「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる③「樺太編」※1追記あり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544
さて、前項に続き「フリース船隊航海記録」を読み込んでいこう。
前項までは往路の千島まで。
約一週間、千島,国後島,択捉島へ滞在した乗組員達は前々項にあるようにこの後樺太へ向かい、北樺太で反転し復路としている。
また前項に引き続き、『』内に引用文を、まとめまでは「現地人」表記とする。
では、続きを…


南樺太編…
カストリカム号は、夏場の太平洋,オホーツク海の濃霧に悩まされながら、北西を目指し航行している。
但し、この時期を選んだのはフリース司令の才覚なのかもしれない。
何故ならこれより前なら厳冬に季節風、そして流氷の影響を考慮せねばならないと著者は記す。
無事帰還し、報告してなんぼ…これが探索記録をする者にとって最大のミッションなのだから。
但し、この濃霧によるミスはある。
1,北海道と国後島は陸続き
2,北海道と樺太は陸続き
つまり、根室海峡宗谷海峡を見落としている。
実は宗谷海峡が世界地理学上公認されたのは1787年なのだとか。
濃霧から陸地が見えたら、そこは南樺太はアニワ湾だった。

『『前略〜そこへ三隻の舟が本船に漕ぎ寄せてきた。各船には、五人・六人・八人がそれぞれ乗っていたが、いずれも以前に会った人たちと同様の住民であった。"アソルカ・ヤンカラティ"(?‥‥今日は)と叫んで、両腕を前後に動かし、両手をもみあわせ、乗船したいという身振りをした。乗船したエゾ人は、麻布で作った粗く晒していない長衣を着ていたが、何箇所かに赤と藍色の木綿糸が縫いつけられていし、また各自の耳にはいろいろな色彩のアーモジン生地のリボンをつけていた。乗船した住民はたいへん友好的で愉快な様子をし、自分たちの指す陸地に舟で上陸するよう身振りしたが、そこには彼らがタマリと呼ぶ、谷の中に立つ一応村落がみえていた。しかし、私たちの見るところでは、やや豊富な魚ただ一人だけが耳に銀の環をはめている以外には、住民中に注目するものはまったくなかったのである。」』
十一隻来たが、特に金銀を身に付けていないためパスしようとした節があるのだが、また三隻別舟が近寄りその人々が銀を身に付けていた(乗船しない色白な女性は大きな銀の耳環と青玉の首飾りをしていた)ので、その人々が持ち込んだ干物(塩無し)や鮮魚と米,鉄輪の一部を交換した上で、銀の在処を確認する目的でその村落へ上陸する事とし本船を停泊させる。
その中にいた村の長老と思われる人物だが…
『彼は青い木綿の長衣を着ていたが、その背中の面には大きい四角形に日本文字が金で押印されていた。この長衣はいろいろな色彩の木綿糸で縫われ、かつ縁どられていた。彼は自分の背中を指して、読めといったり、その仕草をしたりしたが、私たちの中でそれを理解しうるものはひとりもいなかった。』
実に惜しい!
文化の一端や出自に関わ事でも解かれば…
先に進もう。
この長老と従者とはアラック酒を交わしたようで、
「タコイ・サッキイ・メイレ(酒を飲む事と解釈)」
「タコイ・ピィルカ・タマリ(友人よタマリへ来たれと解釈)」
と叫びながら愉快そうに踊ったそうで。
翌日上陸。
『浜辺には男・女・子供らなどたくさんの住民があちこちから現われ、みんなが友達を意味する"タコイ"という言葉を叫び、女性のひとりは震える声で私たちを歓迎すると言った。一応老男子が、一軒の家から私の傍らにやってきて、手をとり"タコイ・ヤンカルティ"と言い、友好の印として私の腰の回りを親しみをこめて抱き、手に手をとって彼の家へ赴いた。その家は浜辺の近くに接して縁の中に高く建ち、柵をめぐらし格子作りの戸がついていた。家の中では、高くなっている席の上の敷物に私の先に漕いでいた男が座っていたが、白い花模様の青い木綿の長衣を着ていた。彼の妻はその左に座り長衣を身につけていたが、その布地には、たくさんの蝶結びや交錯縫いが、いろいろの色彩の木綿糸で縫いつけられていた。これらの長衣は日本人の帷子のようである。』
