弾丸ツアー報告-3、本命余市編…茂入山に石垣はあったか?、いや、そんな生易しい話ではない古の余市の姿

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/103840
さて、弾丸ツアー報告第三弾は、北海道行の目的大本命の余市
勿論、その目的は…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447
これ。
茂入山にある野面積みの石垣を探し出す事。
何せ、筆者が半分冗談で「ここなら城柵作るな」と言ったことから、誰も知らない余市町指定文化財「茂入山城跡」に至ってしまった訳で、言い出しっぺは筆者。
何人かアタックしてはいるが、まだ見てはいない。
事前に周辺を周り、お寺さんに聞き取りをしたところ、子供の頃に見たことがある…なんて話は聞いたので、入魂…

結果から報告すれば…
見る事は出来なかった…である。
先によいち水産博物館に開店ラッシュし展示を見た上で、幾つかの質問とこの石垣の話をしたところ、場所を教えて戴けるとの事なので、行ってみたが…
背丈を超える程のヤブになっており、説明では複数の井戸?(穴があり水が湧いている)があり、ヤブで見落とすと危険なんだそうで。
一応、私有地なので草刈が勝手に出来る訳ではない。
博物館でも学習の為に入るのは許可を受けてるとの事だが、何かあったらそれすら危なくなる。
又、蜂や蛇らが多くそのリスクもある。
よって素直に断念した。
曰く…「今が最悪の時期」
と、言うわけで、場所についての情報を戴く。

元々この茂入山には温泉施設を作り、「茂入山城跡」と博物館を併設する話で進められた様だ。
地図の赤丸の部分が旧温泉施設のあった場所。
温泉施設が営業を止めた後も博物館が残ったという経緯の模様。
石垣は、博物館から見て温泉施設の先に構築されており、ヤブになっていなければ手前側は膝丈位の石垣が直ぐ解るとの話。
概ね青線付近になる。
確かに、事前のお寺さんでの話でも、石垣は高い辺りにあったとの事。
先にアタックされた方と位置を整合してみたが、ほんの手前までは辿り着いていた模様で、やはりヤブに邪魔されて入れなかった様だ。
ヤブが枯れる時期に再アタックという目標に至った。
つまりこの石垣は、南斜面、余市川方面に向けて構築されている事になる。
博物館では、寛文九年蝦夷乱に纏わる構築を示唆している様だが、やはり学術調査は入っておらず、頂上付近は近世ニシン干場や畑として使われていたとの事で、撹乱されてる恐れが強いのも確か。
学術調査は未実施で、真の構築時期らは全く不明。
と、言うわけで茂入山突撃は断念…
で、終わるハズもない。

実は、事前の話で、余市には茂入山以外にも石垣と思われるものがある話を仕入れていたので、そちらを確認した。
余市の石垣,は「茂入山だけではない」のだ。
・茂入山城跡
・旧ヤマウス稲荷社石垣階段跡
これが町指定文化財
その他に、
・シリパケルン
・大崎山遺跡
現状解っているだけでこの4箇所。
この中で、旧ヤマウス稲荷社石垣階段跡は、以前メンバーが行った事があるが、足を踏み入れる事が出来た。



階段の手前側は整形された石の石積だが、ヤブの中の奥側の石垣は野面積みに近い事が解る。
シリパケルンは確認出来ていないが、尻場山の中であろう。
その流れであろうか?
一応、博物館の説明では旧ヤマウス稲荷社建立時(1827年)に作られたと想定しているが…

さて、大崎山遺跡。
博物館から戴いた資料によると、
余市町沢町のヌッチ川に面する台地斜面にあるとの事。
ここは都合2回調査しているが、石積遺構と(土坑伴う)石塁遺構が複数検出され、石積遺構一基と石塁遺構二基が発掘されている(1665~1666年)。
石積遺構…

