伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/03/080215
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/02/193254
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/18/084019
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
前項をズラズラ並べてみた。
半場こじつけ臭くもあるが、少々拘りを持って学んでみよう。
伊達氏である。
今迄のおさらい…

南北朝〜室町…
伊達氏の海への関与の初見は、記録上「野辺地」。
後に、再度海へ出たのは「千葉姓亘理氏」をその勢力圏に収めた事。
②戦国〜江戸期…
伊達政宗キリシタンとの関係が深く、サン・ファンバウティスタ号による慶長欧州使節団の本命は「メキシコの銀精錬技術」習得。
そして、建造に関わったのが「後藤寿庵」ら、キリシタンネットワークに負う処もある。
キリシタンネットワークは既に全国区となり、多くのキリシタンを含む金堀衆が後藤寿庵をキーに秋田湊経由で北海道へ入っていた上に、「アンジェリス,カルバリオ神父」らの訪道へ関与した模様。
この頃、松前氏と伊達氏はその申し合わせで、「松前慶広」の息子が伊達松前氏として仙台に入り、その息子が片倉氏に婿入りし「三代目片倉小十郎」となり、伊達騒動を収める立役者となる。
又、亘理伊達氏もキリシタンとの関係を持つ痕跡は黒川忠庵らに認められる。
③幕末〜明治…
奥州列藩同盟の雄として伊達藩は君臨するが、戦乱に入り、直ぐに亘理伊達氏家老の田村氏らの活躍で和睦に持ち込む。
そして、亘理伊達,岩出山伊達,白石片倉氏らが「北海道開拓」へ乗り出す。
そして…
④室町…
何故か15世紀前後、千島と東海〜伊勢地方周辺に「内耳土鍋」が出土し、周囲とは特異な食器文化圏を形成していた。その制作地域が当時の伊達領と被る論文がある。
ざっとこんな感じ。
遡ってブログを読んで戴いている方々なら解って戴いていると思うが、我々が伊達氏をターゲットにしたのは、北海道在住のメンバーが北海道の某資料館を訪れた際、「伊達氏と北海道の接点は明治の入植時点」と言われ、おかしいと考えた所からスタートしている。
んな訳はない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
現に、アイノ側にもポツリポツリと怪しげな話が。

と言う訳で、では、「内耳土鍋」を制作していた頃の伊達氏の動きはどうなのか?
これを探ってみよう。
南北朝では、南朝の貴公子「北畠顕家」元、南朝方の主力として動いていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
北畠顕家の戦死らで旗色が悪くなり、北朝方の奥州管領大崎氏、羽州管領斯波氏(後の最上氏)らの入部から寝返り工作らが激しさを増し、南部氏を最後に、伊達氏や結城氏らも降伏していき、南朝勢力は衰える。
この辺迄が、今迄の経緯。

では、その後の伊達氏の動きを、侵攻された長井〜高畑町側の視点から見てみよう。
長井市史 第一巻(原始・古代・中世編)」からの要約である。

鎌倉〜南北朝
伊達氏はこの当時、陸奥国伊達郡(現福島県伊達町)周辺を拠点としていた。
伊達氏は既に本拠地として土豪掌握らを終了していた。
出羽国置賜郡は、鎌倉〜南朝方の枢要に居たとされる長井氏の統治下。が、職制上、京,鎌倉へ居ることが多く、在地や荘園監理は一族支流等に任せており、領主権は比較的遅れ、弱体気味。
侵攻,占領年代は諸説あるが、長井市史では、1380年に伊達武将「茂庭行朝」の攻撃で開始、後に「伊達宗遠,政宗(九世)」親子の本隊進軍で本格化し、平安からの長井方土豪「新田氏」の奮戦で耐えるも和睦のフリの謀略で暗殺され総崩れとなり、「屋代,北条庄」制圧、拠点として「高畑城」整備。ここから拡大制圧に成功。
置賜は伊達より米沢盆地で土地が開け、生産力が高く、元々南朝勢力拡大の為に狙いを定めていたとある。
後に、関東管領の威勢増大と篠川,稲村御所設置に対し、京から任ぜられた奥州探題の大崎氏や蘆名氏ら有力大名と連携し反旗を翻し抵抗。1415〜1438年の「永享の乱」まで関東管領が滅亡。大崎氏が事実上の奥州最大の権威となる。
1464年、九世政宗の孫の「持宗」の段階で、伊達氏の名は京の相国寺の瑞渓周鳳らに知れ渡っており、15世紀半ばには伊達、置賜(一度関東管領に取り上げられる)を始め柴田,刈田,伊具,亘理らへ勢力を伸ばし、山形,宮城南部と福島北部を支配下とする大名化に成功していた模様。
伊達持宗はその子を留守氏へ、持宗の子成宗はその子を葛西氏へ入嗣させて両家を半ば従属に成功。
応仁の乱室町幕府の権威が衰え、奥州探題大崎氏の威光が下がる中、このように勢力拡大や将軍家へのアプローチを永享の乱段階から継続し、実力的には大崎氏を圧倒する様になる。
最終的には、14世稙宗の代で将軍足利義稙より「左京太夫・奥州守護職」を任ぜられ、奥州最大勢力へ駆け上る。
この「奥州守護職」、かつての奥州藤原氏や北畠氏の様に陸奥国全体の武士団への軍事督促や軍役指示らは付与されてはいない。
が、大崎氏を政治,外交的威光を実力のみならず逆転させた意味で大きいとしている。
伊達稙宗は領内道路整備や関所整備、領内の税収的法度「蔵方之掟書」制定,貫高制での徴税を進め、戦国大名化した。
と、ここまでで概ね1530年代位。
この稙宗が独眼竜17世政宗の曽祖父。
中世伊達氏は、伊達の地から山形置賜の生産力を基盤にして、北東を制圧していったと。
この途中で、内耳土鍋の生産らが始まった事になる訳だ。