『彼は両耳に大きな銀環をつけていたが、彼の妻はもっと大きいのをつけていたので、どこでそれを手に入れたかを尋ねると、私はあなたの言うことがわからない、という意味の"ミニアシアマ"と言った。』
どうもこの家の主がこの集落で一番力を持っていると判断している。
隣の家では、
男→白い眼のついた青色の綿の長衣、
女→幾らか装飾付の麻の粗い長衣。
なんと乗組員、こともあろうかこの女性の今着ている服を入手する為に、水色の玉飾り3連と交換、脱いでもらうと言う荒業を。
勿論、別部屋で着替えてはあるが。
プレゼント物で現地人が喜んだのは、キセルや酒、鉄器、女性はガラス玉の類い。
東インド会社なので、交易品を並べて見せた様だが、この2軒では不成立。
一番欲しがっていたのは『いま自分たちの着ているようなものと同じ長衣がほしいことを表明』…和服又は近いものを欲しがっていた模様。
海岸まで戻ったところで長い白鬚の老人に会い三軒目の訪問をする。
とは言え、組み立て小屋の様で3本の棒で炉を組み、鉄鍋を掛け鮭と野菜を煮ていたと言う。
男二人、女三人、中の一人が子供を抱いていて、その子供は今まで見たことがないほど美しく、首から青小玉の首飾りを掛け、その先には美しい銀の環が2つ(各9オンス)ついていたとある。
アラック酒と煙草を振る舞うと、その鮭と野菜の料理を出してくれたが、乗組員が旨く箸を使えなくて彼の部下に笑われ一同笑いが起こった様だ…が、問題はここ。
『住民のひとりが時々私に"スパノラ"と言ったのであるが、私は彼に答えないで黙っていた。というのは、私の考えついたことは、恐らくスペイン人が以前ここへ来たことがあったに相違ないと思ったからである。』
筆者的に、ここまでで持っていた疑問が疑惑に変わった。
妙に西洋人慣れしている。
全く警戒心が無い。
案外、バテレンは既に道東、樺太、千島に達していたのではないか?と。
先を進める。
ここでは、犬を使った追い込み漁をやっていたようで、食料入手として、犬漁で獲った生鮭それに干鮭,干鰈を持てる最大と、持っていた米,鉄輪部品幾つかと交換に至る。
それを見た周囲の人が"タコイ・カニ"と叫び、鉄器を欲しがった様だ。
翌日、最初に挨拶した最高権力者へオランダ国旗と司令官書簡を贈る為に再上陸。
50人以上人が集まり、贈呈、最高権力者はその書簡を見て嬉しそうに中身を見たとある。仮に我々(つまりオランダ人)がここを訪れた時に、その書簡を見せ国旗掲揚する様に指示したとある。
最高権力者は書簡を片付け旗を掲揚する。
お互いにアラック酒を飲み、ラッパ手はオランダ国歌「ウィルヘルム・ファン・ナッソウエン」吹奏…
筆者感想…干潟インド会社、好き勝手やっていやがる…
この村落は12~13軒の住居があり、その内人が住むのは7軒のみ。
中は一部屋で、中央に炉、屋根に2つの煙抜きがあり、炉の上は燻製小屋の様に魚を干している。塩は全く使っていない。
幾つかの家では上げ床になっており、家の中には日本風の食器棚と刻み煙草、大量の毛皮を確認している。
その他に5~6軒の高脚倉庫があり、中は干魚が収納されていたとの事。
又、墓は家の屋根の様な外観で、高さ3フィート、樹の皮で周囲を閉ざす構造になっているとの事。周溝墓ではない。
生きた動物は犬のみ。
翌日にはここを離れ、東側航行中、小舟が接近。取引であろうが、
『舟でやってきた住民のひとりは、一片の鉱物を司令官に示しそれが銀であるといって、産出しま山を指輪さしたが、そこは私たちの位置から南南西に当り、十四日に見た陸地であろうと推定した。』
この陸地は、日付の14日から想定すると、カストリカム号が樺太アニワ湾に入る時。
彼らは宗谷海峡を確認しておらず、西へは出ていない。
全体的に低丘陵との事で、2つの山を視認している。そのどちらかと彼らは考えた事になる。
一方は解らないが、もう一方はこの周辺で最も高い山…「利尻岳」になる。
カストリカム号は、ここから東へ。北上していく。