石塁遺構…

遺構配置…

この様な感じ。
高さ1~3m、長さ100m程度の物が複数となるので、かなりの規模である。
これら見ると、津軽一統志に記載ある「古城」とは何を指すのか?訳が解らない。
発掘時、遺物の検出は全く無く(少数の縄文土器破片と石塁遺構内の土坑に一部焼土跡有り)、その時点での年代特定らには至らず、発掘者側から文化財指定らを提案しているが、やられた形跡は無い。
又、焼土跡のC14年代測定らも検討事項としているが、これも解らないのが実状。
一応博物館には、他にも石垣の様な遺構が無いのか?確認依頼を入れている。
さて、茂入山同等の石垣が確認出来たところで、位置関係を推定してみる。

尻場山、茂入山、消失した天内山、そして大崎山遺跡の位置関係は概ねこの様な形と推定される。
先の茂入山麓のお寺さんでの聞き取り時、「余市の街は現状の港がある付近が古い街」だとの事。
そのお寺さんは大正の建立で、その付近の開発は、港付近より遅れていたらしい。
実は以前余市を確認していたところ、永全寺という曹洞宗のお寺があり、創建不明だが825年の紀年がある薬師如来厨子があるとか。
失念し参拝が抜けてしまったのが悔やまれる。
上下ヨイチ場所がこのエリアにあった事からも、江戸期に開けたのはこの辺であろう。
それを考慮すると…
大川,入船遺跡らは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
中世港湾と思われる遺構や多数の墳墓跡があったことから、街の端であろう事は想像に優しい。
居住区はそれらより内側。
古いであろう寺社との位置関係と石垣を見た場合、主な政治的拠点は、
①大崎山からの丘陵の北側、茂入山と天内山でガードされた地区
②現円山公園から南に伸びる丘陵上
この辺ではなかろうか?
また、石垣の構築は、
阿倍比羅夫が指示した「政所」に伴う…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331
何せ、秋田の「払田柵」は頁岩の石垣を持つ。
だが、この時代のものとして一部でも埋もれず検出出来るものか?
余市では、Ta-bら火山灰の影響は殆ど無い様だが。
②中世の蝦夷管領の支配に伴う…
安東氏配下によるもの。
但し、十三湊や檜山ら秋田の城館に石垣を持つ物はない。
③金堀及びキリシタンらによる…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
福山城石垣を構築したのは、千軒岳の金堀やそれに含まれるキリシタン達。
茂入山城跡での博物館推定はこの辺の時代を見込んでおり、寛文九年蝦夷乱に対峙する為に松前藩が構築したか、余市惣乙名「八郎右衛門」の古城らと同年代と推定する様だ。
但しその場合、(土坑を伴う)石塁遺構の役目が全く解らなくなる。
今のところ、何を想定しても少々微妙である。
この様に石垣探しが、あまり知られていない古の余市の様子を浮かび上がらせる事になってきたのも因縁めいている。
これらは現在発行される「余市町史」にはほぼ記載が無い。


余市での博物館への確認依頼はもう一点。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651
大川遺跡では、中世一時のみ製作された材質の硯が出土している。
これの出土位置、つまり中世に使用された物と特定可能か?と、擦文(平安)期の墨書土器が余市で書かれた場合は硯が必要となる。これに合致する(須恵器や土師器の転用硯を含む)硯の出土が無かったか?
この二点も確認戴く事をお願いした。
有らば、識字率は兎も角として、乙名の様な施政者は文字が使えた可能性が出てくる。
これについては、驚く事ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
断片なら幾つか捉えており、文字が使える者が居ても、全く矛盾はしない。
むしろ、「アイノ文化に文字は無かった」という巷で言われる汚名を晴らす事が可能になる。
何の問題もない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
吉田菊太郎翁の墓前に報告したいものだ。
ちゃんと乙名らは文字を駆使出来ていた、劣ってなんかいなかったと。


さて、連々綴って来たが、弾丸ツアー報告はここまで。
もっと細かい話もあるが、まずは筆者自身でもその地に立つ事が出来た。
地形や風の匂いを感じ、先祖達がどう考え行動したか?を考えるには良い機会だったと思う。
石垣探しは、かなり深みに嵌まって来た感も拭えないが、継続こそ力であろう。

またいつか、北海道の地を踏む事を祈念しつつ、この項は筆を置こうではないか。
関わった方々や雑談に応じて下さった方々、そして突然なのに協力して下さった方々へ深謝。

ありがとうございました。
勉強になりました。