北東北は中世化が早い…「弘前市史」に記される「中央政府〜国司〜庶民との乖離」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/01/115401
以前SNS上で話した事がある。
北東北は律令国家の中に組み込まれていたのか?
この辺は、著書,論文でもまだ意見が分かれているだろう。
我々もあれこれ取り上げてきた。

蝦夷(エミシ)」の存在。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/052124
38年戦争は、エミシ内でのいざこざから波及していて、初めから朝廷と争っていた訳ではない。

その後の古代城柵の時代。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
俘囚によるとも思える「別将」の存在。
それ以前に北海道との関係を示唆させる遺物。

そして「防御性環濠集落」の出現。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606

安倍氏清原氏の台頭から、「前九年,後三年の役」を経て、奥州藤原氏に至る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914

ザザッと紹介してみた。
そして、その間に北海道で起こった事が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
これ。
擦文文化の発生。
では、改めて律令制→摂関制らの時代って、どうだったのか?
特に、古代城柵が機能を弱めたり、停止させた10~11世紀代は、謎大き時代でもあるので見えにくい。
弘前市史に、面白いと思える解説があるので、それを引用してみよう。
ベースは「王朝国家論」ベースの様だが、この「王朝国家」と言う名称は実態にあっていないと言う。
と、言うより、「中世化」として解説している様だ。

「一〇世紀は、中央政府による大規模な征夷事業が九世紀で終焉を迎えた事を受けて、北の世界の支配の在り方が、さまざまな面で大きく転換していく時期である。そもそも中央政界でも、この時代には律令国家が大きく変容していくのである。律令法という、中国大陸のような広大な世界帝国を支配するために生まれた、前近代史上稀にみる精緻な法体系によって運用された、天皇を中心とする中央集権的な律令国家はもはやその維持が困難になり、中央政府は、地方からの収入さえ得られれば、その政治の実態には気を使わなくなるような時代が到来する。」
「一〇世紀から中世だという場合には、それは社会の下部構造が、まさしく中世的に変化しているからである。たしかにこの時代には、社会の上部構造を見ると、天皇や院や摂関家に代表される貴族など、古代的な支配構造は厳然として存在している。そこはまぎれもなく古代的な世界である。ところがそうした古代的な権門に支配されている社会の下部構造はというと、このころ極めて中世的になっているといわざるを得ない。」
「古代律令制というのは基本的に支配の基準を、戸籍を基準とした、人(戸)に置くわけであるが、一〇世紀には戸籍はもはや作られなくなり、それが中世的な「名」という土地を基準とした支配方式に変化している。土地は人と違って固定的な存在であるので、台帳に載せやすい。」
「それは中央政府が地方政治の内実にほとんど関心を示さなくなってきたから生じているのであって、中央政府としては、地方から収入さえ入ればよい、税金さえきちんと徴収できれぼ、地方政治の実際の在り方は、地方官の好きなようにしてかまわないという態度をとるようになってきていった。こうして地方官が実入りの大きいものになると、その地位は売買の対象とすらなっていた。つまり、中央政府は地方を任せた国司に対して、その政治に口を出さなくなり、国司から中央への貢納物さえ全うされれぱそれで良しとするような時代になったのである。中央政府-国司レベルの制度や政策と、国司-農民レベルでの制度や政策との間に大きくギャップが生じるようになっていった。」
「こうした地方政治の実際と中央政府の政策とが乖離するというなかで、古代から中世へと時代が大きく変わっていく。まさに下から国家が変わっていき、下の方から中世的世界になっていったのである。これがいわゆる日本史の時代区分の一つの有力な仮説である「王朝国家論」のがいよである。先にも触れたように、これは中世史研究者の側から提起されたので、その命名も含めて、古代史の研究者の間では必ずしも受け入れていない部分はあるが、理論としてはともかく、歴史の流れとしては、おおむね了解を得られているといってよい。」

「前略〜(筆者註:柵戸ら移民が)「三十八年戦争」による国家の疲弊で不可能となり、次第に在地の蝦夷系の有力者を、現地支配のかなめの在庁官人として登用するようになっていった。」
「通常、この時代の在庁官人というと、もっぱら収入を得るだめだけに名目的に国司の職に就いて現地には下向しない「遙任」国司に代わって、在地で実権を握った人々を連想するかもしれないが、陸奥・出羽ではそうではない。陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では秋田城の出羽城介が、それぞれ事実上の「受領」官として赴任するようになり、実権をふるったのである。」
「そしてその鎮守府将軍・秋田城介には、次第に源氏・平氏(筆者註:又は藤原北家武家藤原氏)といった軍事貴族が任命されるようになっていった。」
「こうして他には例をみないほど、奥羽には坂東の武士たちが多数入り込んでくるようになり、他に先駆けていち早く武士の社会が形成されつつあったのである。」

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」 新編弘前市史編纂委員会 平成15.11.28 より引用…

いささか豪腕的かとも思うが、筆者的には割と納得出来る。
本文では、この後に陸奥側「鎮守府将軍」の代行として「奥六郡俘囚長安倍氏」が、出羽側「秋田城介」の代行として「出羽山北俘囚主清原氏」がそれぞれ、在地土豪から力を付けて台頭するとある。
それぞれ、坂東から下向した軍事貴族と婚姻関係らを結び、土着させ権力掌握を計っていく。
実際、前九年の役は、安倍氏が納税を止めたりする事から勃発していく。

さて、筆者が割と重要視しているのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
元慶の乱」。
この後に、製鉄や鍛冶、精錬技術の拡散はこと北東北では大きな出来事では無いかと考える。
何せ在地土豪の関連遺構であろう防御性環濠集落では、製鉄,鍛冶遺構が検出される。
畿内,西国で、一部の貴族や寺社、荘園主が抱え込み独占したそれら戦略物資を環濠集落の長…つまり民間が持っていた事になる。
つまり、東北では中世化が早いのではないかと、思われるからである。
最早、それらで中世化が開始され、全く貴族直系ではない在地土豪が周囲を抑え、前九年の役での活躍の元、清原武則の正式な「鎮守府将軍」着任に至る。
異常なのだ。
そんな事から、以前から前項の様な考えをしていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/01/115401
ぶっちゃけ、都で何を言おうが、やる事をやってりゃ文句ないよね…的な発想。
なので、この弘前市史の解説は納得なのである。
さて、では北海道は?
当然、律令制段階で都との入口は秋田城。
元々津軽との結びつきは陸奥エミシが濃い。
行き来は俘囚が行い、それらを掌握していたと推察する事は出来るだろう。
何せ、擦文での須恵器片は、秋田城→五所川原へ移行しながら、全道へ広がっていく。
割と矛盾が無いのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
まぁこんな話があっても矛盾無し。
この場合、やはり擦文文化段階でもう本州に近い文化で暮らしていた事になる。

たまにネット上で 、擦文文化がこうなるので、オホーツク文化と近世アイノを結び付けるが如くの発言を見るが、それは無い。
オホーツク文化はおおよそ9世紀位には擦文文化に飲み込まれ霧散する。
同化したか?若しくは、避けて千島や樺太に移ったか。
北方との関連性が顕著に現れるのは、遺跡上、概ね16世紀まで下る。
その間、6~700年。
どうやって直系だと立証できるのか?ご教示戴きたいものだ。
現状はそんなものだ。

中央から直接と言うより、地方を任された国司,鎮守府将軍や秋田城介らが地方豪族へ権限移譲し間接統治していく…
それも武家の警察権が先行…
やはり中世化は早いと思わせる考え方だったりする。






参考文献:

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」 新編弘前市史編纂委員会 平成15.11.28