バテレン追放令を施行したもう一つの理由…「南蛮人のみた日本」にある「人身売買」の事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/06/203305
これを前項として、巷でよく言われる、豊臣秀吉バテレン追放令施行の理由としての「もう一つの事例」も紹介しよう。
ズバリ「人身売買」。
話としてはよく出てくるが、実態を事例としてハッキリ書かれている事は少ないだろう。
巷では「キリシタン大名バテレンと組み、人身売買を行った」的に言われる事が多いかと。
当然、秀吉の追放令の中にも、そんな条項は記載されるので。
が、どうもそれだけでははなさそうだ。
では、佐久間正著「南蛮人のみた日本」から、著者が引用した部分を抜粋し引用してみよう。

九州征伐のとき秀吉の側近にいた大村由己は、『・・・・日本仁(人)を数百、男女に由らず、黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付け、舟底に追い入れ、地獄の苛責にもすぐれ・・・・』と書いている。奴隷にされる原因はさまざまで、はなはだしい場合は掠奪誘拐つまり人さらいである。金銭によって売買されるのは戦いによる捕虜か貧困によるもので、数多くの記録がある。」

「『薩摩の兵が豊後で捕えた捕虜の一部は肥後で売られた。しかし肥後の住民はひどい飢饉に苦しんでいたから、自分らの生活すら困難で、いわんや購入した奴隷を養うことは不可能である。それゆえ羊か牛の如くこれを高来(長崎県)運んで行って売ってしまった。こうして三会や島原ではしばしば四十人もまとめて売られることがある。豊後の婦女小児は二、三文で売られ、その数ははなはだ多かった』(フロイス)」

「『このころ(一五九四年・文禄三)朝鮮での戦役は激しくなり、すでに十万を超える将兵がかの地へ渡っていて、この日本へも捕虜を満載した多数の船が戻ってきたが、捕虜は安い値段で売られた』(ヒロン)」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

一つ目は秀吉による九州征伐の頃の事なので、1586~1587(天正14~15)…
二つ目は1578年(天正6)の薩摩の島津と大友氏による「耳川の戦い」の後くらいであろうか?…
三つ目は、文禄・慶長の役の頃…
カッコ書きの「ヒロン」とは、フィリピンから来日していたスペイン人貿易商人「ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン」の事で、当時の様子を「日本王国記」として出版、その一部の様だ。

着目したいのがルイス・フロイスが報告している島津氏。
島津義久らは確かキリシタン大名とは認識されてはいないかと。
つまり、九州における人身売買はキリシタン大名だけが行った訳ではない事になる。
当然ながら売買先はポルトガル人商人になるのだろう。
南蛮渡来の文物をポルトガル人商人から購入する費用の一部として使った様で。


では、その人身売買を等のバテレン達はどう考えていたのか?

マカオに来るポルトガル人はみな人間の本性を忘れている、それは貿易上の欲と女奴隷のためである、と宣教師は歎いた。東洋にあってこの悲惨な奴隷の状況を目撃した宣教師は、これが布教の妨げになることを訴えている。一五七〇年(元亀四)にはポルトガル国王が日本人奴隷売買禁止の法令を発布し、一五九六年(慶長一)一五九八年にはイエズス会は破門の罪をもって、これを禁止した。」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

とはいえ、祖国から離れた地で、そんな事は守られる訳もなく…
こんな風に言っているバテレンも、ではそれを本当に止めたのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
メキシコを持つスペインと違い、ポルトガルは日本から銀を調達せねば香辛料が手に入らない。
実際は、各大名らとのやり取りはバテレンを仲介して行われ、布教しようにも商人が船に乗せてこなければ来る術はない訳で。
板挟みになり、黙認せざるを得なかったのではないか?とも言えそうだ。
故に仲介するバテレンへ矛先が向かったと。
こんなところであろうか。
清廉潔白のように報告書を書いてはいるが、バテレン自身も奴隷を使い、こんな本音も垣間見せる。
ポルトガル(イエズス会)に代わり、交易しようとしたフィリピンのスペイン(フランシスコ会)の宣教師ジェズースの本音はこれか?

『ミアコ(京都)にスペイン風の教会が造られると、日本人はその周囲を歩きまわり、ある武士はすでにこれを模倣した家を造ろうとしています。彼らは猿であって、マニラで見たものをすべてこちらで作ります。マニラにいる日本人には大砲の製造方法を教えないで下さい。』

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

家康が将軍になった頃の話。
まだフィリピンには数千人の日本人がいたが、横暴,傲慢,好戦的な上、海賊行為を行うものはおり、評判は悪かった様で、スペイン側の者からの印象はこんな感じ。
「猿」に布教してもムリかとは思うが、バテレン追放令後に地下潜伏したイエズス会に代わり、フランシスコ会は慈善事業らにより信者を増やしたのは事実。
が、施政者である大名にとっては、布教より交易利権が目的で、最終的には侵略の疑いで禁教令と鎖国令により排除。
こんな経緯の様で。


筆者はこれらの最大の理由は、「バテレンキリシタンによる従来秩序の破壊」ではないか?と考えている。
だが、弾圧までに至るには一つの理由だけで行われる訳ではないだろう。
勿論、これも数々ある理由の一つとして考えるべき事例だと思う。


さて、折角だから、一つ備忘録として付け加える。
前述に「薩摩」が上がったが、薩摩はもう一度登場する。
ジェズースが家康と謁見した際に、二つの不満をフィリピン総督宛に送っている。
一つは、宗教。
当然、バテレン追放令は家康も継続しており、宣教師たるジェズースが謁見できるのは「交易の仲介者」だから大目に見ると言う事。
もう一つは、船の廻し先。
大坂の陣の前とはいえ、既に幕府は開かれていた。
家康は関東へ船を廻す様に話し、ジェズースもそれを約束していた。
だが、実際に船が廻されていたのは?

「しかしこの三、四年関東には船が来なかった上に、彼(筆者註:家康の事)の不満をさらに大きくしたのは、敵対している薩摩に船が入ったことです。その為に彼は閣下が真実友好を望んでいるかどうも疑っています。」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

長崎方面だけでなく、フィリピン総督は薩摩にも船を廻していた様で。
…備忘録。





参考文献:

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17