「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/16/061719
前項に続き、個別の内容で気になる部分をピックアップしていこう。
以下で『』で示したところは、本書の引用部分とする。
また、同書では場所により「現地人」を「アイノ人」と訳しているが、場所により特徴が違う場合があるので「現地人」で統一する。
幾つか地域差を指摘している為だ。
原文では「現地人」又は「エゾニアン」と表記されている模様で宣教師報告にある「ainomoxi」への言及はない。


まず、北上開始した部分から。
5月27日の記録…
『前略(北上するカストリカム号に接岸する船有り)〜少々ポルトガル語を話すひとりが、「自分らは都へ行くところだ。また、ここから北に大きな湾があり、その前方にトイという一島があってトイと海岸の間は航行することができる。日本の北にはエゾが位置しているが、自分たちにはあまり関心がないし、そこは極めて寒く、トイの向うにある湾には関心をもっていない。」と答えた。もし、本船に日本語を解する者がいたら、彼らからもっと多くのことを聞けたはずである。そして、日本人に対し米一俵をニレアルで売ってくれと申し出たが、「米は売ることがてきない。荷主の商人は都に住んでいる。」と応答したという。』

これで、日本人が乗船していない事、当時の船乗りの中にはポルトガル語を少し話せる者がいた事が解る。
トイの島は研究していた「シーボルト」「幸田成友」氏らから金華山ではないかとされている。
ここから沿岸を離れ、沖を航行したと「航海図」に示されている。
では、上陸し現地人に接触した時の事をピックアップしていこう。

①十勝編…
最初に発見したのは「ケープ・エローエン」とされ、襟裳岬とされている。
航海記録では津軽海峡は詳細が記されていない。
そこから2日かけ北北西へ。十勝川河口付近で一艘の小舟が近寄ってきて最初の接触を向かえる。
『前略〜二枚の鹿皮と若干干した鮭をもっており、またそれぞれ弓矢と刀剣を携えていた。本船にのぼるとタンバコと言って煙草を求めたが、他の言葉はわからなかった。彼らは塩を使っていない燻製の鮭と、鹿の皮一枚を司令官に贈ったが、アラック酒と煙草でもてなされて、たいへん喜んだ。』
『両の耳たぼに孔があり、そこから糸が垂れていて、あるものは耳に環をつけていたが、それは銅と金の合金であった。』
『腰部には小刀を下げているが、その柄は銀で飾られている。刀の薄金は日本風であるが、やはり銀が見られた。これは、彼らが金と銀を知っている史実をもの語っている。その矢はたいへん精巧に製られ、あるものには毒が塗りつけられてあった。彼らは北西を指して、自分たちはそこに棲み、そしてそこはタカプチ(十勝)と言い、エゾ地の高い急峻な岬をグロエン(襟裳岬)、川の流入する入江をグチアールと呼び、更に北東にはシラルカ(白糠)およびグチオテ(釧路?)と呼ぶ場所があると語った。』
『(筆者註:航海図中の記載)「前略〜彼らは身体にたくさんの銀を帯びていて、また我々に銀が豊富にあるという山をさし示した。」』
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
「十勝太海岸段丘遺跡発掘調査報告書」に記載されているのはこの周囲。
十勝の記録上初見とされる一節。
残念ながら、指し示した「銀の山」への記述はここまで。


②千島編…

歯舞諸島の出来事。
『「その時三隻の小さな舟が本船に接舷してきた。それらには、それぞれ五人、六人、八人の男子が分乗していた舟も人もともに前回と同じような形容であった。彼らは先に出会った住民(筆者註:十勝の人々)が知らせてくれた土地を、名ざすことができた。〜中略〜島々の背後にある錨泊所に錨を卸すようにすすめ、その場所をタマリと呼び、"ピイルケ・タマリ"と言った。」』

フリースらはタマリへ来いと解釈した模様。
このタマリ…国後島泊港とする向きが多い様だが、著者はそうとは断定していない。
現地人はラッコの毛皮を差出し煙草との交換を望んだがあまりに高価な値段をつけたので、オットセイ,熊の毛皮と煙草を交換したとある。
ちゃんと価格交渉を行っている、それもオランダ人と。
また金銀をよく知っていて、それより銅は軽視したとある。
北北東に「タテコカン」、北東に「ラッコカン」という場所を指し示したそうだ。
非常に愉快に話しかけたとあり、全く西洋人を警戒する素振りがない。

