それぞれが竈と炉に直結する「似て非なるもの」…改めて「鍋・釜」を学んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
さて、今回は「鍋」と「釜」である。
漠然と釜・窯・竈・鍋らと言ってはいるが、違いは何か?
実は古来、ちゃんと使い分けされていた様だ。
そこから学び直してみようと思う。
また「ものと人間の文化史」から「鍋・釜」である。
予め…著者の朝岡氏は、食器や考古学ではなく、著書より見る限り鉄器文化がご専門。
この本の中でも土鍋らではなく、鉄器である鉄釜,鉄鍋へ焦点を当てている。

では、まず同書から予備知識を拾っていこう。

・鋳造と鍛造…
「鉄器」と言っても、実用する段階での鉄が何種類かある事はご存知だろうか?
これはその後の使い方と深く関係する。
①鋳造
「鋳物」の事。
熱で鉄を溶かし、金属や土で作った「型」に流し込み固めて作るので、同形状で量産し易い。
これは鋳物師の仕事になる。
②鍛造
熱で柔らかくした鉄を叩いて鍛えたり、伸ばしたり、曲げたりして成形して作る。
刃物が解りやすいか。
これは鍛冶屋の仕事になる。

・素材…
「鋳造と鍛造」を踏まえ、実はその素材もそれぞれに分かれる。
①銑鉄
主に鋳造(鋳物)で使われる。
炭素を3%程度含み、鉄を精錬する上では先に取り出される。
これを鍛造しようとすると割れてしまう。
これも古い時代は二種類に分かれ、
・鼠銑鉄
断面がグレーで、溶かすとサラサラなので「型」に流し易い。
錆びるし、後加工可能。
・白銑鉄
断面は結晶質で、溶かすと粘りがあり「型」に流し難い。
但し、錆難く、硬くて後加工はほぼムリ。
②軟鉄
炭素はほぼ含まない。
鍛造で一般の鉄器として使う。
柔らかく自由に加工出来るが強度は無い。
③鋼
炭素を1.5%以下含む。
粘りと強靭さを備え、更に再加熱→急冷すると硬度が増す(焼入れ)。
刀剣や包丁ら刃物がこれ。

銑鉄を再精錬して軟鉄や鋼を作る。
ここで…
鋳物の素材として、西洋では(Chinaでも後の時代に)、鼠銑鉄が使われた。
サラサラなので精密な型に流し込める為。
我が国は?
ほぼ白銑鉄を使ったそうで。
錆びにくく、強いから。
つまり、古代~中世の鋳物はほぼ白銑鉄であり、故に茶器らで現存するものがある。
釜や鍋には最適だったと言うことになるが、そんな茶器らでも底の部分は何度も熱せられるので当然痛む。
現存する物も実は、補修された跡かあるそうで。
この補修を「鋳掛け」と言い、「鋳掛け師」と言う商売が、戦後まで存在していたそうで。
鋳掛けについては、また後程。

・伝搬
さて、鍋・釜は鉄器ではあるが、その文化にはw/wで地域差があるそうで。
①東アジア
鍋・釜らは古来ほぼ鋳造、つまり鋳物で作られた。
元々、Chinaからの伝播と考えられている。
で、ここがミソ。
・Chinaは鍋文化
朝鮮半島は釜文化
・我が国は鍋・釜を使い分ける文化
②西洋や中央アジア
鍋はほぼ鍛造、つまり叩いて伸ばしたり曲げて作っていたそうで。
これは鉄以外の素材でも鍛造の様だ。
つまり、鍋・釜を鋳物で作る文化は東アジア固有の文化との事。

因みに、「鍋」と「堝」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
元々Chinaでは「堝」は、正に金属精錬らに使う「坩堝」を意味する漢字だった様だが、我が国では「堝」は土鍋を指す様に変化した様だ。これは「延喜式」らに記述で使い分けされている事から、
堝→土鍋
鍋→鉄鍋 と判断可能な様で。