では、気になる所を。
丁度、15世紀半ばに伊達氏の権力を上げる為に何をしたか?
ぶっちゃけ、京の将軍家への接近。
これが成功しないと、関東管領に潰される。
威光には、更に巨大な威光をぶつける必要がある。

「伊達氏は関東ふと徹底的に戦ったのに、京都の将軍家とは接近しようとつとめた。幕府も関東府と対立しその強力になるのをおさえようとして、奥州の雄としての伊達氏を重視し、利用しようと考えた。
八代宗遠は上洛を決行した始めての人である。九代儀山政宗関東管領と彼が派遣した奥州管領稲川(筆者註:村の誤植?)・篠川御所とは生涯を通じ徹底して抗戦している。十代氏宗は上洛して関東管領足利利持の命で取りかえされた置賜郡長井庄を回復した。十一代持宗は将軍足利義持偏諱を授かり持宗となり二度も上洛している。一回目の永享三年(一四三一)には馬・砂金を献上し、第二回目の寛正三年(一四六二)には将軍より鎧・太刀・緞子を賜った返礼として馬四十頭・砂金三万匹(筆者註:疋の誤植?)を献納している。十二代成宗も二度上洛している。特に文明十五(一四八三)の上洛の様子を『成宗上洛日記』にくわしくかかれているが、彼が将軍義政とその子義尚や夫人富子をはじめ関係者に贈った贈物の量は、太刀ニ三振、馬九十五頭、砂金三八〇両、銭五七〇〇〇疋という莫大なものであった。」

長井市史 第一巻(原始・古代・中世編)」 長井市史編纂委員会 昭和59.6.11 より引用…

出ました、『砂金』。
これから言うと、概ね10世氏宗、11世持宗、12世成宗辺りが、内耳土鍋を流通させていた時期と重なる。
実に羽振りが良くなっているし、領土拡大や権威増大に繋がり、戦国大名としてその地位を不動とする14世稙宗への布石が出来上がる。
贈り物は、馬と砂金。
実に「陸奥国」らしい組合せ。
つか、出羽側も現実には砂金産地で、最上氏の代の開山であろう「延沢銀山」も室町期。
が、近くの「ほたるの里郷土資料館」で確認した「国介砂金伝説」ら、かなり古い時代から砂金伝承が。
勢力圏の寒河江や、庄内町狩川周辺も後世は砂金産地としての伝承はある。
高畑町は山形県ではほぼ唯一の石切場
陸奥だけでなく、出羽もガッツリ鉱山地帯なのだ。
で、千島は…?
武将の痕跡はあり…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
江戸初期既に金や銀の採取,精錬を知っていた…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

勿論、これで伊達氏の動きと直結させるは、ムリな話。
が、羽振りの良さや上納された砂金は事実だろう。
何も無ければ、将軍家も首を縦に振りはしない。
そして後代、金銀に妙に拘った伊達氏の動きとリンクするのか?

因みに…
長井市は「エミシの赤い壺」が出土していた様な…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317
徳丹城,藤沢犾森古墳群付近で検出される、酸化鉄で文様を施した「エミシの赤い壺」…
エンジュとエンチュ…
伊達と言わずとも、民間レベルでの交流もあり得ると。

さて、考古学見地や古書の整合で、何処まで迫れるのか?
何が出てくるのか?
ジワジワ学ぼうではないか。





参考文献:

長井市史 第一巻(原始・古代・中世編)」 長井市史編纂委員会 昭和59.6.11