度々登場する「辰砂」とは?…「水銀」と、当時の「黄金」への認識を学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/12/105552
これを前項とする。
今迄も、文化に直接関わるアイテムについて「○○とはなんぞや?」として竈,ろくろ,船らを取り上げてきたが、今回は「朱」である。
縄文~続縄文~弥生でも、顔料や血液を表すら生活に密着したものとして使われていたのは考古学で証明される。
朱は、
①辰砂(朱砂,真朱も同様の物)…HgS(硫化水銀)
②弁柄…Fe2O3(酸化鉄)
③丹…辰砂又は鉛丹…鉛丹はPb3O4(四酸化三鉛)
往古から使われるのは、主にこの三種とか。
この中から「辰砂(水銀)」を取り上げる。
この様に…
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「金」と共に、水銀を取り上げている。
何故か?
これは水銀が特異な性質を持つから。
常温の水銀は、他の金属を溶かし込み合金を作る性質がある。
これを「アマルガム」と言う。
溶かし込み込み易さが金属で違う。
そこで、特定の金属を溶かし込んだアマルガムを約350℃位に熱すると、水銀のみ蒸発し、特定の金属のみ取り出す事が可能。
つまり「金属の精錬」が出来る。
古代では、一種の「錬金術」と考えられてきた模様。
では、これらを踏まえ、古代に辰砂や水銀がどう捉えられたのか、背景を学んでみよう。

ここで一つ定義をする。
引用以外の部分で、
・黄金→精錬後で価値を持つ「金」
・砂金→天然産出する「金」の粒
とする。


「日本古代の鍍金法は、水銀に金をとかし、それを銅表面に塗り加熱して水銀を蒸発させる、アマルガム鍍金である。水銀は常温で金をとかしアマルガムとなる。金は大きな塊でもよいが、細ければ細かいほどアマルガム化が速い。金アマルガムは水銀五・金一の割合ででき、作る時は水銀液中へ金を入れてつくるので、余分な水銀、つまりアマルガム化しない水銀は除去する必要がある。和紙や鹿皮で漉すと、金アマルガムが残る。これを銅表面に塗るわけで、銅表面はわずかにアマルガム化が生じ、金アマルガムと密着する。炭火などで熱すると、水銀は蒸発して金と分離し、薄い金膜が銅表面をおおい、まだらな場合はこれを何度も繰り返して鍍金が完了する。アマルガム鍍金に不可欠な水銀は、周知のように天然に産することもあるが、多くは真赤な岩石=辰砂を精錬して得られる。」

アマルガム鍍金に不可欠な水銀は、周知のように天然に産することもあるが、多くは真赤な岩石=辰砂を精錬して得られる。後閑文之助氏は辰砂と鍍金について「漢の武帝は神仙学を信じ、方士の李少君を重んじていた。李少君は元光二年(前一三三)に釜を作り、中に辰砂を入れて熱すれば丹砂は化して黄金となるべく、黄金をもって飯器とすれば生命は長く」と説き(注1)、辰砂即鍍金の技術が漢代の神仙術のうちに存在していたかのような解釈を行った。これ『史記』封禅書の「少君言上曰。祠竈即致物。致物而丹沙可化為黄金。黄金成以為飲食器存在益寿。」(注2)と言う記述によったもので、この記述では「致物」によって辰砂が黄金に変化するわけで、その黄金で飲食器を作るのである。つまり、もののけがかまどに集ることが辰砂の黄金化の条件で、加熱が行われたものである。少君はアマルガム鍍金を辰砂の黄金化として漢の武帝に信じさせた。竈は辰砂を精錬し、あるいは飯食器を鋳造する設備ではなかったか。この話は『漢書』郊祀志(上)にも取り上げられ、武帝は辰砂を黄金にかえることに専念したとある。」

「『漢書』郊祀志(下)には、「他に永説上曰…黄冶変化…」とあり、小竹武夫氏は「丹砂を冶しふきわけて黄金と化し」(注3)とやくした。これは「普灼曰黄者鋳黄金也。」(注4)によっているもので、「黄冶変化」は道家修練の術の一つであり、辰砂→水銀→アマルガム→金膜という過程のなか、精錬・アマルガム化が省略されている。『抱朴子』に、「水銀が丹砂から出ることを知らぬ者がいる。そう教えても信じようとはしない。『丹砂は本来朱い物。どうして水銀のような白い物になることができようか』(注5)という記述があり。道家の間ではよく知られたことであっても一般には知られず、あるいは秘密の法としていたことが考えられる。辰砂即黄金(実際は鍍金のこと)が道家の説いた修練の術であり、人々をまどわすものであった。つまり、古代中国では、鍍金するには水銀ではなく辰砂が必要なものと一般に信じられていると理解される。『天工開物』では、「凡朱砂・水銀・銀朱、原同一物。所以異名者、由精粗老嫩而分也。」と記しているところによれば、辰砂と水銀は同種のものと理解され、アマルガム鍍金は辰砂さえ得られれば可能ということが漢代以後、後々まで続いたことを意味するのではないか。以上のような古代中国における辰砂即鍍金という理解は、アマルガム鍍金の技術が中国、朝鮮をへて日本に渡来したものである限り、日本でも流布したに相違ない。記録に従えば、日本での鍍金は鞍作鳥の鋳造仏像が最初というべきであろう。『日本書紀』には、推古天皇十三年(六〇五)、天皇の命によって鞍作鳥が造仏工となり、翌年、丈六銅像は完成し、元興寺に安置されたとある(注7)。それは鍍金の記述を欠くが、高句麗の大興王から黄金三〇〇両の献上があったことや仏像体表の金色は仏の三十ニ相のなかでもとくに重要であることから、鞍作鳥の指導によってアマルガム鍍金がおこなわれたことは間違いない。鞍作鳥は鞍部多須奈の子、多須奈は鞍部村主司馬達らの子で、漢系渡来人である。」

