伝統「船文化」の消失…松浦武四郎も留萌の人々も「縄綴船」を知らない

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/12/200407
折角なので、松浦武四郎の記した「蝦夷日誌」からもう一項上げる。
「船文化」である。
仮に往古からの生活を続けていたとしたら、「通商の民」と言うなれば至極不可解な事である。

関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/12/105552
さてこちらにある様に、和船の伝統は「刳船」。
船底は大木から刳り抜いて作り、側板を後から乗せる。
船の幅を確保する為に大木のド真ん中を使うので、作り方は「丸木船」とは異なる。
更に、北海道の伝統の船は刳船ベースで側板を釘を使わず縄で括り付ける「縄綴船」である事は松前藩の古書らに記載あり、それが白老「アヨロ遺跡」出土の船釘を使った「構造船」と矛盾している事は、我々も指摘してきた。
織豊期の「南部信直」公の書状から、野辺地で作られ売却されたものではないか?とも推定している。
松浦武四郎も「蝦夷日誌」内で、案内役の土人のガイドで川舟で遡っており、「くり舟」「丸木舟」と、これまた表現を変え、数度記載している。

では、何が不可解なのか?
引用してみよう。
留萌領での一節。

「ポントマリ、(三丁廿間)サン泊〔三泊〕(小灣)名義、サンチュフ泊にて、往古異国の縄からげ船が流寄し故號くと。此船時々天鹽邊より北蝦夷地(筆者註:樺太の事)にはよる事有也。恐らくは是満洲邊の船か。余は北蝦夷に流れよりしと、佐渡の海府通り矢柄村に着きしを見たり。一本の釘をも不レ用して作りしにて考時は、よくヽ邊鄙不自由の地の物か。其櫂は時々天鹽濱えは流れよる也。此邊穴居跡多し。」

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

松浦武四郎は「縄綴船」の特徴をわざわざ記してくれているし、佐渡に漂着した似たものを見た事も記す。
更に、その船が集落の名前の由来とまで記しているが、留萌の人々も松浦武四郎自身も「縄綴船」が往古からの北海道伝統の構造だとは一切知らないのだ。
恐らく満洲辺り?よくよく辺鄙な所の船?とまで記載する。
かなり不可解。

考えられる事は?


留萌は奥蝦夷の領域。
蝦夷と口蝦夷では使う船が違い、口蝦夷→「縄綴船」、奥蝦夷→「船釘使用の構造船」だった…


西蝦夷地では、伝統船の建造技術らは既にロストテクノロジー化していて、全て購入する迄に同化していた…


そもそも「縄綴船」が伝統船だと言うのが間違い…

こんな所だろうか?
但し、③の線は薄い。
縄綴船は松前藩古書のみならずアンジェリス神父も記している。

さて、実際はどうであろうか?
因みに、織豊〜江戸初期位に船を作ったのはどんな人なのか?
ものと人間の文化史1 船」には、ルイス・フロイスが書いた「日欧文化比較」の一節として記述されている。

「われわれの間では船のために(船)大工がいる。日本では船の工匠はほとんどすべて大工である」

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30 より引用…

大工仕事は多岐に渡った。
アイノ文化でも、昔は自分達でなんでも作ったと「萱野茂」氏は論じているし、史書らでもそんな記事はある。
上記を見る限りでは、その何かに不足する視点か?間違い?勘違い?はあってもおかしくはない。
「通商の民」として語るなら「船文化」は切り離せない且つ絶対的なもの。
それですら、矛盾があるのは何故なのか?

改めて…
それを記していたのは、他でもない「松浦武四郎」なのである。







参考文献:

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30