弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
筆者は先に北海道弾丸勉強ツアーを敢行した。
その時の報告をしていこうと思う。
テーマは前項にあるように、擦文と古墳群とは?、そして、余市茂入山の石垣を探せ…である。
移動時間が全く読めないので、近辺にあるキウス周堤墓群やカリンバ遺跡ら全てカットし、現場の地形,空気や資料館での質問に時間を費やすと言うピンポイント砲撃。

何回かに分けて書いていくが、まずは「恵庭」から。
従来から我々が気にしている点を、現地の研究者がどう見ているか?、そんな視点でこの項は進めてみたい。
まずは前提条件。
恵庭市郷土資料館の認識を先に。
資料館パネルより引用…
「考古学では7~12世紀頃を擦文文化、19~18世紀頃をアイヌ文化と呼んでいます。ですが、擦文文化からアイヌ文化にある日突然変わったわけでも、人種が変わったわけでもありません。アイヌ文化は擦文文化がオホーツク文化や本州の影響を受けて徐々に変化したもので、家は竪穴住居から平地住居へ、調理器具は土器から鉄鍋へと変わっていきました。」
擦文文化期とアイノ文化期の違いに対する認識は、これが前提で展示されていると言う事であろう。
では2点について報告する。


①江戸期の火山灰の処理と擦文文化,アイノ文化に対する認識…

いきなり核心をぶつけてみる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/16/185453
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
今迄も火山灰の壁について報告している。
北海道の祖先達は生き延びる事が出来たのか?…これに伴う疑問をどう見るか?だ。
それら火山灰層までは、試掘後には「重機でよせる」と発掘調査報告書には記載される。
だが、アイノ文化の生活痕がそこに出てこないとおかしいのだ。
そこは今迄も報告してきた。
ではなんでそんな事が出来るのか?をストレートにぶつけた。
答えは?…
現実問題として、開拓段階らで、表土層は殆ど撹乱され、遺構遺物の検出そのものが難しいのだそうだ。
展示パネルより…


恵庭に於いては、1667年の樽前山-b火山灰(Ta-b)は有っても局部的に被覆,多くは土層にパラパラ交じる程度だが、1739年の樽前山-a火山灰(Ta-a)はパネルの通り概ね古い土層を被覆している。
早い話、発掘時は、この「火山灰被覆がある→その下層は撹乱されていない」を前提としているとの事。
火山灰より上は「混ぜられ破壊されている」と言う考え方だ。
???
お気づきだろうか?
つまり、恵庭では「1739年以降の遺構,遺物は破壊されている」…と、見なしているのだ。
これに合わせ展示されている「アイノ文化の展示物に古い物かない」事を絡めてみた。
ここでは「ムックリ」も展示されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
概報だが、ムックリは「樺太」のもの。
学芸員さんは、これを熟知、楽器類は樺太アイノのものと知っており、その上で寄贈者からのコレクションとして同時展示しているとの回答。
そう、資料館側は本道には楽器が無かった事を知っている。
その上で、「考古学的には樽前山-a以降は空白期であり、検討に当たりその後は絵図ら古文書で担保するしかない」…との事だ。
アイノ文化期における古い展示が無い理由は、「考古学的に検出不能で、無い又は解らない」と言う事。
これは他地域でも共通なのだろう。
ここでもう一つ。
恵庭の場合は1739年の火山灰。
他地域では1664年の場合もあり得る。
ここで約100年のギャップがある。
絵図が残され始めるのは幕末の直轄化らの時代で1800年前後。
三国通覧図説(これは図有り)や赤蝦夷風説考が書かれたのが1700年代中〜後半。
そこまでは空白になり、明治以降の物がそれぞれ寄贈され展示。
虫食い状態が実態だそうで。
因みに、マキリ…いや、間切包丁が酒田打なのはご存知なかったので林子平の三国通覧図説にあると指摘してきた。
そして、火山灰降灰前の各遺物が何処まで遡るかも不明。
中世遺構は殆どないのも当然熟知(厚真が注目されていると)。
折角だから、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537
大丈夫なのか?と尋ねると、非常に精密に発掘はしているが、元々北海道は土砂堆積が少なく数千年が数十㌢で、編年指標も乏しい為に発掘はかなり苦労されているとの事だ。
年代特定も炭化物の放射性炭素(Ç14)測定とそれと共伴の遺物らで組立てるしかない事もあると。
その上で、現実としては、年代特定も本州移入品だらけな事も合わせて、「何の遺物を持って『アイノ文化の確実な指標』とするかは、諸説有りで固まってはいない」とお答え戴いた。
現実的には、中世以降の事は指標が確実な指標が無さ過ぎて、明確な文化移行がどうかすら解らないのだ。
擦文迄はある程度確定に近い事は解る。
前項の通り。
最低でも、「中世の空白」「江戸中〜後期期の空白」は埋めるに至らず、前後の時代を無条件にくっつけざるを得ないと言う事なのである。
本当に、幕末の絵図同様だったのか?は未知数。
勿論、専門家はそれらは熟知。
当然、我々アマチュアもそれは熟知しておかなければならない。
だが、巷のSNSらでは知ってる素振りはまるでなし。
敢えて言おう…「勉強不足」。
大体、我々以外にSNS上で「中世は空白」と言う話をあまり聞かない。
飛び交うのはコシャマインが〜等…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
アホか?
歴史戦やりたいなら真面目に学べ。
専門家はこれを知っている。

②銅椀の存在…

恵庭でも銅椀が出土していた。
これは筆者は認識していなかった。
勿論、グループ内で「佐波理の銅椀」の話が出たからこそ、学んでいるのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/22/201652
勿論、資料館の方の説明は「裕福な土豪の交易品」と推定するので、ぶつけてみた。
修験者の六器では?と。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
同じ平安(擦文)期、野辺地や千歳では錫杖が検出し、修験者が来道してもおかしくはなく、且つその次第の銅器の価格が高位貴族しか持てる様なものではない事からだ。
さすがに、その点についての話は知らなかった様で、明確に回答は戴けなかった。


以下の通り。
A、
江戸初期の火山灰降灰以降の土壌は撹乱,破壊されていると見なされているので重機で取り去る。
B、
A、より、江戸中〜後期にも遺構,遺物に空白は存在する。
故に絵図らで補完しているに過ぎず、現物は存在しない。ハッキリ言って解らないが現状。
C、
アイノ文化を象徴する物としての現物は諸説あり。理由は本州を中心とした移入品ばかりだから。
勿論、ムックリら楽器は、樺太の物。
そして、B、の空白が存在するために、何時から使われてるらは不明。
D、
銅椀の検出理由は交易品と推定しているが、明確には解らない。

まぁ30分位時間を戴き、質問をさせていただいた結果はこんな感じ。
結構解らない事だらけなのだ。
それは当然。
「空白」があるから。
真摯な対応戴き、恵庭市郷土資料館のご担当者には、この場を借りて改めて深謝したい。
ありがとうございました。

ちゃんと質問すれば、ちゃんと回答は戴ける。
割と我々が学んだ事や謎としている事とズレはない。
当然の事。
教育委員会発行の文献をメインに学んでるから。
その上で矛盾を質問すれば「謎」と回答されるのは当たり前なのだ。

以上、報告第一弾。