さてではここから本題に入ろう。

A、鍋と釜の違い
実は「鍋」と「釜」は元々の機能も製造工程も違うものなのだそうで。
更にこの他に関連する物がある。それが「鼎」。

①鍋
・機能
「煮る、炒る、焼く、炒める、揚げる」に使うもの。
・製造工程
鍋は口縁部が最大径になる。
よって「型」は内側,外側の二つ必要で、 鍋を逆さまにして、底の部分から溶けた鉄を流し込み外側に広げる。

②釜
・機能
元来は「お湯を沸かす」に使うもので、二次的に機能を追加されたもの。
その機能が「茹でる」「蒸す」そして「炊く」。
それに特化している理由が最大径。
釜は、鍔が付く場所を最大径として、口縁部に向かい同径か窄まり小径になる。
鍔は竈や五徳に載せた場合に、その径で固定される。
鍔~口縁部は、お湯の沸騰による「吹きこぼれ」対策でもあると言う。
ここが一つポイント。
・製造工程
機能に書いた様に、口縁部が窄まる→内側の「型」を抜く事が不可能。
よって「型」は、鍔~口縁部、内側(壊れやすく作る)、鍔~底の最低三つ必要になる。
で、元々鍔は「型」の合わせ目に出るバリを逆利用して鍋の固定用として活かしたと著者は解説する。
実は、金属器の場合、鍋・釜のどちらが先か?…これ、釜が先になるそうで。
元々が高価な為に宮廷らでの使用に限定され、工人集団が出来上がり技術が高度化していき釜が発達。
金属器の拡大や鋳物技術の拡散が起こり、民需使用の為に、より簡単且つ「型」の複数利用らを進めて量産化していったと考えている様で。
先述の様に、人口が格段に多いChinaが鍋文化になったのはここからの様で。
なら、朝鮮半島は?
金属器を使えるのは一握りの両班に限られ、オンドルと言う竈て火を焚く時には釜でお湯を沸かしていた事で、釜文化になったと推定している様だ。
と、書けばおわかりだろう。
元々釜は竈とセットから発達し、
China→竈に鍋にを掛ける様に変遷
朝鮮半島→そのまま竈に釜をかけるのを維持したとも言える。
我が国では?
ここで独特なのは、宗教的要素も著者は考慮する。
お湯を沸かす事に神聖な意味も持つ様だ。
例えば「湯立神楽」。
水蒸気を立て清めたりする。
例えば「地獄絵図」、ここで登場するのが「鼎(かなえ)」。
釜状だが三本の脚かついていて、竈に掛けるのではなく、脚の下で火を焚く。
これを「地獄の釜」として描いている。
末法思想下では、それも浄化の一つとか。
日本の地獄絵図は、攻め具が日常にある物だというのが特徴らしい。
例えば「竈神」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204
こちらでは割愛しているが、竈神は所謂「戸籍無き神々」。
古事記らには記されぬ神故に、朝廷が出来る前からの古い土着信仰からきたとも考えられる様だ。
例えば「風呂」
禊や水垢離で身体を浄める…
本格的な湯沸かし装置を使った蒸し風呂や湯風呂は寺院に設置された様で。
中世での風呂の様子は古絵図で残され、掛け湯用の小さい竈&釜、湯風呂用の大きな竈&釜が並ぶ姿が書かれている。
これも「風呂釜」。
元々の「竈と釜はセットで湯を沸かす物」と言う部分と機能が違う点が残ったのはそんな事なのだろう。
確かに、竈を「カマ」とも言う。

