「防御性集落」とは?…道南〜北東北のその時代を学んでみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
前項はこちら。
北海道の対岸側はどうだったか?
9~11世紀辺りを中心に見てみたが、ここで出たのが「防御性集落」。
では、この「防御性集落」とは何なのか?
改めて学んでみよう。
結論から書けば、まだ研究者の意見は纏まっておらず、なんの為に構築されたのかははっきり解ってはいない。
F34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様から紹介戴いた「北の防御性集落と激動の時代」と言う文献がある。
この中でも研究者達が直接激論を飛ばす様が見られる。
同書から、ざっと概略を見ていこう。

○ここで言う「防御性集落」とは?
平安期に北海道〜北東北で構築された「土塁,空堀らで周囲を囲んだ集落」「高地の平坦地らに築かれた集落」「空堀や大溝で区画整理された集落」らの総称。
同単語には弥生期に本州で構築されたものも含むが、ここではあくまで「平安期に北海道〜北東北で構築された」を前提とする。
前項で紹介した「二十平(1)遺跡,向田(35)遺跡」、「高屋敷遺跡」らが該当する。
分布は道南〜北緯40度線が主。
正確な開始時期と廃絶時期は研究者によりまちまちで、まだ未確定。
時代背景を前後の状況で並べてみると…
①5〜6世紀
東北…
南東北への朝廷の北上や古墳構築
北海道…
縄文文化、一部オホーツク文化
阿倍比羅夫の北進−
②7~8世紀
東北…
赤い瓷を作るエミシと終末古墳構築
多賀城、秋田城ら築城
後に38年戦争勃発
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/10/180459
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
北海道…
江別,恵庭古墳群ら構築
土師器の検出と擦文文化が始まる
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
③9世紀(前半)
東北…
38年戦争終結鎮守府胆沢城,志波城,徳丹城築城
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317
征夷の中止と支配体制の変化
北海道…
擦文文化が拡大
④9世紀(後半)
東北…
元慶の乱勃発
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
製鉄や須恵器窯らの技術拡散
北海道…
擦文文化が拡大
⑤10世紀
東北(〜道南)…
『防御性集落』構築
北海道…
擦文文化が拡大
⑥11世紀
東北…
安倍氏,清原氏台頭
北海道…
擦文文化が拡大、道東へも
⑦12世紀
奥州藤原氏が勢力を盤石に
ざっとこんなところか。
防御性集落の時代は主に⑤〜⑥。
丁度、秋田城や胆沢城が廃絶しそうな時期から検出し始めると思われるが、廃絶時期については、例えば高屋敷遺跡の事例で言えば…
・堀を渡る柱の分析では12世紀と出ている事や内耳土器,取手付土器が出土しており12世紀まで続く
・内耳土器らと供出する杯の編年経過らを見れば11世紀で廃絶
と言う感じでほぼ百年ギャップが出ている。
ここで⑥と被るので、政治体制らの影響が絡み、アッサリ断言出来る状況でない。
が、野辺地や浪岡の状況をみると北海道との経済活動は全く切れてはおらず堅調。
北方の物資が如何なるルートで誰が都へ供給したか?らが絡むので、慎重にならざるを得ず。

○どんな遺跡が?f:id:tekkenoyaji:20220415193803j:plain
現在想定されている物はこんな感じ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
道南十二館比定地の「原口館」も実は発掘で防御性集落跡だと推定される。
又、この研究のトップランナーである三浦圭介氏が分類した内容がこれ。
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上北型…
段丘の先端らに集落を作り、最高部を堀で隔絶→支配層が出来上がっているのでは?
津軽型…
集落そのものが堀や土塁で囲まれる→支配層が明確ではないのでは?
ら、日本海津軽平野と三八上北地域で地域差がありそうだと提唱する。
この分類も研究者により幾つかのパターンがあり、まだ統一的には扱われていない。
当然、この時期にこれら遺構が検出されるのは北海道〜東北のみ。
故に蝦夷(エミシ)や俘囚との関連が示唆されるのだが、考古学者の意見も文献史学者の意見も微妙に折り合わず、朝廷勢力や出羽,陸奥国司、秋田城介,鎮守府将軍との関係も意見がまちまち。
よって、この時期の擦文文化の人々との関係もまだ確定はしていない。何故なら、この地域の人々は、道内の擦文文化の主流からも外れているから。
五所川原窯跡らの須恵器が流通するのは上記④〜⑥位。
経済圏で考えれば、北海道〜南東北の仲介者的に動いていた可能性はあり、北海道〜南東北と一体に連動はしていたであろうが、先述の通り支配体制との関係がまだ未確定であるのは確か。

