この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/01/201111
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
これらを前項とする。
未だに不毛な議論が闊歩しているので、敢えて纏めとして書いておく。

・近世アイノ文化の人々は古代から住んでいた
・その文化の源流はオホーツク文化
まだそんな事を言っている方がいる様だが、それらは全く立証されてはいない。
史書上、古代に住んでいた人々と近世に住んでいた人々と繋がりが見い出せていないと「ハッキリ書いてある」のだ。


「先史時代の北海道に住んでいた人々はどんな種族の人であったかははっきりしない。発掘された人骨はすくなくないが、特徴は各年代ごとに異なり、また地域によっても異なっていて、統一的結論を出すにはいたっていない。先土器文化期に北海道に移り住んだ人々はそのままこの地に定着し、北海道が孤島になるとその原住民となった。その後しばしば海を渡って北方大陸や本州方面から、新しい文化を持った人が渡来したが、これらはおのおのの地域で先住者の中に吸収されていった。これらの渡来者のうちで最も顕著なのはオホーツク式土器文化の所有者であるモヨロ貝塚人である。この人々の骨格の特徴は道内各地で発見された他の文化系の人々、もしくは近世のアイヌ人、日本人とも著しく異なっている。しかしこれらの人々が何処へ行ってしまったのか解らない。」
「恐らくは近世アイヌ人の中に吸収されてしまったのだろう。そしてこの過程がまたしばしば各方面から北海道に移り住んだ人々の辿った道であった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

上記の様に途中の推移が全く立証出来ておらず、オホーツク文化の象徴たる「モヨロ貝塚人」も直結はしないと書いてあるのだ。
当然なのだ。
オホーツク文化は、擦文文化が道内に拡大する段階で消えてしまう。
近世アイノ文化の発掘調査報告や古書記録に似たような部分が出現するまで「数百年の空白」があり、途中過程が証明されている訳ではないし、まず近世アイノ文化の人々とは骨格特徴すら違うと書いてある。
故に「吸収されてしまったのだろう」と「仮説」しているに過ぎない。

そこで、一つの根拠として挙げられるのが、これ。

蝦夷がすなわち今日のアイヌを意味するようになったのは、東北の異民族と言えばアイヌしかほかにいなくなった時以来のことである。それは我国の勢力が奥羽の北端近くに伸び、蝦夷をえぞと呼ぶようになった平安末のこと、真に蝦夷アイヌであることを確実に語ったものは、正平十一(一三五六)年にできた諏訪大明神画詞である。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

但し、その根拠とされるものはこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
こんな主旨で書かれたものだ。
これが唯一だそうで。
つまり、確定に至らしめるには弱いと言わざるをえないし、これが考古学研究で裏付けるには「数百年のギャップ」の説明が求められる事になる。
これらは当然専門家は熟知した事で、「繋がっていると『仮定』した上で」各種論文らが書かれていると言う事だろう。
ここを踏まえねば、議論をする以前。
当然ながら、繋がっていると仰る方は、この「数百年のギャップ」を説明しなければならない。
そこから開始。
故にここが本質。

では、この「本質」を解明するための「問題点」は何か?
結論からズバリ書く。
『中世が見当たらない』…
これ。
上記の通り、
・鎌倉〜室町期の間の「古書記載が殆ど無い」事…
・鎌倉〜江戸初期の間の「遺跡が殆ど無い」事…
この2点だろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/26/204942
これもよく「コシャマインの乱」を引き合いに出す方は見受けられるが、コシャマインの乱こそ「有ったか?無かったのか?」解らないという記載がある。
戦場となった「道南十二館」も不明。
むしろ、南部氏側に記載ある「蠣崎蔵人の乱」には恩賞記録が残され、新羅之記録が唯一の記載であるコシャマインの乱より蓋然性が高いというオマケ付き。
ここも立証されてはおらず、室町〜戦国期もハッキリ言えばブラインドになっていると言わざるをえない。
つまり、仮に「諏訪大明神画詞」をある程度信憑性有りと仮定しても、中世が丸っと空白で、こちらも何も立証出来ていない。
中世遺跡として確実に認められるのは、現状は道南と余市位だろう。
それ故、今我々は厚真町の発掘調査報告書を読み込み中。
無いものは無い。

現状はこうだ。
途中過程である中世がハッキリ説明出来ない限り、繋がりあると断言出来るハズもない。
断言するなら、空白の中世を説明する責任を負わねばなるまい。
各研究者が立証出来ぬものを素人が簡単に立証出来るのか?
まぁ我々はそれに挑んではいるが、簡単なものではないのは熟知した上。
だから、発掘調査報告書まで遡って読んでいる訳で。

一言で済む。
「古代から近世に繋がっていると仰るなら、中世どのような経緯だったのですか?」
答えられる方は「いない」。
全て仮説のみ。
断言出来る事は何もない。







参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日