増す訳だ。


少しずつ、そんな技術史からもアプローチ出来ればと思っていた。
疑問があるなら、改めて自分でも調べてみれば良いだけの事。
古代の「旋盤」がどんなものなのか?
出土が無いので解らないが、普通に使う事が出来たとすれば、高い技術を駆使していたんだなと驚くばかり。
むしろそちらを期待してしまう。
微速前進…
何かの学びのついで位で調べてみようと思う。




参考文献:

ものと人間の文化史 31 ろくろ」 橋本鉄男 (財)法政大学出版局 1979.1.20 より引用…