「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」…それを作った陸奥蝦夷(エミシ)集団と、朝廷や北海道の関連性を想定してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
これを前項とする。
一見、本項と全く関係無さそうであるが、実は大有。
実は、この辰砂を学ぶキッカケは、この「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」から始まった。

では、本題。
「赤彩球胴瓷」とは?
北上市立博物館、常設展示より。
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この様な土師器。
以前行われた特別展の解説図録より、どんなものか?書いてみる。

奈良~平安に北東北陸奥国側で主に出土した土師器。
大きく外反する口縁部と丸く張った胴部が特徴。
その口縁部に1~5条の縦線、胴部全面に成形段階でベンガラ(酸化鉄)を塗り、後に焼成し、赤色を施す。
彩色に実用効果はないので、祭祀用と考えられる。
また出土場所は北上川沿いやその支流を中心に陸奥国内で北は八戸から、南は宮城県北部とかなり限定的。
また、出土時期も8世紀後半~九世紀前半、つまり東北における38年戦争とほぼ一致しており、それらとの関連が指摘される。
その成立は出土数増加により、

・第1期
→古墳期後期の全面赤彩土師器文化集団と続縄文文化集団の接触

・第2期
→双方文化集団の文様を組合せた初期赤彩精製土器の出現…

・第3期
→文様の複雑化や幅広網状文様した赤彩精製土器の出現…

・第4期
→口縁部の縦線と胴部全面赤彩化した初期赤彩球胴瓷の出現…

・第5期
→胴部の球胴化や文様らの形式確立と和賀川流域への分布の偏りと盛期化「赤彩球胴瓷の完成」…

6期→赤彩の粗雑化や関東からの出土と共に衰退…
と変遷してきた事が判明してきた。

概ね3期で7~8世紀前半、4期で8世紀前~中期、完成する5期で8~9世紀前半と比定される。
北上市立博物館では完成期を「赤彩球胴瓷」とし蝦夷(エミシ)の赤い瓷と定義し、その出現時期がほぼ38年戦争と被る。

この内…
・3期出現と北東北の土師器様式の確立、続縄文土器の消滅がほぼ一致する事から、続縄文土器の祭祀的意味合いを赤彩精製土器が引き継いだ…
・赤彩は当時宮城中心の、装飾横穴式石室を持つ文化集団の赤彩文化を引き継いだのではないか…
らの説が唱えられ、北東北の古墳文化の影響を、蝦夷(エミシ)の祭祀文化が受けて、赤彩精製土器→赤彩球胴瓷と変遷したと考えられている模様。
また、その終焉は鎮守府胆沢城や徳丹城築城らの後も続くが、彩色の粗雑化や墨書土器共伴らから祭祀的意味合いの縮小らが考えられている。
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更に、関東での出土は、阿弖流為降伏による38年戦争終結後の蝦夷(エミシ)の各地への移住も想定されている。

参考文献は「蝦夷の赤い瓷 -最強の蝦夷和賀川にいた- 展示解説図録」 北上市博物館 令和2.11.13より。

先の我々が辰砂に着目したのは実は、この第6期で、東京都多摩市「上っ原遺跡」でこの「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」が出土したのを知ったから。
終焉期に関東での出土がある→蝦夷(エミシ)の移住との関連を疑うのは自然であろう。


さて、参考文献でも指摘する問題点を3点ピックアップしてみる。

①何故「赤い瓷」が出来たか?
第1期の説明にあるように、元々その源流は、北に居た「続縄文土器文化集団」と南(宮城県北部)の横穴式石室を持つ「古墳,土師器文化集団」の接触と交流にあるとされる。
縄文土器文化集団は、土器に沈線で文様を描く。
対して、古墳,土師器文化集団、特に横穴式石室を持つ集団は古墳石室らにベンガラによる赤い装飾を施す文化を持っていた。
上記にある2説は、それらから主張されている。
特に「赤彩精製土器→赤彩球胴瓷」に至る過程で、38年戦争勃発し、
・戦乱から逃れた人々が疎開する…
・北方からの援軍を得る為に、元々南の流れをくむ集団が北の民である事を強調する必要が出た…
らと説明する。
特に38年戦争勃発後は、北上川支流の和賀川流域、江釣子古墳群ら周辺に出土集中する事がその根拠。
北の古墳群は周溝を持つ土壙墓だが、江釣子古墳群周辺は、石組みによる石室を持つ事から横穴式石室を持つ集団との関連性が示唆されている訳だ。
この様に、続縄文土器文化集団と古墳,土師器文化集団が融合し、祭祀用として生まれ変遷したのではないか?と考えられている。

