「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
さて、1643年の北海道〜千島〜樺太の姿、カストリカム号は復路に向かう。
続けていこう。
航海図での記載は、乗組員達がコンパニースラントと言った「得撫島」から先に上陸した「択捉島」に戻ったところで終了し、後、『日本から、彼らは金を産出する島々を求めて、東の方向に航海する予定である。』と注記されている。
択捉島への上陸は濃霧で出来ず、歯舞諸島志発島?で船の修理らの木材取得を上陸したが、樹木なくNG。
そこで、西へ進路を向け、北海道へ向かう。
往路で確認していた、厚岸の大黒島へ至り、砂州と湾になっている事を再確認。
ボートとランチで探索に向かう事になる。


⑤厚岸編…
『私たちは数軒の家を見出したが、それは本船の南側に位置する一集落で、烟があがっているのが見えた。そこでボートとランチでその場所に漕いて行ったが、その村の近くに着く前に、二隻に分乗した住民が、私たちに会おうとしてやってきた。そのうちの三人が、こちらのボートに乗り込んできたので、一緒に彼らがアッキス(アッケシ・厚岸)と呼ぶ村落に向かった。最高権力者とともに彼の家に入ったが、彼の名はノイアサックと言った。家の中で彼は、若干の調理した鮭をふるまってくれた。彼の隣人たちが、私たちに挨拶するためにやって来た。』
ここで上陸担当者は司令官へ厚岸湾内へ入る事を進言し、直ちに実行にうつされた。
『住民が乗船してきて、たくさんの牡蠣をもってきてくれた。司令官は、"このように慈悲深くわれらを守護し、またこれからもわれらを保護してくださるゆえに、天なる神に感謝いたします。アーメン"という祈りを捧げた。私たちがお祈りしているうちに、多くの住民が本船に乗船していて、慎み深く座って傾聴していたが、祈りがさらに長く続いたので、黙って立ち上がり陸地に帰っていった。』
翌日、午後に厚岸の乙名ノイアサックはもう一人の長老と共に司令官へ表敬している。その時、
『前略〜司令官に向かってテーブルに腰をかけ、銀のスプーンを手にとって合図をし、彼の言葉で言った。"これは良い銀だ。"と。そして、どのようにして銀を掘り出し、篩にかけ熔解され、このスプーンのような銀になるまでの過程を明確に演じてみせた。そうして、それがこのアッキスから西南西で掘られるが、鉱物のあるところはシラルカと呼ばれている、と教えたのである。』
『(筆者註:事前に上陸し食料確保部隊を派遣)狩りに出かけたひとびとが、本船に戻ってきて、動物は何も見掛けなかった、と報告したが、漁獲に出た方はたくさんの魚を本船にもち帰ったのである。その中には、多くの鮃の類・小鰈、鰈の一種と大きいチョウザメが一尾まじっていた。また、一行はいくつかの村落を発見したがそこには人がいなかった。』
・銀はシラルカ(白糠)で採れ、ノイアサックらは銀精錬を知っていた…
・獣は薄く、魚影は濃くチョウザメも捕れた。(牡蠣は湾内に「牡蠣島」あり)…
無人の村落が幾つかある…
本船には住民がやってきて、牡蠣やハマナスの実を持ってくるので米と交換したとある(女子供も来ていた)。

