北海道には文字がある、続報8&時系列上の矛盾…最大級「史跡ユクエピラチャシ跡」とは?、そして消えた「墨書礫」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
「ユクエピラチャシ」とは?
陸別町利別川段丘にある3郭連結式チャシ。
3つの弧状の壕で画された、北からA郭、B郭、C郭がそれぞれ並ぶ。
現況で長軸128m×短軸58m(発掘で確認された盛土含む)と、チャシとしては道内最大級の一つ。
ユクエピラの意味は「鹿を食べる崖」「鹿が餌を食べる崖」「鹿が居る崖」ら諸説ありだが、別名「カネランチャシ」「リクベツチャシ」とも呼ばれていた様だ。
B郭には周囲の開拓の祖「関寛斎」を祀った「関神社」があり、C郭には顕彰碑があったそうだ(現在移築)。
東側の崩落が酷く、元々は円周状に壕が巡らされていたとされるが、概ね1/3程度失われているのではないか?と想定され、その保全の意味も含めて国指定史跡指定を受け、発掘と整備事業が行われ、現在に至る。
その事業に伴い、
平成11~12年→試掘…
平成14~16年→本発掘…
平成17~20年→環境整備…
が行われ、現在の姿で見学可能になった。
元々は火山灰に覆われ「白いチャシ」と言われたらしいが、整備事業でその姿を再現させている。
実はグループでも話題になってはいて、令和3年秋段階で整備事業報告書、令和4年冬段階で本発掘の調査報告書を筆者は入手していた。
が、さすがに複数層で盛土され素人には難解だった為に放置していたのだが、ここにきて、SNSでお世話になっているF34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様から、試掘段階での報告書からのビッグニュースを戴き、敢えて取り上げることにした。

結論から書く。
試掘段階で、「西」そして「金」と墨書された「墨書礫」が検出されていた。

なかなかセンセーショナルとも言える。
同じ様に希少なものとして「トンコリ(弦楽器)の糸巻き」とされる物も試掘では検出され、それについての記述はまとめ等にあった。
しかし写真が本発掘の調査報告書と整備事業報告書に無く、不思議だなと思っていた。
で、ここが問題…
本発掘の発掘調査報告書と整備事業報告書にはこの『「西」,「金」の墨書礫』の記載は無い。
なので、我々グループのテーマの一つ「古代北海道には文字がある」…この琴線に引っ掛からなかったと言う訳だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
文字と言えば、余市町「大川遺跡」の墨書土器(漢字を土師器に墨書き)の事例は紹介済、可能性的には「中世の硯」も検出、余市町では、「文字が無かったのではなく、識字率の問題なのでは?」と問題提起されていた。
ここで他の地域でも墨書が出れば、古代~中世に「文字を扱える者が居た」可能性が出るのだが…また「アイノ文化人に対する忖度」という大人の事情であろうか?と勘ぐりたくなる。
更に「墨書礫」と言う事は、土器らの製作地で記載された可能性は全く排除される。
現地、陸別町で書かれた可能性が高くなって来るだろう。
可能性的には話題にならぬ「墨書や刻書」は各市町村の発掘で出土して且つ話題にされていない事も考えられる。
少しずつ探っていきたい。
「古代~中世北海道には文字があった」…少ないなりに。

結論から書いたので、ユクエピラチャシがどんなものか?サラリと書いておく。

概略の形と発掘経緯はこの通り。
では基本層序…
Ⅰ…表土
Ⅱ…ⅠとⅢの混ざり
Ⅲ…Ta-a(樽前山、1739年降灰)
Ⅳ…薄い腐植土
Ⅴ…駒ケ岳C2(駒ケ岳、1694年降灰)
Ⅵ…暗褐色土(アイノ文化期包含層)
Ⅶ…構築に伴う盛土、旧Ⅸ,Ⅹ層
Ⅷ…暗褐色土、旧表土
Ⅸ…暗褐色土で火山灰を伴う
(火山灰は不明)
Ⅹ…ハードローム
ⅩⅠ…灰色火山灰で「置戸火山灰」

元々、チャシ構築時点での地表はⅧ層になり、そこから壕を掘り、そこから出た土を周辺に盛土している。
その時、ⅩⅠ層の置戸火山灰を郭上に被せた為にチャシ全体が白っぽく見えたと推定して、それを再現させたと言う訳だ。
但し、置戸火山灰は「編年指標」とはされていない様で、降灰時期がハッキリ記載されてはいない。

