丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440
たまたま、SNS上で話が出たので、少し纏めておこうと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154
1項目のブログ。
筆者が歴史の再勉強を始めたのは、3年前の8月になる。
その年の9月〜10月位から「事実を集めてグループで話合ってみよう」とメンバーが集まり始め、翌年5月に筆者がブログを始めた。
実は、纏めるもなにも、グループの中では概ねその年の年末位には、現ブログに記載している事柄には到達していた。
新文献(論文と言うより原書の類)を読んでも、資料館らで学んでも「やっぱり…」「そりゃそうだよな」「ほら、また物証」、こんな話が約二年半ずーっと続いている。
一貫しているのは、
・北海道と東北は古代から繋がっており、それが途切れた事はない
蝦夷イコールアイノではない、蝦夷にアイノは含まれる
この二点。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
先日追記したこの白人村の移動痕跡も、さもあらん、やはりね…だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
以前にも川村カ子ト氏がそのルーツを調べるきっかけはウタサ紋の共通性から。
どうやら4代位前に北見方面から旭川へ移住したらしい事は知られた話で、割と同じ時代にオホーツク方面から分岐しそれぞれの土地へ住み着いた形跡はある様で。
この話から先のSNSの話になった訳だ。

結論から書くと、
・近世アイノと呼ばれた人々の多くは、樽前山火山灰b(Ta-b)降灰の後〜樽前山火山灰a(Ta-a)降灰前後位に北方から入り込んだ人々だろうと現状考えている。
これは今辿り着いた訳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110
元々北海道は、他の文化圏と接する位置にある。
新北海道史を読み始めた時点で、事実関係だけ抽出すれば、こんな風に見えるとグループ立ち上げ後数ヶ月で辿り着いていた。
又、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
火山灰降灰から古書登場するまで百年位は空白がある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
この空白時のロシアの動きは並べ直しつつある。
現在ウクライナで聞こえてくる悪逆非道もさすがに古書にも記録があり、断片は見える。
難民的に逃亡してきてもおかしくはない。
つまり、北方から人が入り込む理由としては、
①ロシアの侵略
②同時に起こった場所請負制や北前船の就航により、我が国中を巡る経済圏拡大と労働力確保により受入れる土台があった
③火山灰降灰で前住民が避難した後に入り込む地理的要素が出来た
④租税の差が歴然
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
方や我が国では現地の人々から税徴収せず、場所請負人が租税した。
対してロシアは、ロシア正教教化や学校設置らに合わせ千島の人々から毛皮等を徴収している。
因みに本州は年貢ら庄屋らを中心に直接徴収。
狩猟らで稼いだ分は全て実入りになるのと、租税する場合との比較を考えてみると良い。
これらで十分だろう。

また、道内移動だけでなく北方から入ったとする根拠は、
①移動した後も北方の文化をまだ残していた事
②言語が同化していなかった事
になる。
度々口にしているが、現在のアイノ系の研究で北方との文化の共通性をバンバン掘り下げているが、それがそのまま関連性を示す材料となる。
考えてみて欲しい。
延喜式らに記載ある「宇賀の昆布」やアザラシ等の革、これが途切れた事があるのか?
在らば記録があるだろう。
それが何十年単位、百年単位で切れた事があるのか?
量の変動はあるにせよ、恐らく古書を拾っても途切れてはいないだろう。
最大の需要家たる畿内と北海道は、主に十三湊や秋田湊等東北や北陸を介して物流ルートが繋がっていた証左。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
樺太,千島で和物の着物を好む姿、それが商場知行制→場所請負制とより密着した関係が強まる中、同化が進まない方がおかしいのでは?
現に明治では、教育のスタートも影響するが、子供同士での会話から1~2代で普通に会話するに至っている。
場所請負制の段階で本州からの移住者は一気に増える。
何せ本州は大飢饉連発。
給与で肥料の「ニシン滓」を手に入れねば翌年の作柄低下は必至。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
行ったり来たりはお手の物。
これらから考えれば、徐々に且つ継続的に人が入って来たとも言えるだろう。

さて、これらを状況証拠からの推察に過ぎない…こう考える方は居るであろう。
が、この移住者による文化の変化はちゃんと学術的モデルがある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
文化人類学の「埴原モデル」は本州人をどう表現していたかはこちら。
なら我々もそれに則ろうではないか。

