言語研究からの視点…金田一京助博士が記す「北海道と北東北で会話出来た事例」と「金田一説の結論」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/202607
前項はこちら。
折角、ジョン・バチェラーの主張を見たのだから、今までも書いて来たが反論していた「金田一京助」博士の論も見てみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/22/203614
以前、「秋田城跡歴史資料館」の特別展で、平安期、都から来た官吏と渡島衆の通詞は秋田蝦夷(エミシ)が行い、城内に常駐したのではないかと考えられている事を紹介したが、金田一博士は江戸初期の古書事例と北海道,東北に残された言語の痕跡でそれを説明している。
では、その部分の概略を引用してみよう。


「前略〜(筆者註:津軽半島の)突端あたりを外ヶ浜というのです。その外ヶ浜に四十三軒の一々の戸主の名前をずっと挙げております。その中には宇多村の伝蔵、それから藤崎村の長次郎という日本名もありますが、綱不知村のゼモン、奥平部のヤクローなどというのがありまして、だんだん行きますと、袰月村のイカホイ、小泊村のイソタイヌ、それから釜の沢村のマコライヌ、宇鉄村の四郎三郎〜後略」

「前略〜(筆者註:寛文九年蝦夷乱時、江戸への書状を送る時)えぞが島と津軽半島との間の使船の役をしたのが、先程挙げた外ヶ浜の万五郎というアイヌと四郎三郎というアイヌだったのです。それでそのとき公けの文書には「万五郎アイヌ」「四郎三郎アイヌ」と書いてあります。」

「(筆者註:寛文九年蝦夷乱後に幕府から津軽藩の調査指令の時)ところがこのときに両方とも通辞を連れて行きます。牧只右衛門の方は万五郎を通辞に連れ、秋元六左衛門は四郎三郎を連れて行くのです。これは先に万五郎アイヌ・四郎三郎アイヌといって活動したあの二人が今度は通辞の役をさせられます。通辞の役をするんですから、北海道アイヌと奥州の蝦夷と同じことはを使ったという証拠です。」

「西海岸は「ひのもと将軍」の家中の人々だと歓迎の気持さえあって巧かったんですが、東の方の奥地というものは、今の日高あたりというものは、内地の日本人などというものを全く知らないアイヌたちだったために、内地から行ったということを云っても受付けない。あべこべに戦争になりかけた。(筆者註:そこで秋元と四郎三郎は諦め撤収)〜中略〜その時に秋元が四郎三郎に向って、あの山一面に生えている木はなんという木だねと尋ねたら、「あれはトドロップです」と答えたと秋元の復命書にそうかいてあります。これは私にとってはとてもびっくりする程喜ばしい記事なのです。トドロップというのはトド松のことです。トド松を日本語で何故トド松というかといえば、トドロップの下略の…形なのです。ところが今日北海道のどこへ行ったってトドロップとは何のことかといっても知っているアイヌに出合わないのです。今日は、北海道の口もとの方はアイヌが早く日本化して、アイヌ語を知っている者は一人もいなく、皆日本人になっているから。また奥の方のアイヌは、奥の方のアイヌ方言で口もとのアイヌ方言とはちがうからであるらしい。口もとのアイヌはトド松のことをトドロップといったということは、松前家の藩士松前広長という学者が『松前志』という八冊の博物の書物を書き残してくれました。その中にトド松の条で「トド松をばこの辺の蝦夷はトドロップという」とかいてあるのです。だから松前地方のアイヌのことばと、津軽地方の、すなわち本州の果のアイヌのことはとは、同じアイヌ方言に属していたとわかります。」

「古代蝦夷アイヌ 金田一京助の世界2」 金田一京助/工藤雅樹 平凡社 2004.6.11 より引用…

金田一博士が言語学からみた姿の概略。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)に関わる部分で、津軽藩士らの行き来で活躍した蝦夷衆に含まれる人々だろう。