遺構…
○A郭とA壕…
最も北側に位置し、関神社らとの関連が薄い為に撹乱が少なく、本発掘はせずに現状維持された。
壕の切合から、構築順はB→Aとなる。
○B郭とB壕…
中央に位置し、関神社が建立されていた。
溝状遺構→1
柵列構成柱穴→78
他の柱穴→45
不明ピット→1
焼土→16
(試掘と合計)
B郭の縁には柱と板らで構成される柵列が西側に廻らされてた模様。
○C郭とC壕…
南側に位置する。
溝状遺構→1
柵列構成柱穴→7
他の柱穴→11
不明土壙→1
焼土→4
C郭もB郭同様に西側に柵列があった模様。
C郭内には、B壕を掘った際の土を盛土し整地した痕跡が有り、構築順はB→Cとなる。
○D壕
B壕の西側に壕を検出したが、何故か埋め戻された形跡あり。

現状、構築はB郭,壕が最初に作られ、C→Aの順で拡大されたと考えられている様だ。

遺物…
縄文土器と続縄文(北大式)は出土しているが、アイノ文化期にクローズアップしておりあまり記載がない。
擦文土器の出土は記載無し。

鉄器
・刀,刀子
・小柄
・山刀
・小札
・釘
・鉄鍋片
・釣針
・鈎状鉄器(マレブ?) ら77点
特に、小札は黒い漆が塗布されている。
下地はなく、熱した鉄に漆を掛けたところから数層塗り重ねたと分析される。
顔料は煤で黒漆。補修の再塗布痕跡あり。

銅器
・縁金
・鞘金 ら9点
他、銭貨として皇宗通宝(初鋳1039年)が2、洪武通宝(初鋳1368年)が1、研磨され不明が2

陶器
・椀
・天目椀
・染付
白磁 ら4点
概ね15~16世紀の物。

ガラス玉
7点

骨格器
中柄ら360点

鹿、獣骨、魚骨
70369点
エゾシカが大半。

チャシ利用年代…
問題はここ。
概ね駒ケ岳C2に全体を被覆されており、17世紀末には確実に利用終了した事はほぼ確実の様だ。
上記遺物では、銭貨からは古代~中世、陶磁器からみれば15~16世紀。
ただ、これらは包含層からの出土の様で、それらが持ち込まれた年代には既にチャシは構築,存在したとは言えるのだが、営まれたか?と言えばそのままは「危険」だと本発掘の発掘調査報告書には記載される。
なら、C14炭素年代は?
焼土らの炭化物からの測定結果は、640±100BP〜1060±90BPで、概略西暦840~1310となり、思い切り擦文期。
報告書上でも、ハッキリ利用年代の特定まではしていない。
ここで気になるのは、遺物→包含層、C14炭素年代サンプル→直の焼土ら…ここ。
上記の墨書礫もハッキリ出土箇所が解らず、決め手にはならないが…
擦文期(C14炭素年代より)構築
→一度廃絶
→後代別の文化集団が再利用
→17世紀末前に再廃絶…
素人目ではあるが、こんな事は考えられないであろうか?
不思議と、こんな集団の変化があったと考える発掘調査報告書には巡り合わないのだが、物証だけでみれば有り得る話ではあると思うが…

さて、如何であろうか?
少なくとも、
墨書礫→後、全く触れず
トンコリ→後、片言のみ
ここは事実。
ここで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
ムックリトンコリは元々本道アイノが持っていた文化ではなく、樺太→対雁らへ移住した樺太アイノが持っていた文化なのは知れた話。
仮に、それがトンコリの弦巻きである場合、江戸期に樺太方面から侵入した者達がいた事になるのだが…
まぁ大々的に発表しない(出来ない)のもその為か?
最早、かなり勘ぐり深くなっているが…

真実は如何に…
今のところはここまで。





参考文献:

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成15年度発掘調査概要報告書−」 陸別町教育委員会 平成16.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~16年度発掘調査報告書−」 陸別町教育委員会 平成19.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~20年度整備事業報告書−」 陸別町教育委員会 平成21.3.27