得撫島の出来事。
春盛りなのだが、得撫島では赤狐を見ただけで人影は無し。
『「ある小さな家の中で、人間の骸骨と頭蓋骨をみつけた。その小さな家は木の枝で造られ、背の高い草で葺かれていた。家の傍らの土の中にさしこまれた一本の杭には、刀が一本掛けてあった。その刀は、以前カストリカム号に乗船してきた原住民たちが身辺に帯びていたものと同様に、若干の銀で巻いてあるが、錆びていた〜後略」』
ここをアメリカ海岸近くの島又は、アメリカ海岸から突き出た岬と考えた様だ。
当然、カムチャッカ半島の概念は当時まだない。
そして、この得撫島を「コンパニース・ラント(東インド会社の島)」と命名し、紋章入の十字架を建てたと記録される。
又、銀鉱石と思われる物を採取したとされる。
更に、択捉島を海から見、「スターテン・ラント(オランダ国州)」と命名
前項でヤバいとしたのはこれ。
仮に東インド会社が千島を運用していたら…?
勿論、それ以前に幕府と外交問題になっていたであろうが。
1700年段階で松前藩は、幕府に対し「北海道〜千島〜樺太までが松前藩領」と回答している。そんな認識だったと言う事だ。

国後島での出来事。
先述の通り、カストリカム号乗組員は濃霧で根室海峡を確認出来ておらず、航路図上も国後島は本道から出た岬と認識しているそうだ。
晴れ間を見てその北東部に上陸し土地状況と住民の有無を確認したとある。
人と獣の足跡を見つけたが接触出来ず本船へ戻ろうと思ったところ、小舟で上陸した男3人女二人を見つけたところ男の一人が、
『「彼は"サポイ"と叫び、海岸に来るようにと言う仕草を示したので、私のボートを岸につけると、彼自身でひざまで水の中に入ってボートを支えた。私はボートの中に座って彼にアラック酒をついだが、彼は飲もうとしなかったので、まず私がいくらか飲むことになった。こうして彼と親しくなり、明日また来るという様子をすると、女たちは手を打って喜ばしそうにした。』
乗組員達は本船に戻り司令官へ報告、翌日原地人の元へ向かう事にする。
目的は交易や生活の観察と金銀の知識を得る為。
現地人村落へ向かうのはこれが初めてになる。
民家への言及もここが初めて。

『「海岸に来ると、彼らはあらん限りの声でサポイと叫び、手をうち合わせた。〜中略〜最年長者が叫んで、上陸するようにと身振りをしたので、私のだけ上陸し、ボートは岸から離して置いた。私は長老の手をとって互に抱き合い、極めて深い友情を仕草で表した。」』
この後、男五人、女二人、少女,幼女三人、浜辺でアラック酒で踊りながら酒盛り。
踊る高台から見ると5〜6軒の家が見えたが人が住むのは2軒のみ。
その家は小さく草で覆われ、壁は樹の皮を撚った革で綴り合わせ、中央に炉、その上に2つの窓があり煙を抜いていたという。
横木に鰈や鮭が掛けられ、炉の煙で燻製にしていたが、それ以外には食べる物は見当たらなかった。
又は大きな葉のついた太くて厚い茎を食べていたと記される。スカンポ(イタドリ)の様な山菜の類いらしい。
彼らの周りには、毛の厚い犬が居るのみで、他の動物は居ない。
5日に渡り、本船とこの現地人の所で滞在し、地引網(引くのを手伝って貰う)で魚を集めたり、小物(煙草やガラス玉、麻布の端切れら)や米をプレゼントしたり、逆に魚やスカンポらを貰ったり交流をした事が記される。
翌日より、国後島北東端の調査を行い、択捉島との海峡や択捉島から突き出る孤島へ上陸、フリース司令自ら上陸し、住民へ小物をプレゼントしつつ交流したとある。
ここで登場するのがこの一節。
『「七月八日、司令官が上陸して、住民にこまごました物を与え、長老には一本の小さいオランダ国旗を贈ったが!彼はたいへん喜んでいる様子で、早速彼の家に立てられ、翻った。司令官の客人である長老は、以前のように極めて友諠的、かつ紳士的に振舞ったのである。
こうしているとき、乗組員の一人が、一本の木製の十字架を見つけ、海辺に運んできて、住民たちに見せた。ところが、彼らはそれを見るや、非常に恐ろしがり、身振りでそれを海中に投げ棄てるよう、また、その木の十字架に触れた者は、住民の身体に触れることは許さないが、まずその手を洗えばよろしい、という表現をした。同じような十字架が一本、森の方に立っていた。」』
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
この「十字架」は「択捉島」での話であった。
ただ、記載はここまで。
何故現地人達が一様に恐れたのか?等については記載無し。
この翌日、別集団の長が尋ねてきたりするので、家族?単位で5〜10人程度の集団で暮らす模様。
ぼちぼち次の探索へ向かう事にし、更に翌日、先の国旗を贈った長老に司令官からの手紙を渡す為に上陸した時の話はこうだ。
『「同日正午少し過ぎ、部落の長老に一通の手紙を渡すため上陸した。私が長老と一緒にいる間に、前述の新着の住民が小舟で海岸に漕いてきて、浜辺についたのを見た。そこで、彼の舟を陸に揚げるのを手伝った。彼は西の方から来たのであり、また二人の女を連れた青年一人、少女一人と四人の子供らを伴っており、そして一軒の空家に自分達の居所を定めたのである。彼らの携行している財産は極めて僅かなもので、全員が同じように毛皮の長衣を着ていた。私は自分の用件を果たして、その人々に別れを告げたところ、彼らはみなボートまで送ってきて、渡すたちはお互いに友人であり、自分たちの家はまたあなたの所有であるから、再びこの地に来て自分を訪ねるように、身振りで示したのである。かくして友好のうちに別れを告げ、私は本船に戻った。」』
同書の著者は微笑ましい交流としている。
著者は上記「サポイ」がなんの意味なのか?疑問視している。
シーボルトらは地名としているが、違う可能性を示唆している。
そこは、この時点で結論出来る程の材料は無い模様。