松前津軽の間を外ヶ浜の「狄村」の人々が行き来する「使役」を提供していた。
②寛文九年蝦夷乱の際、幕命で津軽藩が調査に入る時、万五郎アイヌ・四郎三郎アイヌのニ名をそれぞれ通詞として藩士は向かう。
③東ではまともに話が出来る状況ではなく戻る事に。対して西側では「日ノ本将軍の家中」とされ好意的に協力を得る。
④東へ向った秋元と四郎三郎、戻る途中に秋元があの山の木は何だと尋ねたら四郎三郎は「トドロップ」と答えた。
⑤トドロップはトド松の事で、元々トドロップのトドを残した略語である。そして別古書では松前周辺もトド松を「トドロップ」と言っているとする記載がある。
⑥これにより、松前周辺の人々や津軽周辺の人々に言語の共通点があり、言葉は通じた…
としている様だ。
因みに、元文期、幕府金座の坂倉源右衛門が北海道へ度々渡る時に、船待ちの時にこの四郎三郎の家へ訪れて暇つぶしした模様。
この人達は松前蝦夷と出くわすのを好まなく、系図で区別を説明した…こんな記録もある。
所謂、江戸初期には口蝦夷と本州蝦夷は言葉が通じたと言う事になる。
津軽の狄村の人々は、ある程度混生しており、魚の売り買いらもしていた様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
それなら、これは成立する。
故に、秋田から江戸初期に「稼いで来ます!」感覚で北海道に行ってもそれなりに会話は可能だったであろう事になる。
実際に、十三湊や秋田湊へ「夷船」が訪れたのは他の記録でも残される。
古代秋田城、十三湊,秋田湊、江戸初期…
断片ではあるが、少なくとも「口蝦夷−北東北人」は、一般的な会話は不都合なく出来たと考えても良いのではないだろうか。

次…
少なくとも、西側の人々は「日ノ本将軍」、つまり安東氏を知っており、何らかの行き来ら関係を持っていた事になる。
原文を確認していないので、どの様に歓待されたかは解らないが、近い年代なら、秋田湊へ来ていたか?
寛文九年蝦夷乱で松前藩と殺気だっていたであろう中でも、安東家中なら別扱いだった事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/27/092649
この辺との関連性はどうであろうか?
確かに西の長「ハシタイン」は上ノ国入を許された。
東より西の方が、交流が強かったのでは?

さてまた次。
前出の坂倉源右衛門、四郎三郎宅へ押し掛け会話を楽しんだ際、松前側の人々と同族の様に話をしたところ、松前蝦夷とは出くわす事を好まず、わざわざ自分の家系図を持ち出しそれを差別したとある。
江戸期には武家も「格式」を重視し、それを家格としてランキングしていた様な話はあるだろう。
蝦夷衆も同様だった様だ。
それは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
敵と味方が存在したり、蝦夷日誌でも家系図を持つ者の存在や平取の格付けが高い等の格差社会の片鱗を見せる。
一枚岩ではなかったという事なのだろう。
更に、「家系図を持つ=文字を持つ」者が居た事になる。

では、もう一点…
「トドロップ」…何故この言葉が消えた?
上記の通り、金田一博士は「奥蝦夷は口蝦夷とは訛が違う」としている。
実際、金田一博士が辞典作成の為に自ら収集したアイノ語資料は何故か誰かに破棄され、本人が呆然とした様な逸話がある様で、彼は地域差があり失われたのか?時系列的に失われたのか?等細かい検討まで至ってはいなかった様だ。
つまり、この点は課題として残った事になる。
実は、この文章は講演をそのまま文字起こししており、金田一博士は自ら考古学や骨格学の視点は無い事をハッキリと言っている。
故に、それら知見による時系列的な分別らもされてはいない。
どの時期まで「トドロップ」を使い、それがどのように消えていくか?らは、博士は結論を出せてはいない。
あくまでま、古書文献と現代に残る言語のみにクローズアップして論文を書いている。
当然それには、その根拠の一部が地名に残る「ナイ」「ベツ」ら、も含ませるが、「口蝦夷と奥蝦夷の文化の差」や「擦文期→アイノ文化期の変遷過程」らは、当然金田一博士は知らない。
そして、その時点まででの自らの研究の結論は、別の章に記載されている。