さて、進む。
『それから嶮岨な地点へ向った。そこは本船から北東微北六分の五マイルほどの位置で、入江の北西点に当り、そこ岡の上には一基の構築されたとりでが建っていた。その後方には、八軒ないし十軒の家があったが、その中にはまったく人が住んでいなかったし、この一か年間は人が住んだことがないようにみうけられたのである。この村落から南西微西に当たる幅半マイルほどの川の対岸に二たつの村落があり、各村落の近くの山上には同じように造られたとりでがたっていた。これらのとりでは、次のように構築されている。寨は山の頂上に建てられていて、そこまでは登りにくい一本の細い上り道があるだけであった。そして、方形の防御柵が、人の丈の一・五倍の高さに造られ、その柵の中にはニ、三軒の家がある。防御柵には、大きなカスガイのついた松材の大きな扉があり、これを閉ざす時には太い二本のカンヌキをカスガイに通してとめられるのである。これら方形に造られた防御柵のニ隅には、松材で造られた足場が建てられているが、それは、その場所から見張りをするためのものであった。さらに、防御柵はすべて交叉する梁で補強されていた。』
『前略〜船長が住民のノイアサックとふたの息子とともに、西南西に航行していったこと、ノイアサックに一枚の、日本の絹の長衣を進呈するという条件で、銀の採掘される場所を教えると約束したことなどを知ったのである。~中略〜別の鬚のもじゃもじゃ生えた老人がやってきて、司令官が自分に着物を一枚か二枚くれれば、また鉱山を教えてもよい、と言った。そこでそれを彼に与えて、私たちのボートに乗り組ませた。下級商務員のピッタブンがそれを確認するために、彼といっしょに派遣されることになり、カストリカム号から共に出発した。〜中略〜本船の船長がランチに乗って、本船にもどってきたが、これといってまとまった成果はなかった。住民かま病気になった振りをして、誰とも奥地へ行こうとはしなかったからである。〜中略〜その後すぐ、本船のボートも帰ってきた。ボートは入江の中のモヨモシェルという小さな島の近くに行ったが、そこでその老住民は、勢いよく流れている清水の小さい流れの近くの浜辺をさぐるように、彼らに身振りで示したが、そこを掘っても浜辺と同じ砂以外はなにもみつからなかった。彼らがこのような申し出をしたのは、望みのものを手に入れようとしていたことにすぎなかったのである。』
・チャシ三基登場、が、既に集落と共に無人化していた様だ。
・ノイアサックや老住民は、欲しい着物を入手するために狡猾に取引をしている。結果着物は入手した。結局動かなかったノイアサックは代わりに牡蠣とハマナスの実を差し出したとある。
で、ノイアサックの弁明はこうだ。
『私たちは原住民から、銀はシラルカ(筆者註:白糠)で、金はタカプシ(筆者註:十勝)で入手できることになっているが、そこの住民は自分たちの敵なので、ノイアサックはカストリカム号のひとびとと共に、敢て行かないのだ、ということを聞き知った。彼らはさらにまた、すべての村々や家々からここにやってきたひとびとが、飢えと寒さのために死亡したことも語った(この事実は「要約記録」によれば厚岸でのことである)。また、クーチアエール(筆者註:襟裳岬から川の流入する入江とされ場所が特定されていない)はタカプシ付近の村落、または場所であって、そこの人たちは自分たちの友だちであるが、彼らの言うところではそこには金属はないそうである。』
・白糠、十勝と厚岸は敵同士、クーチアエールとは友好関係にあるが金銀はない…
・チャシや周辺村落の人々は、飢えと寒さで全滅…
この文を見ると、乗組員達はノイアサックらの弁明を全面的に信じている訳でもなさそうな。
この時期、乗組員は厚岸湾内に注ぐ川をボートで遡り、食料や燃料,補修用木材の調達をしており、自然らも報告している。
稀に数軒の住居らを発見しているが、無人であるとしている。
では進もう。
クライマックスである。
松前藩役人の登場。
『夕方ちかく、私たちがカストリカム号にもどって、その舷側に日本の貨物運搬船を見たが、それには大いに驚いた。そして本船の中で、私は以下のことを耳にした。
その帆船は昼ごろ到着していたのだが、その船頭の若い一日本人が、部下の水夫六名と共に本船にやってきて、オランダ人が日本に交易にやってくるように、自分はここに交易のためにきたのである、と語った。そして、エゾ地のエロエン(エリモ岬)の西方に位置するマチマイと呼ばれる所から来たのである、と。松前には日本人の支配者がいて、その場所は日本人によって統治されているのである。しかし、この人たちは、毛皮・鯨油および油脂の取引きのために当地へきたのであった。司令官といくらかの話し合いをして、船室に自分の上衣と刀を置き、それを明日とりに来ると言いながら、自分の船に帰っていった。彼らの積荷は、米・衣服・酒・煙草等であり、またエゾアン(エゾ人、アイヌ人のこと)の耳に付けるため、彼らに贈る鉛の鐶を積んでいた。彼はまた、自分は日本人の父から生まれているが、自分の母はエゾ出身であり、日本語と同じくエゾ語をも話している、と語った。さらに、タカプシやシラルカにはたくさんの金があり、おのおのの場所から産出した、小さな山金(自然金か)の一片を司令官に贈った、と。また、彼の土地であるエゾは一つの島であると語り、スケッチブックの中で見られるように、その形を記憶によって、鉛筆で用紙の上に、日本の地形を付して記入したのである。』
『また、マツマエドノは、松前に自らの政府をもっていて、その近くには良港があり、カメンダ(亀田・函館のこと)と呼ばれている、と。そして、松前殿は、毎年皇帝のところへ行くのであるが、皇帝への貢物として毛皮の贈物を持参する。彼の航海は、海上をゴエレー岬をいく文か南に越え、ナボ(南部)までいき、そこから陸路を江戸の居城まで旅するのである、と語った。彼はエゾ人の言うことを確認して、クチアエールには鉱物はないが、シラルカには銀と金がある。また、タカプシには金があるといい、エルビスボルボビスという別の二か所の地名をあげた。』
『前略(筆者註:翌日)〜日本人は再び本船上に来て、船を観察したあと、再度司令官と話し合った。司令官のベッドの前に下がっている、描画のついたつや出しサラサのカーテンを、それで財布を作るだけの大きさがほしいというので、白いダマスク布と黄色いアーモジン布、およひ彼がたいへん好みを示していた大盃を与えた。彼は貴下の船をもって松前に来なさい、そしてそこへ、このような品物をもってくれば、ほしいだけたくさんの銀を入手できるだろう、と言った。司令官が鉱物の小さな一片を示すと、彼はそれをどこで入手したかを尋ねたので、ノヴァ・スパニア(メキシコ)で手に入れた、と答えると、そのとき彼は"カニ・ノヴァ・スパニア"と言った。本船を去る時にオランダの金属容器を見た彼は、それにたいへん心を惹かれたので、私たちはその代償として十俵の米と中国製陶器の水指し一箇と交換したのである。』
彼の名は「オリ」と記載される。
この先、ノイアサックの狡猾さを物語るエピソードがあるが、もう良いだろう。
この先カストリカム号は補給を終え、松前には寄らずに南下、①背景編にあるように台湾経由で帰投する。

