もう一つの余市町の石垣…「大崎山遺跡」とは何か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/203950
折角資料を入手したのだから、前項で登場したもう一つの石垣、「大崎山遺跡」について書いておこう。

まずは…
前項で紹介した石積,石塁を伴う遺構は、我々が知る限り4箇所。
・茂入山城跡…昭和35.3.22
・シリパケールン群(註:登録名ママ)…昭和35.3.22
・旧ヤマウス稲荷社階段跡…昭和51.5.24
この3箇所は、町の文化財指定されている。
だが「大崎山遺跡」は文化財指定はされていない様だ。


では、経緯から。
昭和31年、役場職員が発見。
同37年に、郷土研究会が先住民遺構と確認。
同38~39年に、道専門家による予備調査で石塁(石垣),石積遺構である事を確認。
調査団結成。
同40年に一次調査、同41年に二次調査が行われた。
遺跡の場所は余市町沢町の標高124mの丘陵の20~30度の緩傾斜面で下にはヌッチ川が流れる。
目視で行われた予備調査では、
・石塁(石垣)遺構が数条
・石積遺構が約100基
が点在するエリアが約1kmの長さで広がっている。
ディスカッションでは、
・人工構築物で間違い無い
・道内では、近隣の尻場山「シリパケルン」以外には類例無し。
・先住民のものと考えられるが、アイノのものではない(石垣構築類例無し)。
・フゴッペ洞窟や手宮洞窟らに似た洞窟線刻が大陸にある事から拡大し類例を探すと、モンゴルら大陸系の墳墓に似た物はあるが、ハッキリ言い切れない。
・一部明治以降積上げられたと思われる部分や石取り場として利用されたと見える部分もある。
らの意見が出されている。
その後の発掘は2度に分けられ、
・一次調査…
全体把握と1基の完全解体、及び周囲の発掘を目標に進められたが、日数と費用の都合で、1基の部分解体と周囲の発掘で終了。
・二次調査…
区切ったエリアでの遺構把握、一次で部分解体した遺構の継続完全解体と、もう1基の完全解体で内部構造を明らかにする。
これらを目標に作業は進められた。


①エリアの遺構配置や基本構造
約25度の傾斜地に、
・石塁(石垣)遺構は13条
長さ…約100m前後、最長170m
幅…約1.5m
高さ…約1~3m
・石積遺構は23基

長さ…約5~12m
幅…約3~5m
高さ…約1.5~3m
で、馬蹄形、長方形、楕円形らに、斜面に階段(1~5段)状に構築されている。
石塁遺構は、恰も石積遺構の外郭を成す様かの様に配置される。

基本構造は、
・岩質は近辺で採れる安山岩
・使用される石は
大…50cm程度
中…20cm程度
小…7cm程度
で、外側を大の石で囲い、中を中小の石で詰める形。
石積遺構の場合、それを下段から順に積み上げている模様。

②発掘調査…
遺構周囲の層序は
1層…黒色土、15cm
2層…黄色粘度層(地山)

一次調査で部分解体し二次調査で完全解体した遺構のsizeは、
長さ…約11m
幅…約4.5m
高さ…約2m
二次調査で追加完全解体した遺構のsizeは、
長さ…約9m
幅…約3.7m
高さ…約1.2m
それぞれ、最底部の中央付近にはピットか掘ってある。

遺物は石積遺構周辺の2層上面から、僅かに縄文土器,石器が出土するも、遺構との関連性は判然としない。
ピット内は有機質の黒色土層で、追加完全解体のものでは木炭末が検出された。
それ以外の遺物は無い。
概略は以上である。


さて、余市水産博物館で戴いた資料は三部だが、それぞれ10ページ程度の簡素なもの。
理由は殆ど遺物が無いから。
つまり、
・何時構築された?
・誰が構築した?
・何の目的で構築した?
これらに対するヒントになるような物が一切無いのだ。
一応、課題として、
・燐の含有量測定(燐が多ければ「墳墓」の可能性がある)
・C14炭素年代測定
この二点の実施と、発掘調査に参加した高倉新一郎博士、東大考古学研究室の斉藤忠博士から、文化財指定の申請をしたらどうか?との提案がなされ申請を決定している。

だが、課題の各測定の結果は入手出来ておらず、文化財指定申請も上記の通りやられた形跡は無い。
似たものの話として、上記ディスカッションで出た様に、開墾時に邪魔な石を積んだ等と言う話をネット上で見た事があるが、実はこんな規模で構築されていた物。
これを野面積みで開墾の片手間で構築可能なのか?
何せ、この周囲には果樹園になっている場所もあり、発掘時に邪魔だが伐採出来ず、そのままやった経緯も書いている。
つまり、果樹農家が農園拡大の上で邪魔でも破壊する手間すら惜しんだという事なのでは?。
そうなれば、これら遺構は開墾以前からここにあり、放置してきた事になる。
全く何をとっても、辻褄が合わないのだ。


前項の通り、博物館にはこの他にも石垣が無いのか?確認のお願いはしたのだが。
筆者はまだある、それも余市川の北側の幾つかある丘陵ではないかと妄想している。
理由は簡単。
フゴッペ洞窟周辺の丘陵は砂岩質の様で。
そして、それより忍路側の

西崎山ストーンサークルは尻場山から安山岩を運んで構築されているとか。
石塁や石積を組むなら、地で手に入れるのではないか?

邪推はここまで。
何を考えるにもヒントが少な過ぎる。
さぁ、大崎山の遺構は、何時、誰が、何の為に構築したのか?
余市には、まだまだ謎がある。
ホットスポットなのは間違いがない。



参考文献:

余市町大崎山遺跡第一次調査概要」 大崎山遺跡調査団 昭和40.9

余市町大崎山遺跡について」 高倉新一郎/大場利夫 『北方文化研究報告 第二十輯別冊』 昭和40.12

「昭和42年度余市町大崎山遺跡発掘調査報告書」 余市町教育委員会 昭和43