②赤い瓷の終焉は、38年戦争敗北で蝦夷(エミシ)は征服され「祭祀文化」を失ったからか?
現状そうとは限らないと考えられている。
現地の陸奥国蝦夷(エミシ)に対して、新技術の供与ら優遇政策がとられたと見られる事が解ってきた為だ。
それは「赤彩球胴瓷」の出土遺跡で「精銅遺構」「須恵器工人住居」と考えられる遺構が検出されている事から。
これは、何も陸奥国だけの話ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
38年戦争だけではない。
出羽で起こった元慶の乱でも終結後に、製鉄や須恵器窯の技術伝播が発生し、地方土豪の勢力拡大へ至っている。
これが北東北における古代の大乱終結の傾向だとも言えるのではないか。
また、「赤彩球胴瓷」を必要としなくなる理由は、その当時の城柵や周辺の状況で説明は可能だと考えられる。
城柵築城には、必ず神社仏閣が付帯しており、中央での神道や仏教の伝来が発生している。
それを拡大伝播させるのは、修験者ら。
それは「国見廃寺」らに見られる様に、勢力を拡大した土豪達に庇護され、末端まで徐々に浸透していく流れを考慮すれば、陰陽師らが使う中央の祭具らに取って変わられ、赤い瓷の必然的用途は無くなっていく…これで説明可能だ。
時期を重ねても矛盾は発生しない。
自然と縮小し終焉を迎えていくと考えられているんだろう。

③関東への移住は強制か?
②や移住先での牧場の拡大を鑑みと、関東移住はむしろ38年戦争で発覚した「陸奥蝦夷(エミシ)の進んだ牧畜」ら技術を伝播させる為に「指導する立場で派遣」された事も考慮せねばならないと指摘している。
これらが、考古学研究の伸展で解って来ている。

さて、③がでたところで…
我々が疑ったのは、これが「牧畜指導」だけではなく、鉱工業でも同様なのではなかったのか?と言う事だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
同書では馬を中心とした牧畜で想定しているが、我々は産金に着目してきた。
で、産金に当時必要としていた砂金採金や辰砂…これを考えていた訳だ。
産金は上記2~3期辺りになるのか?
採金や精錬技術を全国規模に拡大する為に技術集団「蝦夷(エミシ)」を各地へ派遣した…こんな想定。
実は…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1512710956635533313?t=L-HIx9-q0uQZPsXeXXhw9g&s=19
現実、全国に「移住」させてような話はある。
各地の必要状況に合わせて牧畜又は産金と集団を選択すれば良い。
どうだろう?
当然ながらその後、牧場も金鉱山らも全国規模に拡大するのは言うまでもない。
特に、金は「無かった」と認識されていたのにも関わらず…だ。
一応、筋は通るかと考える。


更に…
北海道に目を向けよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
・続縄文→擦文土器の変遷を担い…
・江別,恵庭に古墳を築き…
・古代北海道を開拓していく…
これら古墳を作る文化を持つ陸奥蝦夷(エミシ)が何故、北上するに至ったか?
これらは上記「赤彩精製土器」を作った第3期辺りに相当する。
擦文土器形成時期はほぼ3期、つまり38年戦争の前、陸奥蝦夷(エミシ)と朝廷がまだ対立する前且つ涌谷町での日本初産金が成功した頃と概ね一致すると言えるのではないか?
仮に、陸奥蝦夷(エミシ)の列島各地への移住が牧畜や産金の為と想定可能なれば、それより先んじ北上も同様の目的を持っていたとしてもとおかしくはないだろう。


何気に古代の列島の動きについて、ぼちぼちカードが集まってきたので、敢えて纏める意味も含めて考察してみた。
一応、断片のみなのでまだまだ仮説までもいかないだろうが、断片の中にある物証だけで組み立てれば、こんな話も成立してくるだろう。
擦文以前も北海道と東北の関係は切れた事はない。
全く独立した文化であったというのは、むしろ最新研究を無視する事だ。

さて…
蝦夷(エミシ)の赤い瓷」から広がりを魅せる、北海道〜東北〜朝廷との関連性がどのようなものか?興味は尽きない。
この後…
律令制下、多賀城,秋田城,鎮守府胆沢城ら城柵と官衙による統治時代…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317
・防御性集落らの出現…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
陸奥安倍氏,出羽清原氏、そして奥州藤原氏の時代…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
と、変遷していく。

だから我々は言う。
北海道と東北は古代から繋がっている。
それが切れた事は無い。
そして、都も他の地方もまた繋がっている…と。






参考文献:

蝦夷の赤い瓷 -最強の蝦夷和賀川にいた- 展示解説図録」 北上市博物館 令和2.11.13

「令和2年度特別展「蝦夷の赤い瓷 -最強の蝦夷和賀川にいた- 」関連事業 誌上フォーラム」 杉本良 他 『北上市立博物館研究報告 第22号』 北上市立博物館 2021.3.26