ではまとめてみよう。
①容姿…
厚岸では長衣以外での記載が無いので髪型や耳環らの有無が解らない。
が、樺太や厚岸では和服(又は和服を欲しがる)、十勝と千島は毛皮が多い。
ノイアサックは十勝とは敵同士といっているので、和服系と毛皮系に分かれるのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207
林子平は「三国通覧図説」で、衣服の違いは階層の差とも記す。
これだけでははっきりとは言えない。

②所作…
カストリカム号は基本的には東インド会社の交易船で、商人である要素も持つ。
ノイアサックや老住民の行動、取引成立の有無ら、現地人は西洋人相手であろうが、全く怯まず交渉を行うし、狡猾さもちゃんと備える。
これを「未開人」と言えるのか?
巷のイメージで色眼鏡を掛けるのは如何なものか?
筆者的には、本州人も西洋人もなにも変わらない。
騙し騙され、その中で少しでも優位に交渉を進めるのは当然の事。

③チャシ…
乗組員達は、厚岸でチャシと付随する住居跡を目撃している。
そこには誰も最低限一年は誰も住んではいない様だ。
それに対し、ノイアサック達は「飢えと寒さで皆死んだ」と答えた。
ここで一つ問題がある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/20/185453
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
1611年と1640年、この一帯は津波に襲われている。
カストリカム号がここに来たのは1643年。
実は直近の津波から3年しか経っていないのだ。
つまり、ノイアサックは津波の事を知らなかった可能性がある。
勿論、チャシと離れて「海辺に村落がある」ノイアサック達、チャシを運用した人々とは違う集団と言う事になるだろう。
なら、ノイアサック達は何時、何処から厚岸に来て暮らす様になったのか?
実に不思議なのである。
海辺に昔から暮らしていたなら、津波の直撃を食らうのは、チャシ周辺の住民ではなく、ノイアサック達になるのだが…はて?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
ニ風谷遺跡からの一連報告しているが、チャシの構築者と、後に暮らす人々は別の集団ではないのか?と考察していたが、ここ厚岸でもそんな危険性が出る。
「彼らは何故生き延びる事が出来たのか?」知りたい。
ここはまた、他の事実と照らし合わせ、学んで行きたい。

