この時点での公式見解41…各地方史書に記載される「アイノ文化登場の過程」を比較してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118?s=09
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428?s=09
こちらを前項として。
「新北海道史」において、「近世アイノと中世を繋ぐ明確な物証はまだなく、「諏訪大明神画詞のみ」と記載されたのは前項の通り。
実際、現状では中世遺跡での継続性が考古学的に立証不能な上に織豐期〜江戸初期の南蛮人の記載位で、明確にそうであろうと言えるのは江戸中期から…そう言わざるを得ぬのは致し方無い処。

さて、では他の史書ではこの辺をどう記載しているのか?
せっかくだから、手持ちの各地方史書上、「アイノとは?」をどう書いているか比較してみよう。
幾つかパターンはある様だ。

まずは「新北海道史」…
これは前項を見ていただければ、一目瞭然。
上記の通り。
では、羅列していこう。


・「旭川市史」…
旧「旭川市史」では、こんな記載になっている。
先住民族の章に、遺跡の説明の直後に、

「北海道に於ける先住民の主たるものはいうまでもなくアイヌ族であるが、今日ではその数わずかに一万数千、それも純粋のアイヌは少く、かつての生活様式も思想も著しく和人に同化していくので~後略」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

主たるもの…?
いきなりこんな感じで、その変遷や結び付きらへの言及は全く無しで、複数なのか単数なのから含めて言及は無い。
更新?された「新旭川市史」については後述する。


・「様似町史」…
実は詳しい記述は無い。
アイノの口碑伝説として口伝された事を並べ、その後遺跡らの説明になり、一気に江戸期のウンベツ川東金山の話へ飛ぶ。
勿論、口伝には時代を示唆させるものは何もない。

本州では?


・「野辺地町史」…
北海道との関わりが深いのだが、特にアイノには言及していない。
狄村も近くにはないので、特段野辺地の歴史を記事するのに必要ないので当然か。
これは秋田の地方史書でも同様。
関係あろうとも、その地の史書なので、わざわざ記載する必要は無いので当然だろう。


・「弘前市史」…
ここでは、「蝦夷アイヌか」として一項設けている。
それは、日本人の起源に関わるとしている為だ。

「そもそもアイヌの起源は何なのかという難しい問題があった。かなり早くから、アイヌコーカソイド(白人)ではないかとよくいわれ、また北海道在住の著名な学者や、法医学の権威者らがかつてこの説を支持したため、今でも根強い影響力を保っている」
「一方、旧ソ連の学者らは、アイヌの祖先をオーストラリア先住民=アボリジニであると主張し続けた。これらはいずれもアイヌを、本土人によって北へ駆逐されたものの子孫として説明するのにもっともわかりやすい理論でもあったから普及したわけである。~中略~アイヌや沖縄人の祖先は縄文時代以来その地に住んで射たのであって、追われたり逃亡したりして住みついたわけではもちろんない。」
「しかしながら、アイヌの特徴として喧伝された、鬚や体毛が濃いとか、あるいは二重瞼の人が多いとかいうのは、じつは人類一般の特徴であって、そうした特徴をもたない現代和人の方がむしろ世界的には特殊なのである。鬚や体毛が薄いとか、瞼が一重であるという身体的特徴は、これは北方の寒冷地世界での生活に適応したものであって(あるいはいわゆる「胴長短足」も体表面積を小さくする、寒冷地対応の一種である)、そうした特徴が現代和人に見られるということは、ある時点での大量の北方人の日本への渡来を想定しなければならない。近年の形質人類学の急速な発展は、さまざまな要素からこの事実を証明することに成功している。」
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(註釈:ここで写真の様な埴原モデルでの形質人類学的見知及び、西日本からの渡来人との混血の説明がある。)
「古代の蝦夷は、混血の程度からいうと、そうしたアイヌと現代和人との中間的な存在なのである。」
「面白いことに、こうした特徴は、人間の生活に深いかかわりをもつ動物である犬や野生のネズミでも確認されている。北海道のアイヌ犬や東北の秋田犬の分子遺伝学の研究によれば、それらは典型的な南アジアのタイプの遺伝子を持ち(甲斐犬・沖縄犬も同様)、中部以西の芝犬や紀州犬土佐犬などは、逆に朝鮮系の北アジアタイプの遺伝子をもつ。〜中略〜まさに人間と同じ逆転現象が生じているのである。」
「以上のことからすると、逆に時代を遡れは遡るほど、混血の度合いが低くなっていくわけであるから、アイヌ・東日本人・西日本人の間の差も、同様に少なくなっていく。東北から北海道あたりでは、七世紀ころというのはまだアイヌと和人とがはっきり分かれていなかった(単なる日本人の地方差にすぎない)時期にあたるから、古代の蝦夷アイヌか否か、という古くからの問いかけ自体が意味をなさなくなる。そもそもアイヌ文化自体、まだ成立していないのだから古代にあって「アイヌ」という用語を使用するのは誤解の元である。蝦夷=アイヌ説の根拠として盛んに利用される「アイヌ語」地名という用語も、「擦文語」地名程度に置き換えるべきかもしれない。現在のアイヌと和人とは、たしかに文化的には異なる異民族ではあるが、人種的には同じモンゴロイドどうしなのである。この意味で日本人の二重構造は現代もなお維持され、混血も進行し続けているということになる。」

