時系列上の矛盾…城柵,環濠集落,チャシ、ならば十二館もみてみよう、でも「?」 ※追記あり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/18/074550
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
久々に、発掘調査報告書を見てみよう。
題目でもあるように「道南十二館」とは?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
今まで「新北海道史」には「コシャマインの乱は本当に有ったか無かったか解らない」と書いてきた。
中世城館の発掘事例は、勝山館や志海苔館の様にガッツリ示されるとされるものはある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
まして、我々はこんな事例も紹介してきた。
北海道にも中世遺跡はあるじゃないかと言われかねない。
なら、他の事例はどうなのか?だ。
たまたま2冊入手出来たので、ではいきなり行ってみる。

①穏内館…
ここは「新羅之記録」によれば、「蒋土(こもつち)甲斐守季直」が居館を置いたとされコシャマインの乱で落城したとされる城館。
発掘調査報告書は昭和48.1.30付けになっている。
検出された遺構は、北側・東側の断崖に対して、西側に南北に伸びる空堀、そこに接続された東西に伸びる空堀が2条。
これで囲まれた部分を郭と考えているようだ(推定、内郭40m×40m外郭70m×120m)

基本層序は…記載されておらず、空堀をトレンチで切り、その部分を記録している模様。あら?
出土遺物は…
・陶磁器片5片
この中に「明の青磁皿(竜泉)」と考えられるものが含まれる。
これが「西側空堀内の配石遺構」と同出で比熱痕を持ち炭化した柾と共に出土。
・擂鉢(明の青磁同様)
・須恵器
・土師器(擦文土器的文様は見られず)
・鉄製品
カスガイ、角釘、平釘、鉄の取手(鉄瓶?)、短刀の尖端等。
・砥石や縄文土器片らその他
※土師器は空堀周辺でまんべんなく、須恵器は土師器と同出
また、空堀内では若干ながら小規模な貝層をもつ場所もある。

この、陶磁器を持って中世の遺構だと報告している。

実は、この発掘は曰く付きの様だ。
元々河野常吉氏らが調査し比定した十二館を、昭和40年に道文化財団専門委員が再調査して比定地として改めて文化財登録したのだが、近辺の国道228号線工事予定が5年後持ち上がったが、福島町の当時の発掘費用は皆無、簡単に進められる状況ではなかった。
が、いつの間にか工事が始められ、遺跡の約2/3は既に開削され、緊急発掘をした…と、言うもの。
基本層序らが無いのはその為だろう。
概ねブルトーザーで…
陶磁器の中には、ブルトーザーで寄せられた土の中にあったものもある様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801
まぁ、文化財保存より道路の利便性、教育委員会より土木部が強い体質は昭和40年代も同じだったと。
勿論、生活の利便性は重要。
我々もそれを否定する気は無い。
が、その比定地として登録された場所が、博物館,資料館らも知らない内に工事を進めるのは…如何であろうか?
予算が無いのは致し方ないが、工事による破壊前提ならば、完掘りで洗いざらい記録するのも手段だと思うが。
曰く付きは、これだけではないが…
それは後ほど。


②原口館…
こちらは松前町が予定して発掘した模様。
「原口館」は「新羅之記録」によれば、「岡部六郎左衛門尉季澄」の居館とされ、やはり「コシャマインの乱」で落城したとされる。
この岡部氏、後に蠣崎(松前)氏家臣団に比定される者がない様で、謎の人物の一人。どうも新羅之記録以外では登場しないらしい。
基本層序は…
第Ⅰ層…表土(耕作土)、10~30cm
第Ⅱ層…黒ボク層、場所により薄くカーボン含む部分と渡島大島火山灰層(1741年降灰)の薄い層を含む部分有り。
第Ⅲ層…黃白色火山灰(苫小牧-白頭山火山灰)
第ⅳ層…黒ボク層
第ⅴ層…ローム漸移層

第ⅴ層では、縄文早期のTピットや土器が検出しているが、城縦と関係無いので割愛する。
遺構は
・V字型の空堀4条
発掘はトレンチなので大凡の形になるが、西側の断崖に対して、コの字型に掘られ郭を作っている模様。
図を見る限りでは100m×40m位か。
強調されるのがこの空堀は、第Ⅲ層より新しい事。
苫小牧-白頭山火山灰は、大体900年代(十世紀)前〜中頃なので、それよりは新しい。
遺構とそれに絡む遺物はほぼ第Ⅱ層のもの。
掘立建物遺構を予測させる柱穴や焼土,配石遺構もあるが、空堀より後代のものと考えている様だ。

