「夷狄商船往還法度」とは何か?…この際、新羅之記録を読んでみる2

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
前項に続く。
実は「新羅之記録」を改めて読んでみると思った本命はこの「夷狄商船往還法度」の意義とは何か?である。

早速、引用してみよう。

「天文十九(一五五〇)年六月二十三日、河北郡檜山の屋形安日尋季の嫡男で安東太舜季朝臣がこの国(蝦夷ケ島)を視察しようと渡来された。これを「東公の嶋渡り」と言っている。その時の約束と承諾がある。舜季の二男で湯河湊の屋形となった東九郎左衛門督安日茂季を女婿とし、また津軽の北郡司喜庭伊勢守秀信をも女婿にした。これにより威勢は益々近くに振い、家名は遠方にまで聞こえることとなった。季廣朝臣は、夷狄が好んで大切にしそうな宝物を数々準備しておき、これを与えたという。その懇切さに大いに喜び、夷狄たちは口々に神のような人だと称した。そしてここに、深く恭敬の情を表し、国内は穏やかに治まることとなった。それだけではなく、勢田内の波志多犬を召し寄せて上之国天ノ川の郡内に住ませて、西夷の酋長とした。また志利内の知蔣多犬をもって東夷の酋長とした。これからは、夷狄の交易のための商船の往還の法律を定めることとした。つまり諸国から集まる商船に年俸を出させ、そのうちを按分して両酋長に給うこととした。これを夷役といった。この時より後は、西から来る狄の商船は必ず天ノ川の沖で帆を下げ休んで一礼してから往還し、東から来る夷の商船は必ず志利内の沖で帆を下げ休んでから一礼してから往還することとした。これは偏に、季廣朝臣を尊敬する所である。」

新羅之記録【現代語訳】」 木村裕俊 無明舎出版 2013.3.15 より引用…

さて、ポイント。
まずは少々人物像を…
・安東太舜季
「安東舜季」は、当時の檜山安東氏当主。
後に檜山と湊、それぞれ分かれていた安東氏を統一した「安東愛季」の父。
北海道入りをした本人。
・季廣
「蠣崎季広」は、当時の蠣崎氏の当主。
松前藩を立てた「蠣崎(松前)慶広」の父。
・東九郎左衛門督安日茂季
「安東茂季」は、安東舜季の息子且つ安東愛季の弟。この時、湊安東氏は跡継に恵まれず、檜山より養子に出て湊安東氏を継ぐ。母親が湊安東氏なので母系を継承した事になる。
・北郡司喜庭伊勢守秀信
「喜庭秀信」は、津軽の豪族。手元に資料なく詳細解らず。河北に居た「葛西系」か。この段階では河北(米代川北側)は檜山安東氏が掌握していた様だ。
・波志多犬
西の長「ハシタイン」の事。
・知蔣多犬
東の長「チコモタイン」の事。

①娘の嫁ぎ先決定。
蠣崎季広の三女を喜庭秀信へ、六女を安東(湊)茂季へ嫁がせる事を決定。
②宝物をハシタインとチコモタインへ贈る。
③領地の設定。
西は、瀬棚のハシタインを上ノ国まで呼び住まわせ、西の大酋長として認める。
東は、知内のチコモタインを東の大酋長と認める。
④夷役の分配。
他国からの商船から税を徴収し、それを東西大酋長へ分配する。
⑤狄の商船の儀礼設定。
奥地から訪れる狄の船は、それぞれ天の川,知内川の沖で帆を下げ停船、一礼する。
これを決めたとする。
よく引用される箇所が、宝物を渡した時に東西大酋長は「神の様だと喜んだ」と言う一節。
よって文献によっては、これをもって蠣崎氏の北海道での地位が上がったとする向きも…それは厳しいだろう。

「一方、鎌倉期に「蝦夷管領」として津軽郡に勢威を振った安東(安倍)氏は、下国家が十五世紀なかば南部氏に追われて十三湊から蝦夷松前に走ったのち、桧山(能代市)におちつき、また同族の鹿季(庶季)は十五世紀初め頃に土崎湊に移り湊家を開いた。上国(筆者註釈:恐らく下国の誤植)安東は湊家との抗争や南部氏の津軽進攻によって文亀二年(一五〇二)のころまでに大光寺城(弘前市)・藤崎城をともに失ったと伝える。このように安東しは、南部の圧力によって津軽を失うことになったが、このうち桧山安東は十六世紀に入ってのちも代官(=松前守護職)蛎崎の徴収する関税の大半を上納させ、また軍役を勤仕させ?など、蝦夷管領権にもとづく財政収入と軍事力のに支持されるところが大きかった(海保嶺夫「松前家臣団の成立」)。安東氏の蝦夷への敗走が滅亡をまぬがれるクッションとなり、また小野寺との合戦に蝦夷アイヌを動員したこと注目される。十六世紀なかば下国愛季か、後嗣の絶えた上国友季の跡を相続して両家を統一したころから、南部氏との緊張は一段と強まり、鹿角郡および比内(秋田県比内町)で抗争が激しくなる。」

