北海道には文字がある、続報6…「松浦武四郎」が記す、「片仮名」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453
さて…
2022年も始まり、久々にこのシリーズを行ってみよう、「北海道には文字がある」…
たまたまなのだが、「松浦武四郎」の「蝦夷日誌」を読んでみた。
勿論、これは引用される文献の引用元まで遡れ…と言うのがその目的なのだが、いきなり松浦武四郎がそれを記していたので紹介しよう。

関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/192041
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
今までも、
・擦文期の余市「大川遺跡」や札幌「サクシュコトニ遺跡」の墨書,刻書
・江戸期の樺太蝦夷「ヤエンクル」の満蒙文字
・フリース船隊航海記録にある樺太蝦夷の文字
らを紹介した。

では、引用してみよう。
様似から広尾へ向かう新道についての一節である。

「前略〜文化十戌午の年、近藤守重切開て一株の碑を立置しを、松前家へ復すや、其碑を取捨たり。實に遺憾ならずや。拓本一枚を得れば、今爰にしるし置きに、

おぼへ
このみちわはまどおり、
テレケウシならびにチコシキリとうのなんじよありて、
わうらいのものなんぎすべきによりて、
このたびあらたにきりひらきたるあいだ、
このみちわうらいのもの、
ひとゑだの木、
一本のさゝなりと、
きりすかして、
ながくわうらいのためをこゝろがくべきものなり。
寛政十年午十月 近藤重蔵(花押) 」

「如レ此平仮名をもて誌るす守重の識感ずべし。惣て往来等の事はかく有度ものなり。然るに其事を土人に話したれば、守重ニシバ爰え和人字にて昔し立置しが、其故に松前の役人取捨た也、是を土人字にて書て建置れなば、松前領に成たとて取捨られはぜじと云が故、其土人字とは何ぞと聞に、片假名の事なる由。其故は今に土人の名前また村名等皆片假名もてしるせばなり。」

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

この話は、近藤重蔵(守重)が、最上徳内らと東蝦夷地巡視の際、択捉島の標柱設置から帰着後にここを通り、余りの道の酷さと風雨で足止めを食らった事から、通詞及び蝦夷衆の案内役と相談、自腹で蝦夷衆を集めて開墾したもの。
寛政十年は1798年、まだ幕府直轄ではなく、松前領。
近藤の独断である。
が、これが北海道に於ける新道開拓の第一号と言われる。

さて、上記で解って戴けたであろうか?
松前藩は、近藤重蔵最上徳内を快くは思っていなかった。
なので、取っ払う事を想定して蝦夷衆に「土人字」とはなんぞやを確認したところ、「片仮名であると答えた」為に片仮名で碑文を作った…である。
碑文を見て戴けたら解る通り、永く使えるように、通る時に一枝でも笹一本でも良いので採る事を心掛けて欲しいとしている。
ここを使う人々全てが読める様に「土人字」で記載した事になる。

実は、この「蝦夷日誌(上)」にで、わざわざ土人記載に「アイノ」とルビを打っているのは、ざっと読んだ処、3箇所。
その内の2歌詞が上記の「土人字」に対してである。
実際、これを読む限りでは家らでは「人家」「出稼ぎ家」「夷家」等書き分けしているが、人々を記すには「土人」としており、ルビは無い。
筆者が取った印象は、もはや共生しており、「渡って住もうが蝦夷衆だろうが、そこに住んでるなら土人」と言う感じ。
言えば、宗門改に登録していない「旅人(これは新北海道史らでも表記あり)」に対する「対義語」ではないか?と言う感じ。
生活に使う道路なので、全員読める事が必要と言う事だ。
いずれにしてわざわざ「アイノ」とルビ打ちなのだから、松浦武四郎は「アイノ文字は『片仮名』だと認識」していたと言う事になる。

松浦武四郎が北海道を回ったのは、近藤重蔵らより数十年後。
当然有珠善光寺も等澍院も三官寺にはなっていない。
幕府直轄領前に「片仮名」を使ってたとすれば、
①元々蝦夷衆は往古より「片仮名」を読めた…
②乙名や小使等、運上所に関わる者は業務上「片仮名」を覚えていった…
③三官寺より先に、寺子屋的に「片仮名」を教える場所があった…
これらのどれかではないだろうか?
「片仮名」が読めたなら、有珠善光寺に残される「念仏の版木」と話は合致する。

実際、考えて戴きたい。
請負人とやり取りしたり、そこで仕事をする上で、全く文盲で仕事になるのか?
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
松前の役人の中に、父が藩士、母が蝦夷衆…
また、乙名が婿として本州出身者を取ったらの話がある中、それらの人物が読み書きそろばんが出来ない事が有り得るか?
帳簿も付けられない者が運上屋で働けるのか?…
これらを鑑みれば、識字率の問題あろうとも、少なくとも役土人と言われた人々は「片仮名」であろうとも文字が使えたと考える方が蓋然性は高いと思うが。


どうだろう?
一事が万事、万事が一事ではない。
が、紀行文と言う性質上、有力な指摘だと思うが。
で、あれば、何故明治らでわざわざ文字が無い事になっているのか?
そもそも読み書きそろばんが出来るなら、普通に松前なり函館奉行所なりの役人側に回る事は可能だろう。
当然、出来ない者が取り残される事になる。
結果、一般層での識字率は下がる事になるが…
こんな考え方も可能なのではないのか?

改めて…
これらは、まだ幕府直轄領化の前の話である。
同化政策で「平仮名」を知っていた訳ではない。
「北海道には文字がある」…
まぁゆっくり探して行こうではないか。






参考文献:

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15