主な遺物は
・擦文土器
空堀だけでなく、ほぼ調査区域全てに分布。
・須恵器
大型の壺の破片が主で擦文土器と共にV字の空堀の底らに分布。
擦文土器含め集中廃棄もあり得る。
概ね五所川原系と推定。
・羽口,鉄滓
小規模な小鍛冶が行われたと推定される。
主に空堀の埋土から擦文土器と共に検出
・陶磁器,古銭
残念ながら陶磁器はほぼ表土、古銭も覆土中で底部からのものではなく渡島大島火山灰層に近い。よって、遺構廃絶後に埋り掛かった後に落ちた物としている。
空堀内出土は圧倒的に擦文土器であり、空堀の時代背景を考察すれば、擦文文化期のものと考えられる…と言う結論で結ぶ。
ここで考えられるのが、対岸の津軽側で10~11世紀に作られた「防御性環濠集落跡」との関連性。
むしろこちらに近いのではないか?とも考える様だ。
勿論、中世城館との関連性は薄く、「原口館」ではない様だ。


さて…
穏内館のもう一つの曰く付きである。
原口館発掘は平成4年度に行われた。
ここが前提。
穏内館の時代特定としている配石遺構と明代の陶磁器だが、空堀土層的に微妙な位置なのだ。
実は元々、穏内館の空堀はV字型で掘られている。
その上に何故か粘土層があり、そこに配石遺構がある。
ここが不自然な点。
空堀が城館の様に、防御を伴うものならわざわざ0.5m程度埋めてから使う必要は全く無い。
まして、十二館は安東政季が指示し作られたとある。
わざわざ手間をかけて違う作りにする合理性はないのだ。
仮に原口館の古銭の時代背景を重ねれば、
①V字型に空堀を掘った防御性環濠集落が作られた
②何らかの理由で埋まる、又は埋まった
③そこに入り込んだ別の人々が、配石遺構を作り、火を焚いた
となる。
大体、防御の為の空堀の底で、わざわざ火を焚く様な話も空堀の意味合いと考えたら不思議ではないか?
つまり、空堀当初の機能と配石は別の時代の物と考えた方が合理的だと考えるのだが…
勿論、この場合、この「穏内館比定地」の空堀は、中世城館ではなく擦文の「防御性環濠集落」と言う事になる。

穏内館の方が、随分先に発掘されている。
また報告者は先行した昭和40年段階での調査において、城館に対する知識がなく、一目でそこが何故穏内館比定地なのか解らず、諸先輩の説明を聞き入ったともある。
その上の緊急発掘、訳が解らずとも、責める事が出来ようか?


こんな見方も出来よう。
これは我々が2冊の発掘調査報告書を読んだだけでの見解。
むしろ…「本当に大丈夫なのか?」問題提起の様なもの。
一事が万事ではない、万事が一事ではない。
全体像を捉え、他の館跡との比較も行ってから比定していくべきだろうと思う。
さて、真実は?
むしろ「解らない」と思うが。
因みに、「道南十二館」と言う単語は新羅之記録には出て来ない。
それぞれ町村と館主であろう人物が記載されているだけ。
北海道…同じ地域名が重なるので、渡島半島だけで良いのか?
その中に「余市」は含まれてはいないのだが…


※追記…
敢えて書かなかったが、一応追記しよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
浪岡の高屋敷遺跡。
見ての通り、土塁がある。
ここ「穏内館」「原口館」には、空堀は検出しているが、土塁がない。
柵状列穴も検出されてはいない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/28/143650
南部氏侵攻前の十三湊は福島城。
安東宗家の居城だ。
ここも空堀+土塁はセット。
勿論、安東盛季,康季親子と安東政季は同時期の人物。別家の政季は宗家の館を知るだろう。
また、北海道から男鹿経由で能代は檜山に入った安東政季はその子忠季と共に、そこにいた葛西氏を駆逐し「檜山城」築城に入り、忠季が完成させたとされる。
勿論、百年間で拡大されたであろうが、湊騒動で湊安東側から攻撃された「檜山城」に籠城した幼い安東実季は数ヶ月耐え抜いた堅牢な戦う山城。
安東政季は、こんな山城を知っている。
それが指示して作らせた十二館が、土塁すらない山城である事があり得るのか?
男鹿の「脇本城」にして然り。
前項にある清原光頼の「大鳥居山柵」は、10mクラス且つ二重の畝状土塁,空堀群を持つ。
むしろ、それらより200年前のこちらの方が巨大且つ堅牢。
「穏内館」「原口館」比定地が十二館だとして、何から何を守れると言うのだ?
と、考えれば、この二点の比定地は「原口館」の見解の様に、平安(擦文)の防御性環濠集落と見る方が妥当性が高くなると言う事ではないか?
仮に土塁を作らない造りだとしても、それより早いか同時期の「根城」「浪岡御所」の様に水堀で多数の郭を構成し、それぞれ柵か板塀で囲う構造だろう、規模が小さくとも。

少々、日本の城の系譜を無視し過ぎではないだろうか?







参考文献:

「穏内館館 -北海道福島町穏内館跡発掘調査報告書-」 北海道福島町教育委員会/日本鉄道建設講談社青函建設局/北海道開発局函館建設部 昭和48.1.30

「史跡 原口館 平成4年度 原口館擬定地発掘調査報告書」 北海道松前教育委員会 平成5.3.25