北樺太編…
北上すればタライカ湾は「北知床半島」へぶち当たる。
どうも、ここも北海道の一部と誤認の模様。
当日の上陸担当者は助手の韃靼人と高台へ登り、霧の晴れ間に美しい平原と大きな湖水を見たとある。
そこには足跡があり、砂浜におり海岸にも沢山の人の足跡と犬の足跡があったと言う。
ここで墓に遭遇。
『前略〜十個の墓を発見したが、その中にはなお数体の遺体が残ったままであった。これらの墓は極めて奇妙な構造で、樅の厚板で作られ、地上約一フィートの高い四脚の上に乗っていて、下部は矩形の棺で、底部は新鮮な空気が出入りするよう木製の桟造り(シーボルトは格子造りとしている)になっていた。その上に死者が横たわっているのだが、死者の頭の周りには美しく削られた削り掛けの被りものが置いてあった。死者は、古い木綿の藍色の長衣を身につけているが、これは既に腐っていた。その棺内の死体の傍らには、皿や腕、および矢や弓などのいろいろなものが置いてあった。また、箱の中にはどう見てもたべもらしいものがあり、そのほかにも、米をつくための小さい棒や臼が棺内におさめられていた。棺の上部は家の屋根のような蓋でしっかりと密閉されていて、屋根の端には彫刻された棟木がとりつけられてあった。棺の周囲には、両端に細かく彫刻された獅子または竜の頭がついていて、その口には同一材料から彫り出した、一本づくりの木の鎖がつき、四方の隅にはすべて前述のものと同じ彫刻の板がついているのであった。これらの墓に驚いていると、その傍らには、くるくる巻いた木毛と削り掛けの垂れ下がっているたくさんの木の棒があり、その一端はさらに別の棒に固定されていた。』
『さらに前進していくと一軒の家の近くに来たのでそこに入ったが、人はだれもいなかっただけではなく、過去一年以内にはそこに住んだ様子はないように見えた。その家は樅の厚板で作られていて、溝によって極めてきっちり組み合わされており、屋根は急な傾斜をなしていた。また、厚板の上が木の皮で覆われていて、木材は釘で固定されていたが、釘は日本またはシナの釘のような形のものであった。家は小さい一室と大きな方形の内室があり、折りたたみ式の扉がついている。炉が中央にあって、真直ぐその上には煙を出すための窓が二つついていた。その炉鈎は今もなお一条の縄に結びつけられ、炉の上にさがっているのであるが、それは木材の曲ったもので多くの刻み目がついていた。ただこの内側の部屋は日本風のかんぬきにより、戸締りすることができるようになっていた。家の無かったには、削り掛けのついている木の棒が多数さがっていた。家屋の傍らには大きな組みたてた檻が一個たっていて、以前はその中に、何か動物がかわれていたように見うけられた。多くの小さい仕切りがあり、そのなかには飲食用の木槽が今も置かれたままになっていた。またここには、ものを乾燥するための棒が立ててあり、それにはその上で同じように乾燥するために用いる、木の棚がとりつけてあった。』
実はこの墓と家のセットは、この場所の東にももう一セットあり、その家の中には炉鈎以外なにもなかったとある。
何処かで見たことのある様な構造の家と檻のセット。
そう、ここ北樺太で初見なのだ。
南樺太では集落を一回りし、千島でも十軒程度の家屋は記述がある。
が、このセットの記述は、北樺太が最初なのだ。
ここで後発隊が到着し、兵士2名と水夫1名を応援隊として、先の人の足跡を追跡開始。
そこで、海岸に向かってくる小舟を発見するが、現地人が乗組員らを見て大声を上げる。
近寄ると流木に腰掛けた不機嫌そうな武装した男を見つける。
そのうしろには、同様に武装、皮の長之を着た二人の男が立っていた。
上陸担当者は、部下に警戒をさせ一人近寄ると、最年輩者が弓を置き長槍に持ち替えたが、先の場所らの人々を真似て"タコイ・ヤンカラテ"と言い両手を擦ると、その年長者は"タコイ"と近寄り担当者の手をとったので、その手をさすると長槍を投げ捨てた。
後ろの二人は年長者らの護衛又は従者らしく、花柄の絹の日本の長衣は着ているが、それは中国風の肩掛けで縁どられ、その間から絹の婚礼衣装がのぞいていたと言う。
やはり携帯した刀は銀の装飾入り。
酒を勧めつつ、その婚礼衣装を身に着けた二人に大きめの青珠を贈呈すると非常に喜び、小舟を指差す。
そこには美しい容貌の色白で全身毛皮を纏う婦人と二人の男女の子供が乗っていた。
小舟から進むと一人の日本の花柄の木綿の長衣を着た男がいて、その男に日本風の挨拶をすると非常に喜んだ様子。
ここで先の年長者の案内に従い集落へ。
この人物がこの集落の実力者の模様。
彼の家には幾つかの箱があり、その中には大陸へもっていく良質な毛皮が入っていると答える。
ただ、ここでは銀は刀の装飾のみで、婦人らも銅や鉄を使っていた模様。
むしろ、この人々は銀を欲しがっていた様だ。
そして、実力者の大きな家以外は浜辺に数軒の小さな家が並び、実力者の家隣には大きな四角の檻の中に熊が飼われていた。
ここまでが北樺太の交流の一節。
実力者は、その後カストリカム号を訪れ、司令官と交流した様だが、途中急いて陸に戻ったとある(理由は不明)。
担当者は、この実力者を聡明な人物と考えた様だ。
カストリカム号は3日程度この周辺を探索し、進路を南に向け、帰投開始する。