さて、ここまででのポイントを。

①容姿…
敢えて引用らに含めなかったが、十勝〜千島での各現地人の容姿は共通している様だ。
・多毛である。男は頭の前側を剃り、オールバックで垂らす。
・男女とも耳たぶに環又は糸をたらし、耳飾りを付ける。又、衣服は毛皮の長衣。
・刀,小刀含め、柄や鞘に銀の装飾をしている。
容姿から乗組員らは、十勝〜千島らの人々は同族と考えた様だ。
②住居,携行品…
小型の草や樹の皮で葺いた屋根,壁を持つ住居で、中央に炉がある。
付随した建物らについて記述なく、住居のみしか確認していない。
携行品はほぼ無し。
既に建てられた「空家」を利用しており、建てたりはしていない。
乗組員らには貧しい暮らしと見えた様で、米(欲しがった)をプレゼントしている。
よって、後代にアイノのチセに残された様な漆器らの様な蓄財品は確認されない。
一箇所に定住と言うよりは、何らかの理由で5〜10人程度の単位で、空家を利用し移動している様だ。
③食料…
ここまで出てくる食料は「魚」と「山菜(イタドリ)」、欲しかった「米」。
肉らを食べる様子は記述無し。
家の中も燻製の鮭や鰈や大鮃(オヒョウ)、鱈らは見えるが、それ以外に食料は見当たらないとしている。
燻製等で塩を使っていない事は強調される。
④葬送…
上記の通り、十字架を忌み恐れている。
又、無人の得撫島の記述の様に掘立的な所に遺体を寝かせている様子が見え、「モガリ屋」?と思わせる記述がある。
ただ、これが現地人の直接の墓であるかは記述無し。
何しろ、家の近くに十字架が複数あったり、得撫島が無人なのに掘立建物に遺体があったり、忌み嫌っているのは確か。
何より移動している節があるので、ここで「定住し墓域を設定」とも限らない。
⑤同棲動物…
犬のみ。
野生と思われる狐は登場するが、同棲する動物ははっきり犬のみと記述している。
⑥乗り物…
小舟しか登場せず。
アンジェリス神父の報告にあるような大型船は全く登場しない。
⑦態度…
南蛮人を恐れる,警戒する節が全く見当たらず、むしろ自ら交易を持ちかけたり駆け引きをしている。
挨拶は両手を合わせ礼をする仕草や手を取り合う様な行動をしたりする。
友好的かつ紳士的,謙虚と記述され、原始的な様相は全く無い。
本州同様、当時の大型船を知るかの如く近寄って行って搭乗したりする。
まるで南蛮人を知るかの如く、当然交易に来たと知るがの如くである。

そして…
⑦金銀…
装飾品や十勝の事例の様に、現地人が金銀銅を知っているのは言うまでもない。
では、現地人が金銀を確実に知っている択捉島での酒盛り中の記述で、この項を閉めよう。
カストリカム号はこの後にオホーツク海を北西に進路をとり、樺太へ向かう。
次項は樺太編、厚岸編とまとめを予定。

『彼の刀の金具には銀が嵌めてあったので、どこで、またどのような方法でそれを手に入れたかを身振りで尋ねた。すると年長の女が、第一番に私の言う意味を理解して、次のように教えた。彼女は、自分の手を砂の中に入れて掘り、若干の砂をとり上げて、シッシッという声を発し、それを一つの壺の中に入れ、それから火の中にいれるのだという身まねをしたが、それはよく理解ができた。「カニ」は、彼らが銀を指す言葉であった。そこで、私は再び身振りで次のように示した。あなたがたは、どこで、そのような方法で銀を手に入れたか−と。そうすると、親愛なる未開人たちはアントニー峰を指して、それを入手したのはそこであると言い、全員が確認しあった。』
アントニー峰は「国後島チャチャ岳」。


が、敢えてフリース司令らに言いたい。
「貴方方とコンタクトしながら紳士的に振る舞い、自然銀から銀を精製し、酒盛りをした友人達を「未開人」と呼ぶのか?」…と。





参考文献:

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20