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」 「新編 弘前市史」編纂委員会 平成15.11.28 より引用…

実は「浪岡町史」でもほぼ同様な記載がある。
多分、旧津軽方面はこんな見解なのだろう。
よほど、「縄文=アイノ説」から派生した「エミシ=アイノ」と言う論調に迷惑しているのか?と、思わせる文脈。
それはそうだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
こんな風に「歴史を下り」研究してきている東北の研究者にしたら、中世以降生まれた文化集団を「遡る」解釈をする一部学者やそのファンの言葉は「ナンセンス」に過ぎない。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1199602129289150464?t=d0fJk_Jli4ZSmpwEl4Byhg&s=09
以前から何度か紹介している「奥州市埋蔵文化財調査センター」のパネル(SNS上の写真使用には要許可)の様に、「北海道系住民のムラはない」と書かれる始末。

実は、先にペンディングにした「新旭川市史」でもこの「埴原モデル」を使って、形質人類学の見知から説明をしている。
正否は別として…昨今、弥生期での渡来人の大量流入があったか疑問視する説があったり、DNA解析も進み巷では別の説もあるようなので。
まぁ、少なくとも…
仮に埴原モデルを採用しようと「文化成立しないアイノ文化人」を古代まで遡り適用するのはナンセンスだと言っているのは間違いなさそうだ。
同時に言語的にも、遡るならそれ以前の文化「擦文語」とすべきだろうとしている。
「浪岡町史」では、容姿の違いは「地域適応による一種の小進化」とも記載ある。
但し、文化の差がどうして生まれたか?らには、さすがに言及はない。
筆者はあくまでも文化論や歴史の継続性から追っているので、DNAらには言及はしない。
但し、途中で生まれた文化なのに、何でもかんでもアイノで遡るのはナンセンスって考えには、強く同意。
昔からそこに住んでいたとする「埴原モデル」をもってしても、それはナンセンスと言わざるをえんのだから。

以上の様に…
①繋がる物証は少ないが「諏訪大明神画詞」らを元に繋がっている…
②有無を言わせず繋がっている…
③文化論等とは切り離し、「形質人類学」的見知から血統的には繋がっている…
こんな風に層別される様で。
ただ、これらにも欠点はある。
人の流入が一度や二度なら構わないであろうが、国境に近く、常時北方や本州から流入しうる環境だと言う事が考慮されていない。
他から流入する入口なのだから、文化にしろ血統にしろ、ある意味最も混雑し易い場所だとは、考えないのであろうか?
筆者的には、どの説も納得出来る説明だとは思わないので、どれも支持はしていないし、どれも否定するものではない。
全ては物証のみを追え…である。






参考文献:

「新北海道史 第一巻通説一」 北海道 昭和45.4.31

旭川市史」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

新旭川市史 第一巻通説一」 旭川市史編集会議 平成6,6.15

「様似町史」 北海道様似郡様似町長 留目四郎 様似町史編さん委員会 昭和37.11.3

野辺地町史通説編第一巻」 野辺地町史編さん刊行委員会 野辺地町 平成8.322

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」 「新編 弘前市史」編纂委員会 平成15.11.28

「浪岡町史第一巻」 浪岡町 平成12.3.15