松前藩役人…
何気に記載していたが、気が付いて戴けたであろうか?
松前藩役人で船頭の「オリ」は、抜荷をしてしまっている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
改めて…
厚岸場所が開かれるのは1624年。
清・オランダの外国船入港を長崎にげんてしたのが1635年。
故に、南部領に立ち寄った僚船「ブレスケンス号」は拿捕は免れたが、船長以下が捕縛され、江戸送りに。
本来なら厚岸湾で拿捕すべきところを、わざわざ松前へ立ち寄れと誘っている。
この「オリ」と言う人物、松前旧事記や松本胤親編「北海鳥舶記」等に基づく「通航一覧」に、
松前藩吏小山五兵衛
・船頭弥兵衛
このどちらかではないかと想定されるが、「オリ」又は「オェリー(要約記録の記載)」とは違う為にはっきりはしないそうだ。
この辺の脇の甘さが、松前藩の悪い部分だとは考えるのだが。
何故なら幕府から「抜荷疑惑」があったのは、今までも見ている。
更に、銀を流出させる事態となれば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/27/200716
バレれば最悪取潰しを食らいそうだが。
更に…
「オリ」はこの段階で松前藩の父と蝦夷衆の母を持つと言う。
最早そんな風に結ばれる事があった事になる。
それでも藩吏又は藩専用船の船頭…
従来、考えられているより拘りは無かった可能性も無きにしも非ず。

⑤その他…
乗組員達の報告に拠れば、現地人が毛皮を採る為に狩猟をしたのは「冬限定」としている。
獣を食べる事が出来たのは「冬だけだ」と結論付けている。
理由は簡単。
各地で獣を狩り、食料として得ていた乗組員らは、鉄砲を持っていたにも関わらず全く狩りに成功していない。
森が込み過ぎる上に、草の丈が高い為に捕獲不能との事。
勿論、罠を仕掛ける手もあるが、簡単ではないと彼らは判断している。
まぁマタギや狩人も猟期は冬ではあるが、マタギの場合は良質の熊胆を得る為に冬。
マタギは薬師。

さて、つらつら書留てみたが、どうだろうか?
この「現地人」が、江戸中期に描かれた「蝦夷の人々」「アイノ文化を持つ人々」の直接の先祖となれば、直接接触し話をした貴重な記録になる。
・定住性の無さ…
・墓性の違い…
・殆ど魚を食べ、獣食の記載が殆ど無い…
・熊送りは北樺太のみで、犬以外の動物が居ない…
・大量の銀製品とその精錬能力…
・この後起こる火山噴火の連発…
これら微妙な部分や差はあるが、容姿らだけで見れば、千島や樺太に居た人々が流入しても解らないかも知れないとは思うのだが。
実はこの直後位に、ノイアサックが言った通り、敵対したメナシクルとハエクル,沙流連合の抗争が始まる。
そう、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)の直前がこんな姿で、既に敵対する集団間のくすぶりが見えるではないか。

一応、ここで「フリース船隊航海記録」についての報告は一段落、今度は他の西洋人報告を見ていこうと思う。
では最後に、もう一つだけ引用しよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/065746
初期の頃の疑問への答えがあった。
頭を振り、髪を風に見立てる「風の踊り」があるとか…
『ここの住民は、鬚をもじゃもじゃ生やし、頭の半分は剃っているが、その後方は長くのばしている。また女の頭は、剃ってはいるが、残りの髪を渦巻き型にまとめている。』
厚岸の女性は、髪を纏めていた。
他の文化が入る後世か、別の集団だと言う事になる。
つまり、風の踊りはこの時代、厚岸では成立しない。

以上…







参考文献:

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20