東蝦夷地の「ヲキクルミ」への信仰は二種…編者が註釈する当時の認識

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
さて、蝦夷日誌のまとめとして、ちょっと巷で聞かない雑学的な話を備忘録的に書いておく。
ヲキクルミを神としない人々が居るのだ。

結構、註釈された内容が面白いのだ。
勿論、編者の吉田常吉氏の指摘になるが。
では引用してみよう。

「源廷尉
=廷尉は刑獄を掌る検非違使左尉の唐名で、源廷尉とはこれに補せられた源義経のことをいう。源義経は、胆振・日高地方では蝦夷の祖神ヲキクルミと混同され、崇拝の對象となっているが、釧路地方では蝦夷から寶物を奪い、彼らを苦しめた大惡人であるとして、これをヲキキリマイ(惡當野郎)といって憎んでいる。」

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

なんと同じ東蝦夷地でもこんな違いがあるとは。
この境目は何処か?
所謂、口蝦夷と奥蝦夷との境界。
これは松浦武四郎が記す。

「従ニ往古_此處を以て奥蝦夷、口蝦夷の境とし、人足賃一里貳拾ニ文に成ると。是等のこと往古のさまを知るべき爰に記す。」

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

西蝦夷地は神威岬より南北で…
蝦夷地は様似と幌泉境界の南北で…
それぞれ、口蝦夷と奥蝦夷の境界と概ね考えられていた様で。
では、吉田氏執筆段階でその辺がどう捉えらていたのか?
それに必要なのがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
諏訪大明神画詞。
当時の解釈を註釈で記載している。

「日の本・唐子の二種
蝦夷の分派をさしたもの。日の本は恐らく日出處のことで、東方を意味して千島をいい、千島蝦夷を指して稱したものだろう。しかし昔は更に西の方もその範囲であったことは、蝦夷族の大酋長安東氏が日本将軍と呼んだことで知られる。すなわち渡黨に押されて、日の本は東へ移って行くので、日の本が本島蝦夷であったと考えられる。唐子はオロッコの轉訛とする説もあるが、文字通り解して、大陸の影響を受けて支那の風俗になった樺太蝦夷を指したものであろう。蝦夷にはこの二類の外、本州から蝦夷島に渡った熟(筆者註釈:ニギのルビ有)蝦夷で、蝦夷中最も進化し、本州に近い北海道西南部に住んでいた渡黨があって、この三類に分裂していったといわれている。」

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

これを、上記に当て嵌めると…
元々北海道に住んでいたのは奥蝦夷で、口蝦夷=孰蝦夷がそれを同化又は駆逐していく。
その上で「神威岬」と「様似と幌泉の境界」を境に棲み分けた。
・口蝦夷=孰蝦夷=渡党
・奥蝦夷(東)=千島蝦夷=日の本
・奥蝦夷(北)=樺太蝦夷=唐子
そして、口蝦夷による奥蝦夷駆逐の時に活躍したのが「ヲキクルミ」で、故に釧路周辺では「オキキリマイ」と嫌う…
こんな感じであろうか。
さて、吉田菊太郎翁の歴史観はこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
彼は、関東,北陸〜北海道,東北に居た「蝦夷(エミシ)」が自分の先祖だと考えている。
彼は十勝の幕別町出身。
幌泉より東側なので奥蝦夷になる。
本来なら、口蝦夷に駆逐(又は緩衝地帯)された側。
そして駆逐した側が胆振,日高周辺の人々と言う事になる。
この論からいくと、アイノ文化は1集団では無いし、ヲキクルミの伝承からすれば平取らの人々が渡党で日の本たる奥蝦夷を駆逐した事になる。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/205904
確かにこの通り、幌泉の人々の話に「アイノ」とそこだけルビを入れている。
なら、先住民族とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/205904
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
実際、幕末段階で松浦武四郎が記すだけでも、
・文字を知る者が居て…
・言葉の差が無くなり…
・農耕をする者が居て…
・請負人,出稼ぎ者と同様に開拓し…
・往古の伝承も金堀衆らの活動の記憶も薄れ…
つまり、同化していた様に見えるし、混在,共栄し、皆、区別なく土着した者「土人」として一括にしている様だ。
特に西蝦夷地の開拓が出稼ぎが多い為に先行し、東蝦夷地側では遅れているとしてはいるが、それでも幌去は「風習が内地に似たり」や沙流では既に「村境に標柱が建ち」、平取も「畑多し」と記す。
松浦武四郎は、人々を書く中でほぼ「蝦夷」「夷人」「アイノ」とせず、「土人」としている。
史書らでは、明治らの話をクローズアップするが、実際はどうだったのだ?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/182851
現実的には、江戸期〜明治でも、割と自由に移動した痕跡は残るのだが。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/01/112430
学術調査は、それら移動や「観光アイノ」より後に始まる。
それらが考慮されているのだろうか?

勿論、万事が一事、一事が万事ではないし、これらは当時の人々の認識の一つに過ぎない。
が、時系列で並べてみると、幕末ですら矛盾があるのは見て戴けた通り。
さて、真実は如何に?






参考文献:

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15