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5 より引用…

以上。

凄く平たく言えば…
古代Chinaでは漢の武帝の時代から、神仙術の錬金術と考えられていて、渡来人によりそれが伝わった後も、
・黄金…辰砂から錬金術で作るものと考えていた
・砂金…その辺の光る砂粒
で、と言う認識で、奈良の大仏作るまでは、我々の先祖達もそう考えていたであろうと言う事。
現代で我々は、砂金を弄くれば黄金になるのを知ってるので、オー!となりますが、先祖達はそんな認識はしていないと言う事。

6世紀半ばには、漢系渡来人や秦系渡来人によるアマルガム鍍金の実績は記載され、伊予に辰砂を取りに行った等の記述はある。
で、東大寺大仏鋳造に至る。
これは国家事業として純国産の自然銅,砂金でまかなわれ、水銀については国産辰砂があり且つ施朱の風習があったので純国産だったと推定される。
これ、水銀鉱山の探査も同時に行われ、万葉集にも詠われるそうで。
練金10,439両、水銀58,620両→比率1:5.6でアマルガム鍍金に対してほぼ正確。
でこの水銀を得るために集めた辰砂が概ね2倍だったのは、大仏建立の為の記録に残される。

で、ここからが重要。
7~8世紀、仏像鍍金が活発な時期、辰砂→黄金と言う理解が一般的なのは前述の通り。
水銀と言う記述の初見は続日本記の和銅六(713)での「伊勢水銀」からで、それまでの「辰砂,丹砂,真朱」の記載から「水銀,水金」に変わり始めたと言うのも根拠に挙げる。
よって、奈良の大仏から、このアマルガム鍍金への理解と工法の公開により、技術が広まったと思われる。
つまり辰砂→黄金であるので地方に於いて砂金がそこいらにあっても、それを黄金と見なす者は居なかった事になる。
何故、渡来人が一定の勢力を保てたか?
技術がトップシークレットで、公開していなかったから。
百済王敬福」が、砂金を探し当てられたのは全くの偶然ではなかった可能性がある。
何せ、彼は陸奥介で多賀城にいた。
で、彼が概ね技術を知っていたなら、誰も金だと認知してない砂金を入手出来た。


当然、黄金山の陸奥エミシは、大仏での技術公開より先に日本で最も早く、このアマルガム鍍金のからくりや砂金=金である事を公開されていたと。
何故、38年戦争勃発するか?
何故、陸奥エミシを移住させたのか?
砂金では見えなくても、辰砂を見れば想像出来るのではないか?
陸奥エミシが、その技術を知り、好き放題に金を作り得たから…なのでは?

まぁ少なくとも、我が国に於いて「黄金」に価値を付加したのが仏教であり、上記の通りの認識であれば、その辺の川に転がっている「砂金」はただの砂粒。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
海外交易の盛んな中世ですら、「実用性の無い物に価値無し」と言う認識。
ましてや土器作りでも土や砂を厳選していたご先祖にすれば、焼結の邪魔をするであろう金属粒子をわざわざ「価値あるもの」とは思わないであろう。

如何であろうか?
この認識ならば…
①膨大にあった「砂金」に手を付けなかったのか?
②何故、突然取り始めたのか?
③その時期は何時で誰が取り始めたのか?
これら疑問をほぼ説明可能となる。
何せ価値の無い「砂金」が、水銀を使う事で都人が喉から手が出る程欲しがる「黄金」に出来る事を知らなかったのだから。
それを知っていたのは「技術を知る渡来人」のみ。


この辺が接続出来れば、これも説明可能。
以前から述べているが、東北の金山開山伝承には波がある。
尾去沢鉱山…8世紀
これは、黄金山の延長で説明可能。
故に朝廷又は陸奥エミシ。
・秀衡街道周辺…12世紀
これは奥州藤原氏だろう。
・太良鉱山…13世紀
これは、蝦夷管領の安東氏か。
・阿仁鉱山…14世紀
これは南北朝騒乱による南朝方か(南部居城でも鍍金開始)。
・院内鉱山…17世紀
言わずとしれた南蛮技術を持つキリシタンら。
伝承だ…
そこで止めず、経済や必要とする者が誰なのか?を考えると、欲しがる者が誰か?は浮き出てくると思うのだが。
平泉の金色堂には北海道の金が使われたとか。
なら、そういう事だとしても、全くの「荒唐無稽」ではないと言う事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
何せ彼等は金銀の価値を知っていた。
知らぬとされるのは江戸中期以後だ。
これも「ミッシング・リンク」なのだ。






参考文献:

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5