ロシア軍の本質とは?…旧ソ連から戦犯指名された「樋口季一郎」とはどんな人物か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
現在、ロシア軍によるウクライナへの侵略の最中。
気になり、当ブログのアップが出来ていない事実。
筆者的には今回の侵略は、
核兵器保有軍事大国且つ安保理常任理事国の、非核兵器保有の独立国家に対する侵略…
こんな視点なので、深刻に受け止めている。
前項の通り、帝政ロシア時代から武力侵攻とロシア正教教化らでシベリア征服や千島への南下を進め、明治の富国強兵政策へ舵を切らざるを得なくした一端であろうことは間違いないだろう。
現実、その後「日露戦争」は引き起こされている。
近現代は敢えて取り上げていない中、どうしようかと考えたが、一応ポツダム宣言受諾連絡からロシア(当時は旧ソ連)軍が何をやったかは記しておこうと思う。

それも敢えて「樋口季一郎」中将目線にしてみよう。
昨年石狩市に「樋口季一郎記念館」が出来たのもあり、何時かは触れるべきかと思う事もあったので良い機会かも知れない。

樋口季一郎中将は旧陸軍将校。
ネットらでも検索されているのでサラリと、キーワードは3点。

ナチスドイツに追われたユダヤ人の脱出ルートの確保…
1938(昭和13)年、ハルビン特務機関長だった樋口は、満洲国西部の満洲里駅の対岸ソ連領オトポールにユダヤ人難民が姿を現す報告を受ける。
当然これはナチスドイツの「ニュルンベルク法」から逃れる為。
一次旧ソ連満洲やChinaからの攻撃の緩衝地帯やスターリンの暴虐イメージ払拭、シベリア開発の労働力として受入をしようとしたが、農業経験がない都市部のユダヤ人が殆どで労働力とならぬ事を悟ると一変し滞在拒否に転じる。
ここで満洲国は入国ビザ発行を拒否。
理由はもやは日独防共協定を日本が締結していたから。
ハルビンは当時、多くのユダヤ人が住んでおり、当時ソ連内でも行われていたユダヤ人差別が殆どない場所で、逃れようとする者は当然ここに押し寄せようとする。
当時欧州では、何処の国でも差別的に扱われていたのは間違いなさそうだ。
イギリスやフランスでも同様。
ここで樋口はアブラハム・カウフマンというユダヤ人医師に出会う。
ハルビン特務機関の最大の任務は満洲,内蒙,ソ連の監視や満洲への指導という諜報部門。
ハルビン外でのそんな状況は熟知。
オトポールに難民が集まる3ヶ月前にカウフマンからの依頼で「第一回極東ユダヤ人大会」て演説を求められた樋口は、軍服でなく平服で一日本人として出席、ナチスの対ユダヤ人政策の批判とユダヤ人による国家建国と擁護らを演説したとされる。
勿論、これ、日本国内で報道されてはいない模様。
で、「人道上の問題」として難民受入の指示を出し、カウフマンには食料や衣服手配を要請。
樋口自身は南満洲鉄道総裁の松岡洋右を訪ね特別列車の運航を依頼、満洲国外交部は滞在ビザ発給を行う事になる。
実はこれ、「杉原千畝の命のビザ」の2年前になる。
よく2万人の命と言われるが参考文献の著者である早坂隆氏によるとその数字はハッキリしない様であるが、樋口の開いた「ヒグチルート」は独ソ戦勃発まで何らかの形で3年間有効だった可能性があり。
第一陣で18人、その後100~200人は概ね具体的な数字は追えたが、その後は不明。
徐々に増え担当者が手間で忙殺された等手記が残り、累計ではかなりの数となる様だ。
後に、在ハルビンユダヤ人が感謝大会を開いており、そこでユダヤ人協会から示されたのが「2万人」。
樋口の行動は人道上とは言うが、ユダヤ人を「利用」してイメージアップらを考えた節もある。
が、当然外交上の問題にはなり問題視され、ナチスドイツからも抗議が出る。
樋口は関東軍から出頭命令が出るが植田司令へ人道上間違ってはいないと弁明書簡を送り、出頭した東條英機へ「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめする事を正しいと思われるか」と言い放ったとか。
結果、東條英機参謀総長が下した結論は「不問」。
これらの後、樋口は1942(昭和17)年、北部方面司令として札幌へ赴任する。