「大名権力の形成」 小林清治 『中世奥羽の世界』 小林清治/大石正直 東京大学出版会 1978.4.20 より 引用…

まずは③〜④。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
実は、安東舜季の父、安東尋季は北海道での内乱状態を武力制圧し、その時に蠣崎氏を松前守護職に任じ、蠣崎氏を安東準一門にした人物。
引用にあるように、蝦夷衆との交易の「上がり」は概ね檜山安東氏へ上納されていたとある。
また、これ以後、蠣崎季広は比内の浅利攻めを含めた「軍役」へ派兵している。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600
息子同士はこんな関係。
蠣崎季広がかなり気を使い、檜山との従属を示す書状は能代市史らでも掲載されている、その地位は親の代である程度確立されていたのにも関わらすだ。
前項でも参考とした海保氏の「中世の蝦夷地」でも、実は安東愛季の鹿角攻撃には蠣崎氏が参陣しており(南部の「内史略」では6千)、南部の認識は「安東氏の「家の子」扱い」していると指摘する。
この段階では、安東も南部も「蠣崎氏はただの代官」扱いなのだ。
実際、蠣崎(松前)慶広は幼い頃は「浪岡北畠氏」へ人質(そこで連歌茶の湯を習う)、家督を継いだ直後も安東愛季の元へ(実質当主は蠣崎季広が掌握)居たのは、書状らで解る。
これをもって地位確定ならば、むしろ「代官」としての地位。
更に、ハシタイン,チコモタインの勢力圏は、それ以前において「上国安東氏…上ノ国」「下国安東氏…知内や志海苔館ら」を認める事になると海保氏は指摘する。
確かにそうなのだ。
元々の家臣団三家でそれぞれ掌握する形に逆戻りしている。
それも、安東氏家臣団ではなく東西大酋長に任命してだ。
この時代、まだ蠣崎氏と東西大酋長との緊張状態は続くと言う。
この辺、違和感を感じたのは、書き換えられる前の「夷狄商船往還法度」のwikiを初めて見た時だ。
現在書き換えられて、その一文は消えているが、「蠣崎氏はハシタインの上ノ国入を最後まで嫌った」とあった。
これらを鑑みると、上記①も、一方的に腰入れが決まっている事から「人質」ともとれるし、上記②も「ツクナイ」と考えれば、何らかの議に置いて、大殿の前で実質的にギブアップせざるを得なかったともとれる。
領地,収入,人質…
「中世瀬戸内海賊の儀礼」と引き換えにこれでは釣り合いがとれない。
和睦しても一切の利が無いと言える。

この当時、蠣崎氏は跡目争いでもめている。
長男,次男が内乱的に謀殺しあい、三男慶広が跡目を継ぐ。
仮に、東西大酋長と大殿が組めば、実はひとたまりもない状況。
故に季広は慶広の身を非常に気遣い、安東氏家老の大高氏へ送った書状が秋田氏文書に残される。
また海保氏は、蠣崎氏の地位確定の「大館の乱」らは季広の父、光広が蝦夷衆との共同作戦を取っていたのでは?とまで指摘している。
それらが大殿にバレていたら…?
「オムシヤ」に応じざるを得ない。

この見方は、何も筆者だけの意見ではない。
海保氏や小林氏らも似たような話をしていたかと思う(wikiは消されたが)。
先にその書状を見ていたので、筆者的に納得したと言う程度。

一応…
新羅之記録」の①と②〜⑥の文章を切り離す考えらも文献や論文は出ている。

だが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/08/060542
現状、安東からの独立の経緯を合わせると、この辺の時代にそれが可能な力が蠣崎氏にあったかは、筆者としては懐疑的。
湊合戦で、安東愛季の子、「秋田実季」が追い込まれなければ、難しいのではないだろうか?
それを見逃さず、秀吉,家康、それ以上に前田利家に取り入る視点を蠣崎慶広が持っていた事は、彼の眼力の為せる業とも言えるのではないだろうか?
彼は独立に成功したのだから。
彼の能力と、蠣崎氏の当時の力を同一に見てはいけないと考える。
それは、安東氏や蠣崎(松前)氏と「蝦夷衆」の関係を見誤る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833
ルイス・フロイスは秋田と蝦夷衆の関係も報告している。
これは海保氏も指摘するところである。







参考文献::

新羅之記録【現代語訳】」 木村裕俊 無明舎出版 2013.3.15

「大名権力の形成」 小林清治 『中世奥羽の世界』 小林清治/大石正直 東京大学出版会 1978.4.20 より

「中世の蝦夷地」 海保嶺夫 吉川弘文館 昭和62.4.1