時系列上の矛盾、厚真町③…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか-2

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/21/203750
さて、続編である。
前項は平成16年度の発掘。
本項では、平成17年度(前項の西側)の発掘の概要である。
前項では段丘の東縁の発掘だった為に、段丘の隣接した西側へ地域拡大した感じ。

では、改めて基本層序…

0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包
含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…

ここは変わらず。
報告は平成16,17年度を纏めているので、数らは前項の物を含む。
丁度21グリッドの右側が16年度、左側が17年度の発掘になる。

では遺構から。
・アイノ文化期…
平地式住居…7、土壙墓…2、集中区…3箇所、杭列等。

この内、住居は出土層位や状態から前後関係がある様だ。
新しいもの…1,2,5号住居
古いもの…3,4,7号住居
ハッキリせず…6号住居
炉跡は2個/1軒が多い。
この中の1号住居の焼土跡のC14炭素年代は、暦年校正で1482~1648(2σ)年で、1500年代から1600年代前半までを示す。
概ね室町~江戸初期迄になるか。
また、土壙墓は、
1号墓…身長161cmの熟年男性、副葬は全長60cmの刀
2号墓…熟年女性(頭骨のみで身長ら不明)、副葬は刀子と漆椀、鉄鍋
の様だ。

・擦文文化期…
円形周溝遺構…1、竪穴様遺構…1、等。
これがその円形周溝遺構。

郭上に焼土跡を検出するものの、土壙墓らは検出無し。つまり、古墳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
これの事。
盛土の基底部と白頭山-苫小牧火山灰の関係から、擦文期に作られたものと断定される。
全体の径が約1m、内郭が約60cm強、勿論用途不明。
焼土跡は微量のキビやブドウ科の炭化種子が検出されるがこれも用途が明確では無い模様。
竪穴様遺構は、約60cmの円形×深さ約30cmで中央に炉跡があり、そこから吐き出した遺物で馬蹄形に溝が出来ている(人為的に掘った訳ではなさそう)。
柱跡が無い様で、住居とは言えない模様。
集中区は焼土や礫,土器集中らで、住居跡は検出されてはいない。
前項の炭化キビ塊や銅椀等と合せ、儀礼場ではないか?と推測する様だ。
C14炭素年代は4点行われ、暦年校正で880~1022年から1039~1217(2σ)年と、擦文(平安)期、特に後期を示す物が多い。

遺物は、前項を参照戴きたい。
土器ら数は増えるが、明確に別種と思われるものが追加されてはいない様だ。


さて…
発掘範囲が広まった事で、
・アイノ文化期
→平地式住居跡の追加と土壙墓検出…
→生活の場?
・擦文期
→円形周溝遺構や竪穴様遺構の検出…
→作業や儀礼場?
と…
前項でも指摘されていた事だが、割と明確に土地の利用用途が違う事に気付かれただろう。
基本層序的に5cmだが、その上位と下位で数百年のギャップが存在し、これだけ明確な違いがある。
筆者が気になる事は、擦文文化人があまり竪穴住居の切合いをしない几帳面さを持ち、墓域や聖域とされる空間と居住区を区別していた事。
連続性があると言われる余市町の大川遺跡,入船遺跡らがそれに当たり、その区別の傾向は続縄文〜擦文と受け継がれていたかと思うのだが。
が、ここ上幌内モイ遺跡では、まるで擦文期の利用用途を知らぬが如くに、儀礼場と推定される場所に、平気で住居や墓穴を空けている事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
本州の事例ではあるが、利用出来る土地の拡大の為、近現代では古墳近くまで居住区が伸びているが、何故、古墳が何故手付かずで残るのか?概ね先祖達の「墓」であろう事が伝承,想像出来るので、小山上に残る塚部分には触らなかったから…ではないだろうか?
それが墓でなくとも、何らか祀ったものと推定すれば「触らぬ神に祟りなし」。
古来からの墓所は、割とそのまま墓所として現代に繋がる事もある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033
今迄見てきた限りでは、アイノ文化では死後の世界を忌み嫌う傾向はあるようだ。
墓参習慣もなく、死者の魂はカムイへ「送り」生活の場に戻らぬ様に祈る…それほど忌み嫌うのに、わざわざ儀礼場と解っていたら、そんな所に生活の場を築くのか?
ここがどうも引っ掛かるのだ。
ここまで見る限りでは、先住の擦文文化人に対し、アイノ文化人は居住の継続性を持っていた訳ではなく、全くその土地勘が無い別集団として居住区を築いたのではないか?という疑念…
少なくとも、この上幌内モイ遺跡ではそうなるのではないか?と、朧げに引っ掛かってきている。

まぁ、上幌内モイ遺跡は三部作。
この第二章では「纏めや結語」の項目は無い。
時系列に読んで見ようではないか。




参考文献:

厚真町 上幌内モイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査概要報告書-」 厚真町教育委員会 平成17.3.18

厚真町 上幌内モイ遺跡(2) -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書2-」 厚真町教育委員会 平成19.3.27