では、釜に追加された機能とは?…「炊く」。
元々米は、土器と甑(こしき)で蒸して強飯として食べたと言われる。
他方、中世「一遍聖絵」では、鍋・堝に雑炊の様なものが描かれる。
これが、「貴族,僧侶らは強飯、庶民は雑炊」等らの根拠の様で。
「炊いたご飯」は、その中間的でもあるかも知れない。
先の鍋と釜の機能の違いを思い出して欲しい。
煮る(鍋)と茹でる(釜)の違いは、お湯が出来てあるかないか?の違い。
「煮る」は、汁と対象物が両方常温から温度を上げても成立する。
「茹でる」は、先にお湯が沸騰していなければ成立しない。
それぞれの機能から筆者は考察する。
では「炊く」は?
「前略〜上手に飯を炊くには「初めちょろちょろ、中ぱっぱ」と言われているように、炊き上がるまでになんどか火力を調整する必要があるとされている。「中ぱっぱ」の時には、出来るだけ大きな火力を用いて強く沸騰させるのがよい。そして、この時に蒸気圧に負けない重い蓋が乗っていると、内圧が高まるから早く芯まで熱が通る。「飯炊き釜」に分厚い木蓋が載っているのはこのためである。
このようにして、「炊く」は「焚く」に通じて、比較的に弱い火で時間をかけて加熱を続ける「煮る」とは、火の性質が異なることになる。「炊く」過程の当初の「ちょろちょろ」は「煮る」に類似するが、米に含水が進行して水が沸騰点に達すると火力を上げて「中ぱっぱ」の状態になる。それは「焚く」段階であるといってよいであろう。こうして十分に焚かれると、ここで徐々に火を落として余熱を保ちながら「蒸す」ことになる。
この場合に、「焚く」為の強火が可能になるのは、竈が使用されているからである。」

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1 より引用…

あれ?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/18/124751
似たような事を考えていた様で。
「炊く」は、煮る要素、焚く(蒸気加圧)の要素、蒸す要素を火加減で連続工程で行う。
本来は竈&釜のセットであろう事は解る。
故に飯炊き釜。

西日本の様に土間に竈を設置する文化に対して、東日本、特に東北では、竈より囲炉裏文化とされ、竪穴住居→平地式住居で竈の痕跡が消える為に中世は竈を使わなかったかも知れないと言う話になっていた。
これが「生きていた証」シリーズの「中世、東北に竈はあるか?」に繋がる。

そして、鍋は?
実はこちらは炉(地炉)や囲炉裏とセット。
これ、鍋の系譜を追うと畿内を中心とした弦付鍋(堝)や東北中心の内耳鍋(堝)の様に弦で吊るす事が出来る構造。
勿論、持ち運びの要素もあろうが、自在鉤で吊るし、火力調整可能。
低温でコトコト「煮る」には非常に便利と言うわけだ。


ここまで解ってきたところで、こんな話を見つけた。

①鉄器文化の系譜の違い…

「『延喜式』四十二、東西市司を見ると、京の東市には「鉄、金器商」が入っており、西市には「土器商」が出てくる。西市の「土器」売りの商品の中には当然ながら堝が含まれていたと考えられ、東市の「金器売り」には鍋・釜が含まれていたと推測される。」
「前略〜「なべ」の金属化の進行は『延喜式』が書かれた十世紀ごろから始まって、以後に主として交易を通してゆっくりと全国に及んでいったのだと考えておきたい。
ただし、このことは、鍋の金属化の拠点が畿内に限られていたということを意味するものではない。歴史考古学の成果からみると、東北地方や北陸には畿内と異なる鍋型がふきしたらしいからである。東北・藤原氏の拠点であった柳之御所からは内耳鍋が出土しており、東日本の鍋も案外に古くから生産されていたらしく、それは畿内とは異なる朝鮮半島との交易を背景にしていたかもしれない。」

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1

土鍋は技術的に簡単で、商品としての「堝」のみならず製造技術も伝播する。
が、鉄鍋は技術的に難しい為に工人集団が組織化され、技術の囲い込みが起こる。
よって、商品としての「鍋」は拡散するが、技術伝播はしなかった…と、著者は言っている。
その上で、東北・北陸には畿内とは別系譜の「鍋」が存在すると。
この引き合いが柳之御所の内耳鉄鍋。

