何故、古書記載の「アイノ」ではなく、「アイヌ」なのか…名付け親「ジョン・バチェラー遺稿」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/26/205225
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/23/193547
さて、前項をこれにして謎だった事を纏めてみよう。
アイヌ」と言い始めたのはジョン・バチェラー。
ここまでは解ったが、何故彼はそう言い始めたのか?
この際なので、バチェラーの言い分を読んでみようではないか。
この著書は、ジョン・バチェラーが晩年に、自分の姪(フローレンス・アンデレス)に宛てて書いた自伝的遺構だそうで。
推定では、バチェラーが語る事をアンテレスがタイプで打ったのではないとされ、もう晩年なので、記憶違いや混乱はあるものの、訳者が註釈らを入れている。

では、確信部分を引用してみよう。
何故、「アイノ」ではなく「アイヌ」なのか?

「私が初めて、北海道のやって来たとき、すべての私の外国人の友人達−英国人、ドイツ人、ロシア人、フランス人、そして、その他の人たち−はこの民族をAIms(アイムズ)、あるいは、Ainos(アイノズ)と呼び、そのように書きあらわしていました。一方、日本人たちは、いつも、アイノと土人というように呼び、そう書きあらわしていました。」
「しかも、実際のところ、アイヌ民族がこの土地の真の土着人です。というのは、彼らの祖先たちは、大和民族である日本人がこの土地に到達するかなり前に、日本に来ていたからです。現在のアイヌは美しい日本の土着人の少ない生きている継承者達なのです。このことに関しては、なんら疑いのないところです。私がアイヌの村々で、人々と交わり始めたころ、彼らは自分たちを、両方とも、単数であり、複数でもあるアイヌとアイノと称していたことに、早くから気が付いていたのでした。このことは、一八七五年(明治八)に出版された『アイヌ・ロシア語辞典』の中で、ダブロトヴォルスキーが述べているとおりです。」
「アイノという言葉は、純粋な日本語であり、チェンバレンも述べているように、アイノコの略語です。これはベンリクゥ首長や、他のアイヌの人たちのいやがった言葉なのです。アイノには、始祖として、なんの結びつけるものが、あるわけではないのです。アイヌという言葉の係わりで、どのようなことがあろうとも、それは、ヤイヌ(考える)が起源なのです。」

「ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡−ステップス・バイ・ザ・ウェイ」 仁多見巌/飯田洋右 北海道出版企画センター 1993.10.25 より引用…

「アイノとアイヌ」という項の全文を引用した。
これが基本的にジョン・バチェラーが「アイヌ」と訳した理由である。

①当時誰も「アイヌ」とはしていなかったし、外国人が聞いても「厶」又は「ノ」と認識し、複数型「s」を付けて表記していた。
②複数型を本人達が認識していなかったのは先行し辞典を出したロシア人「ダブロトヴォルスキー(ミハイル・ドブロトウォルスキーの事?)」も言っている。
③「アイノ」とは純然とした日本語で、バジル・ホール・チェンバレンが言うとおり「間の子」の意味で、ベンリクゥらが嫌っている。
④「考える」と言う意味の「ヤイヌ」が語源であろう。
⑤以上より「アイヌ」と訳する。

これが、英文訳したジョン・バチェラーの主張。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
これが、当時の日本の言語学者達の言い分。

では問題点を。
①殆どの本州人も外国人も「ノ」又は「厶」と聞こえたものを、「ヤイヌ」へ捻じ曲げ「ヌ」とした事。
本人には「ヌ」と聞こえたのもあるようだが、殆どは「ノ」,「厶」と聞こえた事は、バチェラー自身が認めている。
つまり「ヤイヌ」と結びつけた造語になる。
但しこの場合、「人」を意味したり、「(金田一博士が指摘する)長者」の意味からは遠ざかり、「神の対義語としての「人」」の意味を持たなくなる。
ここは、彼の論の矛盾だと考える。

バテレン報告に「何処から来たか?に対してainomoxiriと答えた」…
これがアイノ表記の最古の記録らしい。
つまりainoが何時から使われていたか?証明不能になる。
表記が明確になりだす、江戸中期から使い始められたのか?織豊期〜江戸初期からのものなのか?不明瞭になってしまう。
当然ながら「諏訪大明神画詞」には「アイノ」表記は存在しない。
中世まで遡る事が不明になる。