さて、またここまでのポイントといこう。

①容姿…
髪型や耳飾りらは共通なのだが、大きな違いがその長衣。
千島らでは毛皮を着ていたが、ここ樺太では南北共に和服を着ていた点。
そして、交易品としても和服を欲しがる記載は上記通り。
これはバテレンらの報告でも「米等食料、衣服、鉄器や鉛を入手しに来る」事と一致する。
勿論毛皮も着てはいたが、北樺太らでは一般的ではなさそうな感じである。

②所作…
挨拶らで、ここ樺太で「揉み手」が登場する。
これは、南で学び、北で実践…これで通じているので、樺太共通の所作なのだろう。
千島らで通じるかは未知数。
基本的には煙草とアラック酒を勧める事が主なので、人懐っこい人々の場合はそれでOKではある様だが。
北樺太では、あからさまに警戒されている。むしろ、この反応が普通なのではないかと考えるのだが。
と、重要ポイントととして「スペイン人が先行して訪れた」事を乗組員達が示唆している点。そう「エスバニャ」。
抱擁や手をとる挨拶を樺太の人々は知っていた。
同時に、年配者の中には「日本風挨拶」を喜んだ者が、上記以外に北樺太で数名いた様だ。
松前藩の記録に「往古混生していて、後に分かれ暮らす様になる」…これらの時期をどう読むか?でも考察は変わってくるかと考える。
不思議なのは、本書でも、北と南でその影響力は北→大陸、南→本州とされている。
確かに北樺太の実力者は大陸への高級毛皮の納品を語っていたし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
樺太場所が開かれたのは1790年ではあるが、1603年段階で宗谷に松前藩役宅が、1684年に宗谷場所開設。
この1643年段階で、役宅からの影響は南樺太ならあり得るかも知れない。
この辺は松前藩古書との整合は必要ではあるが、主な取引先が南北で分かれるのはあり得る。
実際はどうなのか?

