1611年の北海道の姿…「ビスカイノ金銀島探検報告」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
さて、4項に渡った「フリース船隊航海記録」。
が、これだけで終わったら面白みも半分。
「セバスチャン・ビスカイノ」と言う人物を覚えているだろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907
実は「サン・ファンバウティスタ号」に関連した人物なのだ。
先にフィリピン→メキシコ行きで難破した「ドン・ロドリゴ」。
上総国の人々に助けられ何とか生き延びる。
それに対するメキシコ副王からの感謝状を携え来日したのが、この「セバスチャン・ビスカイノ」。
彼は将軍秀忠公、大御所家康公らに謁見し、感謝状らを渡す外交使節団。
その後、家康公より朱印状を賜り、日本近海での測量や「金銀島探索」の任務を行った。
将軍,大御所からメキシコ副王への返書も入手し、帰投…嵐に合い、なんとか浦賀に戻るが、帰る船が無い。
ここで、救いの手を差し伸べたのが、フランシスコ会の「ソテロ神父」と「伊達政宗」公。
サン・バウティスタ号建造にビスカイノを参加させ、ノウハウを戴く代わりに、メキシコ(ノヴァ・スパニア)まで同行し帰投した訳だ。
で、その時の建造に携わったと思われるのが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/03/080215
後藤寿庵」と考えられており、我々の大好物が揃っている。
この様な背景でメキシコから派遣&金銀島探検で来日、帰投している。
では『』の中を引用文として、また進めて行こう。

・田中勝介…
実は、このビスカイノの来日に当り、ビスカイノの船「サン・フランシスコ号」には、日本人22名が乗船している。
京都の商人「田中勝介」ら。
大御所の命で、ドン・ロドリゴの帰投に同行した日本人初の「アメリカ大陸訪問者」。
ラドロン(マリアナ)諸島まで来たときに、それまで特段問題がなかった乗組員達が争い出す。
『但し前記日本人等は最初、特に厨爐の間に付水夫等と争ひ、暴力に訴えんとして争論の端緒を開きしが、前記司令官(筆者註:ビスカイノ)は之を沮止し、命令を発してイスパニア人の日本人に害を加え之に對し手を出し、又争の機會を興ふることを禁じ、若し背く者あらば死刑に處すべきを告げ、日本人にも亦同一の命令を発したり。』
厨爐…食事か?又は些細な事か?
争いあらば死刑。
不満はビスカイノが調整となった模様。
この命令で日本人は「羊より温和になった」とある。
そんな中、田中勝介は「善良なる態度」で周囲の尊敬を集めていた模様。
田中勝介が、将軍や大御所とビスカイノの会談の仲介役をした様だ。

伊達政宗との出合い…
これが「伊達者」の本領発揮である。
将軍との会談らを終え、江戸の聖堂へ礼拝に行進した時に、二千の兵と騎馬武者で待ち受ける武将が居た。
伊達政宗」である。
ビスカイノを見ると、政宗は馬から降りて使者をビスカイノへ。
要は、彼等がもつ銃2発の空砲を撃つ事を願った。
ぶっ放すと、馬は驚き乗手を落馬させ、市中の者も地上に伏せる…
政宗家臣団や他の者は大爆笑となる。
空砲を撃ったビスカイノに対し、政宗は膝を屈し謝意を述べ、家臣団共々丁重に挨拶しながら通行したとある。
あまりに統制のとれた態度に感動したようで、『彼等は世界の諸国民に優れ、特に貴顧の間に於て然りとす。』とある。
この1611年段階では、キリスト教禁教までにはなっていない。
聖堂のミサに多数の日本人が列席し、壮厳だったとある。
さて、ビスカイノ率いるサン・フランシスコ号は浦賀から測量しつつ北上し、場合により諸大名を表敬している。
勿論、陸奥では政宗の待つ青葉城へ赴いたが、会津の蒲生秀行や米沢の上杉景勝らにも会い、会食したりしている。
蒲生…肉を出し、一緒に食べたとある。

・慶長大地震
実は、この会津訪問、大水の直後だった様で、この前の月に慶長大地震があった様だ。
サン・フランシスコ号は海上に居た時期で問題なかったが、『前略〜前月大地震ありて、其域及び市内二萬戸以上の家屋破壊せられ、臣民は今其修繕中なればなりと語り、〜後略』
会津城下でも2万戸以上の倒壊…
この大地震津波が北海道でも検出されている様なのだ。
三陸沿岸は、場所により村落が全滅に近い被害を受けている記録が残される。
この辺は3.11を経験した現代の我々も、何となく想像可能だろう。
現代の鉄筋コンクリートの柱のみ残し、全て破壊した様を知っていれば、当時の木造建築なぞ倒壊の上に何も残らず流されるであろうと…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
だから、こんな風に「生き延びる事が可能だったのか?」と疑問になるのだ。
江戸期の陸奥国は時として、神の怒りに触れた如く天災に襲われている。
現代の東北太平洋側の人々は、そんな地獄の様な時を生き延びて命を繋いだ人々の末裔なのだ。
毎度書いているが、北方警備の時とて、飢饉の最中とも言えるのだ。
そんな背景は、この地震も含め、北海道〜東北の関連史には組み込んでいる。
北海道に一大事あらばいの一番に駆けつけたのは津軽藩南部藩だったのをお忘れなく。
因みに、この時の悲惨な状況は、この「ビスカイノ金銀島探検報告」にも記載はあるが、敢えて引用等はしない。
北緯40度近い所では30m89cmら、彼等が観測した津波の痕跡を記載している。
ご興味が出た方は一読をお勧めする。