③本当に「間の子」語源か解らぬのに、ベンリクゥらが嫌った事を理由に挙げてしまっている。
つまり感情論的なのだ。
これは金田一博士が指摘する「敬意を持った「長者」の意味だったのに慣れ過ぎ喜ばなくなった」との指摘に反論出来なかった部分だろう。

④彼の歴史観だ。
上記通り、彼の歴史観は「先住していた人々を大和人が征服した」的なもの。
神武東征らを指すのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
「埴原モデル」的な考えを更に強力にしたものか。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
現実的には、東北からの弥生での文化グラデーションは検出され、それは北海道まで到達している。
基本的に上記の様な論は、埴原モデルも含めて大量の渡来人の移民が必要となるが、昨今の考古学や人文学では、その前提となる大量の移民の痕跡が薄い。
むしろ、縄文人が徐々に文化変容していった方向に向かいつつある。
これもそうだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204
渡来技術とされてきた「竈」も、縄文での基礎技術の発達の上に渡来技術を融合し、一気に拡散していく。
まぁそれを言うなら、「秋田城」築城の際、秋田では争いの形跡はないが。

最も解りやすい矛盾。
仮にそうであろなら、何故北海道には「中世遺跡がないのか?」…ジョン・バチェラーは答えねばならない。
勿論、ジョン・バチェラーは、ミッシング・リンクの謎なぞ知る由もない。
もう、彼が見聞きした時代ではない。

彼が持つ歴史観の最たる例を…
「富士という名前は昔の日本の侵略者たちが覚えていて、漢字で書いてあらわした土着のアイヌの言葉なのです。アイヌ語のなかで、その名前は火の女神をあらわすのです。火山の火と同様に、アイヌの家の炉の火は礼拝されるときにはFUJIと呼ばれるのであります。しかしながら、日本人は、その意味を完全に変えて漢字でその名前をいつも書くようになっています。こうして、その熟語は文字どおりに、「二つとないもの」、「死なないもの」、「金持ちの学者」などを意味するようになっていきます。アイヌの人々によると、FUJIは民族の母なる生命をしめしており、女性形です。富士の山は、アイヌと日本人の両方により、礼拝の対象になっているのであります。」

「ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡−ステップス・バイ・ザ・ウェイ」 仁多見巌/飯田洋右 北海道出版企画センター 1993.10.25 より引用…

バチェラーは、これと同じ論法で、日本各地の地名をアイノ語由来であると、展開した様だ。
実は、犬吠埼らも同様の事を同書に記している。

では、一応Wikiではあるが引用…

「バチェラーは、アイヌ語訳聖書の翻訳出版やアイヌ語言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残した。アイヌに関する多くの著作を発表してアイヌ民族のことを広く紹介した。このことから、バチェラーは日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人であるとされている。ただし知里真志保はバチェラーの文法書や辞書が役に立たないと批判している。
バチェラーの説には、現在では否定されている説もあり、「近江・アイヌ語由来説」を唱えたが、現代の語形で考えているため、無理があり、地名研究書の水準と信頼度を低くしている一端とされる。」

それはそうだろう。
ジョン・バチェラーはこれらを調べるスタートラインが「アイノへのキリスト教布教の為のアイノ語習得の為にベンリクゥから
聞いた口伝」であるから。
当然、他の学者から反論が出て当然だし、研究水準と信頼度を下げたり、知里博士から否定されるのもやむを得ず。
我々の様に物証から推論を立て、立証出来るか?などと言うプロセスが無かったのかも知れない。
これが彼の歴史観の源流の様で。
まぁ…
書いてあるとしか言い様がない。


最近、アイノ研究に於いて、ジョン・バチェラーの名前をあまり聞かないのはこの為か?
彼の歴史観を出してしまえば、その信頼度を下げかねないから。
邪推はここまで。
これが晩年の彼の遺稿。
何故、古書記載と現在言われる事が違うのかの一面。
まぁ現状展開される、
・否定された「縄文=アイノ説」…
蝦夷を大和人が侵略した…
らの、源泉を垣間見る様ではないか。
その源泉が、ベンリクゥとジョン・バチェラーから生まれたとしたら?
ぼちぼち、現代の研究に合わせてアップデートすべきではないのか?と、考えるのは我々だけだろうか?




参考文献:

「ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡−ステップス・バイ・ザ・ウェイ」 仁多見巌/飯田洋右 北海道出版企画センター 1993.10.25