これが「岩手県立平泉歴史遺産ガイダンスセンター」のレプリカ。
これだと11~12世紀となるか。
東北の鉄鍋文化と言えば、これが代名詞。
同様のものは、金沢柵・陣館遺跡でも出土している。
金沢柵は「後三年合戦」で兵糧攻めで落ちたとされるので、もしかしたらこちらが古い…?
いや、実はもっと古い東日本最古級の鍋・釜は存在する。

八世紀の「釜」と、

10世紀の「把手付鉄鍋」。
鋳物であろうから、一個しかない訳ではなかろう。
釜は朝鮮半島ではなく、渤海国の影響だろう。
なら、把手付鉄鍋は?
絵図では見た事がない現物がここにある。
全く畿内とは別系譜は、平泉より先に秋田城で胎動したかも知れないのではないだろうか?
この時期、勿論まだ「平泉」は都市化していない。
何故、軽々しく「別系譜が…」と言えるのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
元慶の乱
これ以後、製鉄,須恵器技術は秋田城を起点に雄物川に沿い内陸へ。
同時に能代,由利から米代川,子吉川を遡り拡大。
それが津軽に北上し、津軽平野一帯に広がり、五所川原らへ到達、北海道との交易に使われた。
ここでは、畿内の様な「工人集団の技術囲い込み」は無い。
どうだろう?

延喜式には「置き竈」の記述がある

「『延喜式』の巻二、神祇の部、四時祭下には、神事に必要とされる供物や器具類が事細かく書き上げられてあり、このなかに「釜」と「堝」とが出てくる。たとえば、新嘗祭にともなう供料のうちに、各種の器と共に、「堝十口。火爐二口」と出てきて、新たに築いた炊殿で土堝を置炉にかけて用いたことがわかる。
伊勢神宮新嘗祭においても同様の方法を採っており、神祇後、斎宮の項には、やはり新嘗の供料として「土火爐二脚、……堝各十口」と出てくる。ここでは、当時の宮廷神事において「鍋」ではなく「堝」が用いられたこと、それは土器時代の名残りであると考えられることに注目しておかなければならない。」
「ところで、次に「年料供物」のところを見ると、「銀盞一合。銀鋺一合。銀匕四枚。銀堝子一口。並供御料長物」と挙がっており、斎宮に供するために銀鍋が用いられていたことも、またわかり、高貴の御方の日用食器には銀器が使用されていたらしいと推定される。
そして、続いて「韓竈二口。銅旅竈一具。木蓋十一枚。鐵火爐位置枚。土火爐四枚」とあるから、ここから、当時、竈と炉の二種類の加熱装置の使い分けがあったことも知ることができる。この記述だけでは韓竈・銅旅竈・鐵火爐・土火爐のあいだにどのような具体的な違いがあるのかはわからないが、竈の名称のなかに「韓竈」があって、韓国との結びつきを暗示していることに注目しておきたい。「銅旅竈」とは金属製の置竈のことで、後代の「風炉」に相当するものであろうから、これも新しく伝来したものであると思われる。」

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1

宮中行事伊勢神宮新嘗祭らでは、使う食器らが細かく定められ、行事に合わせ「調(特産物での租税)」として納品された様だ。
ここで「鍋・堝」は奈良や大阪から運ばれたものとしている。
対して「釜」は、記載が無いそうで。
よって、釜は規格物と言うより、個別オーダーメイドだったのではないか?と著者は推定している。
そして、「韓竈」「銅旅竈」「鐵火爐」「土火爐」は「調」で調達されていた事が記載される。
祭祀用ではあるが、租税対象として製造され、必要に応じ流通していた事は明白。
では…東北では?
まさか、新嘗祭らを国衙でやらんとは思えない。
ここはと思い、「秋田城跡歴史資料館」に突撃を敢行した。