②初の「玉砕」と「パーフェクトゲーム」の司令官…
将口泰浩氏著の「アッツ島キスカ島の戦い」によれば、アメリカ軍空母「ホーネット」から発進したB-25による本土空襲で虚を突かれた参謀本部ミッドウェー海戦と同時にアリューシャン列島のアッツ島キスカ島の確保も同時に進める。
なるべく前線を遠ざけ空襲を防ぐ目的の様だが、アメリカとしてはアリューシャン列島に重い戦略価値は持っていなかった様でほぼ戦闘無しで占領、星条旗の代わりに日の丸がはためく。
が、ミッドウェー海戦勝利から奪還戦に向かった米軍、補給もままならなくなった陸軍海軍混生部隊では持久戦しかなくなる訳で。
当然、司令官として援軍と補給要請するものの、参謀本部からの回答は、南方戦線が熾烈で回せる戦力無し、つまり放棄。
ここで樋口は決断を迫られる。
放置すれば全滅。
樋口が出した条件は、アッツ島の放棄とキスカ島から全軍撤収に海軍が全面協力。
結果これが採用される。
この時、アッツ島守備隊への電文に、初めて「玉砕」が使われたとか。
アメリカ軍はアッツ島を3日で再占領する為に守備隊の5倍の兵力を投入。
守備隊は一時、上陸隊を海岸沿いまで押し返すものの、2650名は300名までとなり陣地壊滅。
最後は100名×3中隊で突撃を敢行。
怪我の気絶らで倒れ捕虜となった者は約1%、降参を迫る拡声器の声を無視して、鬼気迫るそれを見た米兵は「バンザイアタック」と言い恐怖した様で。
「生き残りの将兵はわれわれの目の前で手榴弾を自分のヘルメットにたたきつけた。日本兵は最後の一人まで戦い、そして斃れた。この光景を孤穴に潜んで間近に見ながら、生まれて初めて恐らく今後再び経験することがない戦慄が顔を覆った。」
…従軍記者ウイリアム・ウォルドン(AP)
いや、それはその後終戦迄続く。
そして報道でも朝日新聞により、初めて「玉砕」が使われる。
3日で終了するハズの作戦は18日間に引き伸ばされ、その間にキスカ島撤退戦の準備がなされる。
撤退戦は当初潜水艦を考えた様だが、アッツ島陥落で制空権も制海権アメリカへ。
やむを得ずこの海域特有の濃霧を利用し巡洋艦阿武隈」による撤収へ変更。
艦長の「木村昌福」が指揮をとる。
ここで問題が。
港への滞在時間は一時間が妥当、これの実現。
武器携帯で手間取る事はガダルカナル島撤収で解った樋口は独断で「武器を放棄して可」の判断を下す。
勿論これは問題になるが、樋口曰く「武器は作れるが、人は作れない」。
さて、作戦に開始にはなるが濃霧にならず第一次撤退戦は中止、戦闘態勢へ戻される。
当然、守備隊は諦めの境地。
約10日後、再度二次突入へ。
前日、濃霧とレーダー誤作動でアメリカ艦艇がゴーストに対し砲撃し、補給の為海域を離れる空きに、守備隊の撤収準備させ入港。
遺品遺骨以外の荷物は一個迄とし、菊の御紋付きの歩兵銃は波打ち際へ全投棄し一時間で5200名を収容し出航し、全員帰投に成功。
翌日から、アメリカ軍はキスカ島への上陸作戦を敢行。
アッツ島からの教訓で、艦砲射撃や航空爆撃を中心に徹底的に行い上陸前にあらゆる施設を破壊する作戦へ。
航空写真により各地の施設が破壊されたのを確認しているが、何故かアメリカ軍は撤収後だと気が付いていなかった模様。
高射砲らが無反応なのに、各員から灯火や曳光弾が見えた等の報告がされている。
「バンザイアタック」の軍が、島を無人にするはずが無いと思い込み?
数日後、百隻の大艦隊で上陸作戦が実施されるが、思い込みから同士打ちらも発生。
結果、艦隊や上陸部隊が3週間足留めされたキスカ島上陸作戦の戦果として「捕虜は雑種犬三頭」と発表され、日本軍の正式な捕虜としてカナダに連行された。
米軍はこのキスカ島撤退戦を「パーフェクトゲーム」と呼び称賛した。
戦史研究家はこれを「史上最大の最も実践的上陸演習」、「太平洋アメリカ海軍作戦史上、最も「屈辱的」」と記す。
ただ、樋口は戦後の回顧録らでアッツ島放棄が最も重い事だった模様。