松前蝦夷地…
松前蝦夷地への記事のほぼ全文は下記の通り。
実はこの北緯40度付近で、湊になりそうな所で興味深い記述がある。

『しれは此處に於て山に住み猪皮の靴を履き領主に對しては甚だ従順ならざる土人に就きて、北及び北西の方に至る路程なんにを要すべきか尋ねたり。』

彼等は、先に進むと二国、南部殿と松前殿の所領と答えたと。

『土地甚だ廣大にして三十日以内に國の終端に達すること能はず、又両國を過ぐれば海岸は西に轉ず(筆者註:転ず)と言へり。彼等は磁針の四方即ち北南東西を知り之を使用す。又此國の端より高麗Coriaの端に到るまでの距離は短く六十レグワ以内にして、韃靼Tartariaに到る前の海峡に大きな島あり、蝦夷Yezoと称し生蕃の如き人民居住し、全身毛を生じ只眼のみを露出せり。彼等は一年の一定時期即ち七八月に日本に来り、魚類動物の皮其他交易品を持参し、綿其他彼の島に必要なる品を求むるの習慣なり。年中他の期節には此海峡を渡航する能はず、暴風及び潮流船を顛覆し難破せしむるが故なり。此海岸の最も強き風は西及び南東にして、潮の干満其他海の事はイスパニヤに於けるより約一時間遅れたることを発見せり。
司令官は此地に於て航海士等と協議し、前記の如き好位置に此の如く良港多数を発見したること、又は進んで南東の海岸に於て発見することを得べき港湾は此海岸に就きて見たる所に依れば、四十度以上に在り、又土人の言に従へば五十度にも達するが故に、フイリピン諸島の貿易船に取り利益少なきこと、又十ニ月となり此位置に於ては寒気及び雪甚だしく、山は白き衣を着け、小川は二日の間に氷結して流れざるの状を示せるが故に、雪及び寒気一層加はらざる前に浦川(筆者註:浦賀の事)に引還すことゝし仙臺の市より同所に到る海岸の水深を測量することに決したり。』

…南部の現地人G.Jである。
ビスカイノ達は、この北緯40度付近より北には航行しておらず、この人々の話を聞いただけである。
時期の要因も大きいが、ここで南蛮人に、北東北〜北海道を荒らされずに住んだのは大きい。
何せまだ、スペイン人もポルトガル人もウヨウヨいるのだ。
まぁ…これで当時の北海道を知る事が出来なかったのも大きい痛手ではあるが…


でも、おかしいとは思わないか?
津軽海峡は、縄文の御先祖すら「塩っぱい川」でしかない。
当然、十二月に入るところなので、荒れ放題にはなるが、時期をズラせば黒船なら楽勝なのだ。
何故、この「領主に対し従順ならざる土人」達は、断念する様な事を言ったのか?
不思議ではないか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
出羽、秋田の象潟からは「稼いでくるわ🖐」感覚で北海道へ向かっている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/19/112656
それは、筆者が「海のフィールドワーク」をしているからこその疑問なのかも知れないが。
この辺、出羽と陸奥での、感覚の違いが妙なのだ。
解せない。

一応、この原文はビスカイノがメキシコ副王に対し提出した報告書を、同期〜後世に再編纂したものらしい。
さて、ビスカイノが会話した南部領で会話した人々とは、何者なのだろうか?
ここに後の地図らで「狄村」とされた所は無いハズ。
北緯40度なら盛岡から東に向かった辺り。
ガチの南部領。
宮古〜久慈の何処かになりそうだが。
そこで西洋人とものおじもせずに会話した「領主に従わざる者」…何者?
勿論、ビスカイノ達、西洋人が先行知識により既成概念に捉われていた可能性もある。
が、彼等は異邦人であり、全く民衆とは利害関係がなく、第三者の眼で見書きしているのも確かなのである。

とりあえず、「ビスカイノ金銀島探検報告」への報告は、ここまで。
他の西洋人報告はどうだろうか?
これらの面白みは、各文献に「引用された部分」ではない。
「引用された部分」の前後が面白いし、興味深いのかも知れない。

改めて…
ビスカイノの探検は1611年、報告書提出日付は1614年。
フリースの探検は1643年の事である。





参考文献:

「ドン・ロドリゴ日本見聞録/ビスカイノ金銀島探検報告」 村上直次郎 奥川書房 昭和16.12.10