○防御性はどうなのか?
ここも意見は分かれる。
前項の高屋敷遺跡の事例にも書いたが、
本来の防御性を考えたら、堀→土塁(柵列構築)→中心郭…これが最強となろう。
が、遺跡により、これが逆であったりする。
研究者によっては、堀構築の際の土の処理が土塁の意味なのでは?と考える方もいる。
これが秋田の「大鳥井山柵」なら、湿地→傾斜→土塁→堀→土塁(逆茂木有り)→堀→柵列→居住区と畝状空堀群を形成しており、殆ど山城、別格。
さすがに高屋敷遺跡らではこんな複雑ではない。
但し、三浦氏の研究では、11世紀まで存続した集落で防御性を持たぬものはほぼ無いとか。つまり、威嚇の意味も含めて機能していた証ではないかと考えている模様。
が、防御性の意味ではなく、区画整理や宗教的聖域を区分けした意見もある。
この根拠は、これら防御性集落にほぼ「戦闘痕跡」が無いとされる事なのだが。
ここで一つだけ、戦闘痕跡が検出された遺跡が発見される。
それが八戸の「林ノ前遺跡」。
大量の鉄鏃や明らかに戦闘により死亡した様な痕跡を持つ遺体が検出されたとの事。
林ノ前遺跡は、規模が他の防御性集落の数倍あり最大級。
製鉄工房,馬の遺体や金,銀らを扱った坩堝が出土している。
工藤雅樹氏によれば、安倍富忠じゃないかと推定され、前九年合戦においては当初安倍氏方だったが、源頼義の諜報で裏切りそうなので和議に行った惣領「安倍頼時」を攻撃し、深手を追った安倍頼時は、鳥海柵で息を引き取る。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%8C%E5%BF%A0
跡目を継いだ「安倍貞任」に殲滅戦くらって全滅させられたと仮説してる模様。
防御性集落の長はほぼ特定されていないので、この仮説が正しければ唯一の事例となる。
いずれにしても、丁度、朝廷城柵の時代と安倍,清原氏の時代を繋ぎ、当に動乱や勢力図が作り込まれる時代であるのは間違い無さそうである。

さて、最大の問題…
この土塁や堀は誰から集落を守る為?
1.朝廷勢力への反逆
2.北方、つまり北海道からの侵入者
3.拡大した安倍,清原氏
4.集落間の緊張
どれか?
当初は当然1と考えられたが、開口部らの位置関係等を考えると不自然なのだそうで。
2も同様。
現状は3又は4、それも4の可能性が高いと考える研究者が増えている模様。
我々的に考察してみよう。
経済圏が一緒だと前提すれば、地消地産した余剰分は当然、大消費地に売却される。
この場合、最大消費地は都だろう。
金や馬ら富の象徴は東北が最大産地。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
更に北方の物資の集約点でもある。
無理に1や2と敵対する必要はないだろう。
ならむしろ、他の集落に対する防御や「別将」として警察権を付与され利権拡大した後の安倍,清原氏の様な存在に対する警戒が必要だろう。
経済や物流が止まっていないのは、研究者達も一様に指摘するところ。
大きな動きとしては、そんな解釈が妥当なのではないだろうか。

恐らく、150年くらいの過渡期の時代。
概ね、前九年合戦で勝利し地方出身初の鎮守府将軍清原武則」や後に延久蝦夷合戦で活躍したとされる「清原真衡」らにより束ねられ、それを引き継いだ「藤原清衡」により隆盛していく過程で、その姿を消していくのではないか?というのは、概略としては一致するところ。

さて、では、北海道のチャシとの関連は?
はっきりした答えはまだ出ていない。
当然。
東北の状況が細かく解っていないから。
が、割と研究者が推定しているのは…
防御性集落が消えていく過程で北海道はある程度取り残され、同族同士の緊張緩和がされずチャシ構築に至る…というもの。
しかし…江別古墳群に付帯する「江別チャシ」らはその先代から。
それもどうも納得し難いような…


どうだろう?
38年戦争移行〜奥州藤原氏の時代迄でも、こんなに入り組んでいる。
同書でもあまり金らについての言及は無く、我々的にはそのエッセンスを考えながら学んでみようと考えていた訳だ。
また、政治体制や「富」に拘り、進めていこうと考える。
これが擦文文化期の対岸の状況の一部。
割と単純な変遷をした訳ではない。
そして、擦文文化を作る中には東北から北上した「蝦夷(エミシ)」が関与している。
全く関係ない訳はあり得ない。
実は、文献史学的にはこの時代における「蝦夷」は道内〜北緯40度線までの人々の事。
擦文文化期の北海道系住民は含まぬ様だ。
そして、まだアイノ文化の片鱗は無い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
そして、奥州市埋蔵文化財センターの展示パネルよりf:id:tekkenoyaji:20220415211547j:plain
「北海道系住民のムラは無い」
蝦夷(エミシ)を、その時代無かった文化人「アイノ」なぞと、時代を遡って呼ぶのは「ナンセンスの極み」言わざるを得ないと言っておこう。







参考文献:

「北の防御性集落と激動の時代」三浦圭介/小口雅史/斉藤利男 同成社 2006.8.10