「前略〜(筆者註:南北を行き来する)蝦夷アイヌの相違は、つまりは本州にいたアイヌ蝦夷で、北海道にのこった蝦夷アイヌであった。換言すれば、蝦夷アイヌの相違は根本にあるのではなくして、ただ地方的の差、即ち人種の差ではなくして支流の差でありはしないだろうか。これが私の結論である。」

「古代蝦夷アイヌ 金田一京助の世界2」 金田一京助/工藤雅樹 平凡社 2004.6.10 より引用…

上記と合わせると…
①言語の共通点から鑑みれば、少なくとも口蝦夷についてはエミシとアイノは同族だろう。
②民族と言うような独立したものではなく、同じ様な言語や文化のルーツを持つ「地方的支流」である。
この時代の金田一博士としての結論がこれになる。
後に埴原モデルらと合わせた上で、時系列観念を与えて東北の地方史書で説明してるのがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
元々差は無いが、その段階でまだアイノ文化が出来てないので「古代蝦夷をアイノと呼ぶのはナンセンス」というもの。
言語系研究では、「独立したものではなく地域的支流」という博士の結論を踏まえた上で論じられているであろうが、巷では無視されている訳だ。
博士は当然ながら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
清野博士らの骨格学から見た視点らも知っており、それぞれを尊重した上で「自分の結論はこれ」と言っていたに過ぎない。
それは当然。
他の知見が無いし、自分でも課題を残していた。
総合判断までは至ってはいないのだ。

金田一説のスタートラインはあくまでも「古日本文化を持ち、地方差で分派した支流である」であり別人種の様なものではない…だ。
同時に、同じ言語圏且つ血の繋がりがあり、同一経済圏にいた…これを抜く訳にはいかんと思うが。

これが、金田一説のスタートライン。
・江戸期以前の状況が不明で時系列的証明が出来ていない。
・他の知見との総合的判断が必要、特に中世は空白。
・この論が優勢ならば、古来から北海道に住んでいた事にはなるが「独立した集団」とは言えなくなる。むしろ、地域的支流でしかない。
・この論が優勢でないならば、古来から北海道に住んでいたと言う立証が難しくなる。
と、考えるのだが、如何であろうか?

仮に、最後の点だとすれば…
現在、ロシアによるウクライナ侵略の最中、ロシアは先住民族と認めたとあるのだが、そこは心配は要らない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
中世でこれだ。
ロシアが南下するのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
これ。
武家の片鱗と北陸の血を引くであろう、我々と血を分けた人々は既に千島に到達している。
当然、現状考えられる経済圏は?
十三湊や秋田湊が最も有力。
ロシアが南下したのは昨日,今日のつい最近。
それも、そこに住む人々と揉め事を起こしながら侵略紛いに南下しているのは記録に残される…と、言う訳だ。
まぁ択捉島国後島の「遺跡」が、現状どの様になっているかは知る由もないが…
金田一博士は、同じ日本人だと言っていたのだ。
あくまでもスタートラインはそこ。

とはいえ、我々が金田一博士の説を鵜呑みに支持する訳ではない。
ここから、どの様に誰がどの様な説を唱えてきたか?時系列で順番に下れば、その学術的系統を必然的に追うことも可能だろう。
そこから「独立した民族」の様に置き換えた者も解る。


如何だろうか?
そう言えば、先日筆者はSNS上で粘着とな成りすましをされた事がある。
その人物に「学が無い」と書かれたで。
筆者はブロックしていたので見ることは出来ないが。
当然である。
我々メンバーに歴史学や考古学、このブログに書いている種々学問の学位を持つ者はただの独りも居ない。
「学が無い」のは当然。
我々は「0」から学んでいるのだから。
だから、古い原点から時代を下ってきている。
無知を知ったからこそ。
さて、何年あればその人物に追い付けるであろうか?…なんて、そんな事を考える暇も相手をする暇も無し。
他人と比べる為に学んでいる訳ではない。
故に「権威による格付け」も不要。
ひたすら学ぶのみ。




参考文献:

「古代蝦夷アイヌ 金田一京助の世界2」 金田一京助/工藤雅樹 平凡社 2004.6.11 より引用…