ポツダム宣言受諾後の自衛戦…
これが本項の主題。
1945(昭和20)年、広島,長崎への原爆投下から、同8月9日に旧ソ連が日ソ中立条約を破り、宣戦布告。
9日未明には満洲北部らへ雪崩れ込み、民間人を含め殺戮や略奪を開始。
それは樺太や千島への攻撃に広がる。
元々特務機関で樋口が研究していたのはこの対ソ連戦。
樺太,千島でも徹底応戦する事に。
が、8月14日夜に参謀長萩中将が樋口を訪れ口にしたのは「ポツダム宣言受諾」。
翌15日には玉音放送され、16日に戦闘停止命令がだされ、17日には全軍末端まで戦闘中止した。
が、北部方面司令として樋口は「自衛戦闘も18日午後四時まで」と訓示、ソ連の手口を知っていた。
樋口の懸念通り、旧ソ連は武器を置く事はなく、樺太では戦闘継続の上、18日未明に占守島への侵攻を開始した。
当然、旧ソ連の目的は北海道の占領。
もう戦闘停止が決まっている日を狙い、上陸戦を仕掛けた事になる。
実は、占守島守備隊には、キスカ島から戻った部隊も含まれるそうで。
当然ながら戦闘は熾烈を極め、なんとか優勢まで運ぶ。
樋口はこれを大本営に対し、
「今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、第九十一師の一部兵力、これを邀えて自衛戦闘続行中なり。敵はさきに停戦を公表しながら、この挙に出るははなはだ不都合なるをもって、関係機関より、すみやかに折衝せられたし」
大本営はこれを受け、マッカーサーに連絡し、旧ソ連のアントノフへ停戦を求めるが拒否。
現地でも、軍使により停戦交渉を試みるも旧ソ連軍には停戦の意志無し。
基本的に四時段階で、優勢のまま積極的戦闘を停止、散発的戦闘は19日迄続く。
再度軍使により停戦が成立、23日より武装解除から行われる。
元々スターリンは北海道北部占領計画を持っており、それをトルーマンに反対されていた様だ。
つまり、占守島で押し戻し停戦まで持ち込めなければ、そのまま南下され北海道占領を許す事になった危険性は高いのだろう。
ここで食い止め、作戦見直しさせている内に、アメリカ軍は北海道へ進駐軍を送る。
が、武装解除後の8月28日に択捉島、9月1日には色丹島、9月2日に国後島へ不法占領。
北方四島の占領経緯はこんな様になる。
丸腰故の不法占領なのだ。
さらに、シベリアへの日本兵抑留も言うまでもないだろう。
後の日ソ共同宣言で旧ソ連が出した抑留者は6万人だが、現実はその十倍とも言われる。
旧ソ連領に振り分けられた人々は劣悪な環境下で重労働を強いられ、帰国出来ずその地で亡くなられた方も多い。
その後、当然ながら極東軍事裁判の話はある。
樋口も捜査された様だが、北部方面隊での捕虜への残虐行為等はないとされ釈放される。
この過程で旧ソ連側から樋口の身柄を引渡要求が出るが…そう、①のユダヤ人救出の為のヒグチルート開設があり、アメリカ国内のユダヤ人スクールがGHQへ強い働き掛けがあり、却下されたとか。
これが、現在ウクライナを侵略している「ロシア軍の前身組織」のやり方だ。
SNS上やマスコミで降伏しろなぞと言っている人が見受けられるが、現世代の祖父、曽祖父の時代でこれ。
軍組織がペレストロイカソ連崩壊で大変革でもしているか?
装備はそれでも基本的な志向まで変わったなぞと考える方がおかしくはないか?
ロシア軍が圧倒的敗北で根本的に変わる機会があった事なぞないのだから、本質を変える必要は無い。
同じ事をすると言う事。


さて、樋口季一郎とはこんな方。
一部には、彼を英雄的に言う方も見受けられるが、これらを読みながらそんな人物ではなく…
・困った人には手を差し伸べる
・上司の命令には従うが、その中で出来るだけ部下の命を守り遂行する事を考える
・信念は曲げない
こんな普通の日本の親父だったんじゃないかと、筆者は考える。
先の大戦で戦った方々は、皆さん普通に家族や周りの人々を守りたかっただけ。
現在のウクライナを見て、そう思う。
だって、我々はそんな人々の血を受け継いでるんだから。





参考文献:

「指揮官の決断 満洲とアッツの将軍 樋口季一郎」 早坂隆 文藝春秋 2010.6.20

アッツ島キスカ島の戦い 人道の将、樋口季一郎木村昌福」 将口泰浩 海竜社 2017.6.30