時系列上の矛盾、厚真町②…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか?-1

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/29/165629
厚真町「厚幌1遺跡」を先に紹介していた。
ここでは、兜や内耳鉄鍋が出土。
この発掘調査事案は、厚幌ダム建設事業に付随して行われているので、遺跡は「厚幌1遺跡」一つではない。
厚真町の川沿い自体が遺跡だらけなのもあるが、このダム建設事業に伴い周辺を発掘調査してるので隣接した様な遺跡も多い。
なら集中してその周辺の発掘調査報告書を見てみるか…このシリーズはそんな感じで発掘調査報告書を集める事に成功した。
入手に当たり、旭川市「旭文堂書店」様にご配慮戴き、改めてこの場で御礼したい。
ありがとうございました。

さて、「厚幌1遺跡」はダム建設地の下流側。
たまたまここで紹介した、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
「上幌内モイ遺跡」、前項で書いた「SNSでの中世遺跡の情報がある遺跡」と殆ど隣同士だった、というオチがついていた。
耕作地(田んぼ)を中心に
北…ヲチャラセナイ、ヲチャラセナイチャシ遺跡
東…上幌内モイ遺跡
南…オニキシベ2遺跡(中世遺構情報)
西…オニキシベ6遺跡…
この4遺跡で一周。
で、この中で北、東、南の発掘調査報告書を入手出来た訳だ。
と、言う訳で、この周囲を発掘調査順に特に中世(場合により擦文)に焦点を当てて見ていこうと言うのがシリーズ主旨。
それぞれ、ボリュームのある報告書なので、少しずつ読んでいくので悪しからず。

では先に紹介していた「上幌内モイ遺跡」を皮切りにしよう。
「上幌内モイ遺跡」は2004~2008まで、三度に分けて発掘調査されている。
勿論、この三部の報告書はコンプリート。
で、それぞれ順に取り上げる。
まずは2004年段階から。
この遺跡は厚真川河口から29km遡り、夕張山地の南端付近。
厚真川の支流オニキシベ川と夕張山地を源流とするショロマ川の合流点に挟まれた段丘上にある。

では、基本層序…
0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包
含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…
ここであれ?と思ったのが、Ⅱ層c(1667年)直下からⅢ層b(900年代中葉)直下までの層厚は6cm。
約700年経過の中で6cmしか堆積しておらず、更に内1cmはⅢ層cが混じる…
「厚幌1遺跡」にある様に地震らで上位と混ざる事はあるかも知れないが、堆積が少ない印象。
それでも、Ⅲ層bの上位,下位で面的違いを持ち検出という。
なら、継続性があると言えるのか?

次に遺構…
アイノ文化期としたⅢ層b上位で、
住居跡…1、建物跡…2、焼土…3、炭化物集中…12等。
住居跡は約2mおきに柱穴を持つ4~5m×4mの平地住居で、中央と西側に焼土(炉跡と推定)がある。
建物跡2棟は2m×2m程度。
壁にあたる溝状遺構は無い模様。
擦文期としたⅢ層b下位では、
焼土…14、炭化物集中…19、土器集中…5等。
ここで焼土が2系統ある様で、
・骨片を殆ど含まない(又は少数)
・骨片を主体とする
に分かれる。

次は遺物…
アイノ文化期では、明確に住居炉跡から出土したのは針状鉄器と銭貸「聖宋元宝(初鋳1101年)」。
他短刀の鍔、金属器(ニンカリ?)、小札、刀子破片、不明鉄器3等。
コバルトブルーのガラス玉もあるが、極近い位置で擦文土器が出土しており明確に非ず。
擦文期では、擦文土器、須恵器、銅椀(少なくとも4個体に分かれる)、イナキビを団子状に丸めた炭化物、鉄鏃、鉄斧等。
又、丘陵部では擦文~アイノ文化まで纏めてU字の鍬先、鈎状鉄器、刀子等。
この丘陵部は鉄器片が集中する傾向あり。

まとめとして…
アイノ文化期では、住居跡が樽前bからどの程度遡るか?今後の課題としている。
上記通り、明確に利用時期を特定出来る物がないのが実状。
擦文期では、焼土跡で、骨の有無で傾向が分かれる→儀礼等が伴うか?伴わないか?の傾向ではないのか?と推定している。
また、イナキビ団子は栽培植物の加工,調理の実例として挙げられる可能性がある。
概ね、擦文遺物は白頭山-苫小牧火山灰より上にあり、10~11世紀の物と推定される。
ここは、縄文へ遡っても、本州~富良野~道東への山越えルート上で、交易や情報の通過点として想定されており継続調査が待たれる…こんな感じか。

さて、擦文期の儀礼場?…
銅椀は4個体。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/22/201652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
実は銅椀とは「六器」が由来。
仏様に食事を供える器で、修験者なら持っているであろう物。
中央では藤原摂関家の時代だろうが、荘園で潤った上位貴族以外には簡単に食器として使う事の出来ぬ高価なもの。
それが「儀礼場」と考えられる場所から出土する…これ、どうだろう?
この場だけ見れば、蓄財品と思われる物はなく、経済観念を加味すれば「六器」に近づくと思われるのだが…

と、残念ながら「ニンカリ」と思われる物は写真無し。

と、古~中~近世に焦点を絞り、紹介してみた。
先述の通り、「上幌内モイ遺跡」は、3回に分け発掘調査されている。
これがどう最終発掘調査の「周溝」に辿り着くのか?
ゆっくり続編を待って戴きたい。






参考文献:

厚真町 上幌内モイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査概要報告書-」 厚真町教育委員会 平成17.3.18