推挙を受けての三役任命、そして…「加賀家文書」に残る「雇い方願上」にある労働システム

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005
前項では、役アイノの推挙の話を。
では、改めてその後どうなるか?をみてみよう。
これは、一次幕府直轄以後の流れと見るべきところ。
その前、つまり松前藩施政下はどうか解らない。
同じかも知れないし、違うかも知れない。
蓋然性有りと言えるのは、幕末の東蝦夷地とされた地域の事だと言う事。
だが、幕府直轄では賃金やシステムの統一化はある程度予想可能。
何故なら、人足費用らは統一され、松前藩に戻された時代、後の二次直轄や東北諸藩に分割された時代もそれが踏襲されているから。

では、役アイノの任命から。

安政七年 役アイヌ申渡

安政七年申年
閏三月二十三日
アツケシ喜多野殿様
御用所御出席
当御詰合様同断

御申渡
惣名主役被仰付候 庄屋後見
惣年寄 仁助(ヘツカイ)

庄屋役人被仰付。
陣平(会所元・子モロ)

惣年寄役被仰付候
礼吉(ホニヲイ)
八蔵(ホニヲイ)

名主役被仰付候
正治(ホニヲイ)
喜吉(チウルエ)
鉄治(サキムイ)
三治郎(ウヘンヘツ)

殿様から年寄役 御直に被仰付候
鷹助(会所元・子モロ)
耕作(ウヘンヘツ)

会所から申立(年寄役)
重蔵(チウルエ)
才吉(シベツ)
四郎吉(ヘツカイ) 」

一応、解説には、安政七年は三月十八日をもって改元、三月十九日以降は万延元年になっているが、文書的には改元が反映されていない模様。
仁助が惣名主(惣乙名)となり、名主(乙名)と年寄(脇乙名)が厚岸代官立会で任命された時の「申渡書」になるのだろう。
厚岸の代官…仙台藩になるか。
この様に、役アイノは基本的に藩や函館奉行所から任命されるのだろう。
仁助はニシベツ川事件での活躍を経て、この地域のアイノのトップ「惣名主(惣乙名)」まで上り詰めた事に。
藩境とされる河川では、その利用権で上流と下流で揉めているのは概報。
この一件は白黒を付けるまで徹底的に役アイノ同士、又、藩を巻き込み話し合いをやっている様は、加賀家文書にも残る処。
役アイノ(役土人)任命はこの様な感じ。

では…

アイヌ雇い方願上

「恐れ乍ら書付けを以てお願い申し上げます

一当御場所のアイヌたちをこれ迄お貸し渡になり漁業に差し支えなく仕事をしてきました。有難く仕合せに存じ上げます。そのようなときところ、この度、御領地になりましたので、これまでの通りお貸し渡になられたくお願い申し上げます。尤も(筆者註:もっとも)、雇い方のことは漁業へ組み入れる者は
幕府の支配中からの仕切りの通り、漁割合勘定とし、その外大工・木挽・鍛冶・馬方・炭焼・畑作・山稼・二つの通行所詰人足・御用状持夫・通行人足等に使う者、これもまた先の規約通り賃金を差出します。勿論、食事等は入念に特別の手当等をして雇いたいと存じますので、恐れ乍らお願い申し上げます。以上
文久元年八月六日
御詰合様
御役人中様
子モロ支配人
善吉 印


御付札
書面 全て是までの通りと心得、アイヌの介抱は尚又念入に手当が行き届くように取計らうべき事 」


どんな時代か?
文久二年に皇女和宮の将軍徳川家茂とのご婚礼。
上記の通り、場所請負人の任期に合わせ、丁度幕府直轄領で仙台藩が警備の為の出張陣屋を開いていた時に、陣屋へ「アイノ雇い方願」を出したものか。
これを見る限り、統率しているのは藩、又は函館奉行所で、場所請負人や支配人は「その労働力を借り受け、雇い入れる」と言う形になっているのが解るだろう。


上記二つを見る限りでは、
・独立性はこの段階では無い。むしろ、幕府や藩直属の漁師,工人衆的な存在。
・幕府や藩から任命された役土人がそれら人民を率いる。
・場所請負人やそれに雇われた支配人が、幕府や藩に対して「その労働力を借り受け、雇い入れる」形で場所運営を行う。
・漁師は「漁獲高に相応した歩合」で、工人は「幕府が設定した給料」で、それぞれ支払われる。
以上。

随分イメージが違うと思うが、残されている「加賀家文書」に則ればこうなる。
故に、働きが良い者や家族円満,出産,長寿,死亡時には、幕府又は藩から場所を介して手当(ボーナス)が支給されたと。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
更に「非課税」。
税金は、場所請負人が運上金として支払う。
本人達が払う必要はなかった。
この他に、役土人にはオムシャらで酒や煙草その他の「役付手当」が支払われ、後に上下の着用が許可されると。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757
この他、本州の名主や庄屋が行った世話役としての機能も支配人らが担い、賃金の台帳管理や戸籍(宗門改に必要)らも代行していたと言う事に。
何より本州との違いは、名主,庄屋を介して意見が言えた事。
下手に集まり逆らう様な意見を言おうとするなら、一揆とみなされ磔が待っている。
故に連座する時は円形に代表者が解らぬ様に署名したのは、あちこちの資料館でも展示が見られるだろう。
ここまで見た限りで、そのような連座署名はない。
場所経由又は乙名直接であれこれ陳情があったからこそ、赤裸々な話まで残されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
構造的欠陥も幕府直轄で随分解消されたと言わざるをえないか。
で、なければ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
こんな総力戦での開拓事業が、役土人含めて行われる訳もない。
勿論、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
中には極悪非道と思われる場所もあったであろうが。
ただ、それも松浦武四郎等の様に、直接函館奉行らにリーク出来る者により、待遇検討余地が広がったりしているのも確かであろう。


さて、どうだろう。
史書から、それらを発行するために使われた史料に遡れば、こんな記事も存在するのだ。
本来、歴史学も体系的に組み上げられているハズなのだが、これら細かい施策が提示されている史書って少ないのでは?
「弾圧印象」が各文献でも先行し、感情論的に解釈された事が記載の多くに割かれているのもまたあるのではないだろうか?
多角的に他支店での検証が必要だと考えるのは、我々だけであろうか?

折角、某博物館も出来たのだ。
見直しすべきタイミングでもあるのではないだろうか?
勿論、それをやるのは「その組織の中に身を置く者」の役目だと思うのだが。
自浄努力は組織にとって必須、無ければ腐るだけ。
責任を持って「矢面に立って」戴きたいものだ。
多額の「税金」を使って存立しているのだから。





参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31