Q:秋田城で新嘗祭らの行事はやられたか?
A:やったであろうが、記録は見つけられていない。

Q:木簡や漆紙文書でこれら準備リストはあるか?
A:現状は、周辺から米を運んだり、鯛を持ち込んだ物は出土してはいるが、食器や火器が記載されたものは検出していない。

以上、残念。
釜の写真の様に、仮に秋田城の工人が試作していたら、移動式竈の系譜は「秋田城」から始まる事もあり得る事に。
ここは、延喜式らでの国衙での状況を確認する作業は行っていきたい。
取り敢えず、ヒントは出た訳だ。
以前から延喜式や和名抄らの確認は意識していたが、やらねばなるまい。
上記にある「風炉」とは、茶湯で使われた移動式竈で、金属又は陶器製、湯釜を掛けて「湯を沸かした」との事。
ポツポツそれらしいものはあるのが解る。
又、たまに出てくる「金輪」と言うものがあるが、元々は竈の竈口にはめ込み羽釜の鍔を受ける物が脚を付けて地炉,囲炉裏で使う様になった物…つまり、五徳の事だそうで。
中世の古絵図では地炉に五徳を備え、鍋,堝を掛けている。
ところで…
著者の朝岡氏は「韓竈」を韓国との関連を考えているが、浅学故の疑問…この当時、朝鮮半島に「韓」の字を当たのだろうか?
確かに、原三国期では辰韓,弁韓,馬韓となってはいるし、この時代には「百済王氏」は中流貴族として陸奥国司らで赴任してきているので、解らないでもないのだが。
まぁこの辺は、我々は系統立てた学問として学んではいない証左。
疑問に思えば都度学び見識を増やせば良いだけの事。
我々は「0」からスタート、何も知らない。

③何故、鉄鍋や釜が現存し難いか?
これは上記にある程度答えがある。
・白銑鉄を使ったので耐久性があり、長年使用した。
・鉄鍋は高価なので貸出制度があった。
前田藩の「塩釜」らの事例が記載されているが、鋳物師が大量に保有し貸出して、冬に回り貸賃を取る制度があった。
途中で穴が空けば「鋳直し」で補修し、使用に耐えられなくなれば回収して、鋳物の材料にしたり、鍛冶屋に売却して鍛造の素材として使った為に殆ど現存しなくなる。
特に鍛造の素材としては、鉄鉱石や砂鉄からの精錬は必要なく、大鍛冶で対応出来たり、軟鉄の先端に白銑鉄を乗せ農具の刃先(硬さを利用)としたりしたそうで、手間を掛けず良質の素材としてリサイクルした模様。
鋳物師や鋳直し師は、世襲された特定の「大工(親方)」が利権を独占しており、領主らに庇護されていて、末端の小工(工人,職人)の訪問先らの調整らも決める権限を付与されていた。つまり完全に囲い込みを行われていた事になる。
何処かで聞いた様な話では?
まぁ江戸期の関八州なら…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/144412
置いておく…
鋳直しは、戦後まで続けられていた。
今の様に、穴が空けば廃却…こんなのは極最近で、アルミ鍋でも穴が空けばリベットで塞ぐ様な事は我が国の悠久の流れでいけばつい最近までなかったことになるか。
で、ここでも尚、大工(親方)によるルート統制は続けられていたそうで。
どういう事か、わかるかな…?


単に鍋・釜でも、こんな風になってしまう。
食文化史、技術史、宗教史、民俗史そして考古学や文献史学と数多の要素が入り組み、現実的には細かいところまで解っていない事が多い様で。
全然書き込めていないのだ。
鍋・釜だけても、我が国の文化はこれだけ色濃いという事か。
まるで泥沼の様に深いのだ。
「中世に竈はあるか?」…たったこれだけでも、周囲や背景まで学ばねば本当の事は解らない。
一つの断片だけでは理解し得ないのが、歴史学なのかも知れない。
ジワジワ学んでいこうではないか。







参考文献:

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1