建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440
前項をこれとする。
広義の関連項はこれら。
「チセ」であるが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
むしろ関係するのは「写真」。

経緯を書こう。
筆者の北海道でのフィールドワークとは別に、当然ながら他のメンバーはそれぞれ資料館へ行ってみたり、論文らを探したりしている。
そんな中のディスカッションである。
あるメンバーが資料館見学時、写真を見つけた。
勿論、そこに住んでいた酋長のもの。
で、目の前の漆器とを見ながら質問したとの事。
当然、毎度の事だが、古いものはない。
どうやって入手したか?
→熊の毛皮と交換…いや実は、近代以降買ったものだという。
まぁ今迄も漆器については、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/123150
比較的古いであろう幕末なら、こんな入手手段を。また、新しいものは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/070913
漆器屋への直接インタビューでの、明治,大正にダブついたものを売り捌いた話もある。
ハッキリ言って「買った」としても然もあらん…裏が取れた程度の事で驚きはしない。
珍重した…などと言っても、壊れりゃ捨てる、これは余市の大川遺跡に捨てられたと思われる破片が検出されるから、そんなもんだで終了。
問題は、それを買った時期と誰が買ったのか?。
資料館での質問では「……」で終了だった様だ。

ここで問題になったのが写真。
歴代酋長の写真はあるが、なら、北海道で写真が撮られる様になったのは何時なのか?
日本最古の銀板写真は、ペリー来航時の松前勘解由らを写したもの。
筆者の知る限りでは、開拓使が記録用として撮影されたものが北大に保管されており、これが明治20年代位以降からと記憶している。その中の一枚が、関連項の茅葺き民家。
何せ写真自体が異常に貴重な時代。
マチュア向け国産カメラは1903(明治36)年に小西本店が最初…とばかりに、事実関係を検索する。

最も古い時代の酋長は明治九年没。
ならこれは、一時遺影らで使われたような「絵」ではないか?
こんな感じ。

そんな中、メンバーが何気に検索してきた建築物の論文があった。
それは、建築物としてのチセの外観的傾向や変遷を残された写真から紐解こうと言うもの。
これらの研究は研究者が少なく、その論文によると、2008年の小林考ニ氏が発掘調査報告〜18世紀以後の絵図から読み解いたものを皮切りとして、少しずつアプローチを広げ、1960年代のチセ消滅まで繋ごうと言う流れである。
この論文では、写真が残る1860〜1950年代へアプローチしている。
内容も、寄棟屋根,切妻屋根,変形屋根の3種類に住居を類型化しつつ、主屋と付属屋の関係分類を行い、年代的な特徴を明らかにしようと言うもの。
関連項にある様に、1959(昭和34)年に萱野茂氏が再現チセ第一号を建築したが、その前を繋げる事になる。
ハッキリ言って、割と再現チセはあちこちの資料館展示では同じ様な形ばかりだが、実際に写真から分類すれば、10種類に分類可能なのだそうだ。
年代での傾向なので、地域柄までは加味されては居ない様だ。
それは、写真点数が限定される事もあるかも知れない。
と、言う訳で「空間のシャッフル」はされてしまっているのかも知れない。
現実、アイノの民族問題は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
近文古潭らの旧土人保護法らへの対応で、1900(明治30)年代から醸成されて行く。
本来それまでは移動痕跡あれど、それぞれバラバラで地域柄は考慮すべきと我々的には考えている。
資料が薄いとは言え…良いのだろうか?
と、別に論文に反論している訳ではない。
時間軸をシャッフルせず、まずはここをキッカケに整理すべき内容であろうからだ。
そう考えると、研究者への敬意しかない…
但し、一点、これはどうか?と考える点を除いてだ。


では、ここから先はズバリ書こうと思う。
その論文には当然参照した写真と何時何処で撮影されたか?が記載される。
下記の右上の写真を見て欲しい。

資料の表の中には1940(昭和15)年に白老で撮影されたもの。
これを近文に当てはめれば、旧土人保護法による管理委員会が出来たのが1933(昭和8)年。
早い話、チセが激減するのは、彼らが新生活を始めるに当たり、政府や道、旭川市らと約束し準備された「家」に入る事からだろう。
全く当然の話なのだ。
そして、問題は写真にある立て札である。
「熊狩ノ名人」
「熊狩お話致します」
「古い寶物澤山有ります」…
つまり、この家は、白老の「観光アイノ」であろうと言う事になる。

さて、観光アイノと言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
吉田菊太郎翁や荒井源次郎氏が忌み嫌い、白老に至っては、名指しで「本州の者と一部が結託し辱める」とまで言われ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
ムックリ等楽器を見ても、樺太の文化を本道ものと見える様に説明し、熊の置物は八雲町の徳川氏が展開し、ウポポ人形は本来ご法度、トーテムポールの文化無し…と言う物。
つまり「時空のシャッフル」が確実にされていた場所の写真をデータ中に「取り込んでしまっている」事になる。

論文査読らで指摘は無かったのか?
査読無しなら、担当教授らの指導は無かったのか?
文化として全体からの検証はしてたのか?
これ…良いのだろうか?
まぁ現実的には、この論文が検索でヒットし、ダウンロード出来るのは確かである。
指導も指摘も無かったと考えねばなるまい。
政府広報らでも、これらは平気で行われてるので、学会ごとこんな風に「観光アイノを真実として扱う」風潮なのだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
再三書いているが、アイノ文化の研究は海外が先行、同時期に「観光アイノ」が登場し、金田一博士ら我が国の学術研究は後追いになっている。
故に一部シャッフルされているのを紐解かなければならない宿命を持つ。
が、現実的にはこんな風にシャッフルされたままで、協会初期を率いたリーダー達が忌み嫌った「観光アイノを含めた」研究が未だされているのだろう。

恐らく「時空のシャッフル」は数多の論文の中にまだあるであろう。
そして、写真らシャッフルした物証も本件以外にも残されているだろう。

巷では、
「系統立てた学問」
史料批判の重要性」
専門家や研究者がよく使っているが…これ、なぁに?

素人的には不思議でならない。
内容は素晴らしいのだが…残念で無念である。




※追記
参考文献:
1860年代から1950年代の写真資料におけるアイヌ民族の住居の外観的特徴」 佐久間/羽深 『札幌市立大学研究論文集5巻1号』 2011.3.31