③家屋や墓…
幾つ家屋が記載されているが、概ね一部屋の家屋だったのに対し、北樺太で二部屋の家屋が登場する。
これには、檻がセットされていて、熊送りらの風習に直結しそうだが、その登場は同様に北樺太
勿論、一事が万事ではないが、より大陸や北方との繋がりが濃いとされる北樺太でこれ。
南では5~60人も居そうな集落に、その気配が無いのも事実だし、千島にも見当たらない。
なら、この風習は、北樺太系の人々の影響、又は北樺太系の人々の本道流入での混雑段階で広まる可能性も出てくる。
1643年では、その風習は地域限定があった可能性だ。
勿論、その時期らは不明ではある。
ただ、松浦武四郎の記録で樺太からの人の流入は示唆されていたかと思う(楽器の一節)。
と、するなら、宗谷場所開設で労働人口の増加による流入の線も出てくるのではないだろうか?
また、墓についても、北と南で差が出ている。
南→屋根が目立つ住居の様なもの
北→高床式で装飾のある棺
これ、現状、発掘調査報告書らに記載ある土壙墓と合致しないのだ。
千島でも一箇所高床式の墓の報告をした。
これは、樺太,千島と本道の差なのか?
近代アイノは土壙墓で墓標があったが、別の風習なのであろうか?
とすれば、地域差を考慮する必要が出てくる。
ガリ屋を連想させたり、即身仏でも作るかの如くの樺太,千島と、本道の違いは何なのであろうか?

④金銀…
南樺太では銀の採取が記載され、北樺太ではむしろ欲しがったとある。
確かに身の回りの装飾らで、その量にあからさまに差は出ていそうだ。
利尻富士らに鉱山?があるならば、南北差は出てくる可能性はある。
北樺太で、あれ程他者に警戒しているなら、採取場所の取り合いらも当然出てくる。
その辺も今後南蛮人の記録を追ってみたい部分でもある。

④住居居住率…
千島編でもあったのだが、集落にある住居がもぬけの殻、こんな記述が多いのに違和感はないだろうか?
北樺太では貴重な鉄釘まで使った住居が、推定一年は誰も使った様子が無い…これが非常に引っ掛かるのだ。
建てたのは彼らなのか?と言う疑問。
千島ではむしろ、「そこに家があったから引っ越した」と言わんばかり。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
ここにある様に「北海道に定住者は居ない」…これを裏付けるが如く。
本当はどうなのか?


上記の通り、カストリカム号は復路として千島経由で、北海道へ向かう。
筆者が考えるクライマックスである「厚岸編」はこの後になる。
読み進めていこうではないか。

※1追記
大事な事が漏れていた。
「文字」である。
・背中の日本文字を読めと見せる者…
・司令官書簡を見て喜んだ…
文字が使えた可能性がある。
百歩譲って読めなかったとしても、それが文字であり手紙である事は理解していたと考えられる。
いや…
読めた可能性は高い。
後の時代の樺太の乙名には、モンゴル文字を駆使した者がいて、朝貢の書簡が残される。
最低限、一部支配層でモンゴル文字は読み書き出来た訳だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
「赤蝦夷風説考」にも、カムチャッカ出身で、かなを駆使する者が登場する。
こうなると、「文字がない」ではなく「識字率」が低い…こう表現すべきではないか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651
本道においても古い時代には、低い識字率なりに文字が駆使出来た可能性はある。
これは事実である。








参考文献:

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20