埴原モデルに追記してみた。
この図は東北の史書や現在の旭川市史らに掲載され、ある程度立証されたとまで書かれる。
青線…本州からの移住者
これは
・擦文文化を作るエミシの移住
奥州藤原氏の脱出者
鎌倉幕府流刑地として流された者
・安東vs南部の抗争で十三湊からの脱出者
etc…
紫線…北方からの移住者
オホーツク文化
etc…
まぁこれらは断片で、行き来があるのだから、に入っているだろう。
ここで一番下の紫線がロシア侵略で移住した人々と考えて戴きたい。
図の「1」にあたるのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一説にある「古蝦夷語」を使い本州人と会話可能且つ本州に近い文化を持ち、ゴールドラッシュ時に金掘り&キリシタンと共に暮らしたであろう集団。
概ねの北海道の方々のベースになっているのはこんな方々ではないかと考える。
早い話が、擦文文化人の末裔。

赤線で分岐させ、紫線(北方からの移住集団)が混ざり、「2」に当たるのがアイノ文化集団。
この内分岐の主な部分が、乙名ら支配層。
これらが移住者を労働者層として使役し、場所支配人らと協力し生産力を生み出したと考える。
故に宗教具らは支配層の影響を残し、移住集団が増えるにつれ文化色や言語色が強まった…これで説明はつくだろう。
何も難しい事はない。
埴原モデルの類するものが江戸期に発生した、これで説明出来る。
一般研究で支持されたモデルだ。
それに基き、説明したまでの事。
近世の矛盾点はこれである程度説明可能ではないだろうか?
ここで図の「1」はその後どうなるか?
多くの北海道民の祖と言う事は、後(江戸期)の移住者らと混雑し「2」の集団より先に同化してしまう事になる。
普通に暮らしているから、特段なんの痕跡も残さず普通に働き、子を育て暮らしてたのでは?
「2」の集団の中から「本道アイノ」と呼ばれ、絵図らに記載される集団が出来る訳だ。

ここで移住者と言うと、一部の方々は直ぐに「侵略者だー」などと騒ぎ出す。
まぁ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
秋田県史にあるように、ロシア黒船から密入国した者を黒船へ強制送還した記録はある。
海防ラインが広大なので、これらを100%防ぐのはムリだったであろう。
現代であっても、北朝鮮の漁船が漂着し家のドアを叩いた事例はある位。
だが、待って戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
加賀家文書らにあるようにこの時代に「2」の集団は、宗門改の都合や生産力管理の為に運上屋や会所で戸籍管理されている。
居住者、旅土人ら含めてだ。
これが後、明治での戸籍のベースであろうし、旧土人保護法対象者の原本ではないのか?
つまり、運上屋,会所が身分保証し、それを函館奉行所,警備諸藩が承認して逆に運上屋,会所に貸し出す形で、時の統治者が認めていたと言う事になる。
もう、この段階で「日本人」なのだ。
別に戸籍制度は明治政府が100%始めた訳ではない。
壬申戸籍が最初と言うなら、本州人も同じ事。
移住しようが、場所で戸籍に乗ればそういう事になるだろう。

さて、もう一点。
・上記の「2」の集団だが、特異性ばかり強調されるが、我々的には現状語られる文化より、もっと同化されていたであろうと思う。
理由は簡単。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031
時空のシャッフル。
さらに言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
観光アイノとして、学術的調査以前から樺太の文化らが取り入れられていたのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
これらで明らかで、研究者は樺太のものだと知っている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031
ましてや建築系の研究でも観光用の建物がそのデータに混ざる。
さて、観光アイノが始まったのは明治の初めで、白老や旭川からとされる。
現実として、従来ポツリポツリ住んでいた人々を集めて集団居住させたのが、各地に残る「コタン」。
この段階で、新規に作られたり、同化政策が当てはめられた。
古い時代そのもののものは、既にこの段階で殆ど無いだろう。
ここで、学問創成期の一人、金田一京助博士が北海道の言語収集を始めたのが何時なのか?
明治39年が初訪道。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
既に学校建設が進み、旧土人保護法改定と同じ年。
英国領事による盗掘事件は幕末。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417
海外で騒ぎ出すのはこの頃で、アイノ文化研究は海外先行。
次もにバチェラーの辞典は世に出、日本人による学術的調査は数十年遅れをとる。
観光アイノが先なのだ。
近代化過程の話なので致し方ない。
故に、金田一博士も河野廣道博士らも、地域差ら含めて調査しようとしていた。
現状は?
先の通り、時空のシャッフルが進む。
二つ目の指摘は、「学術的研究と観光用に作られた物を混ぜるな」…である。
政府広報らで広げられていて且つ教育の場に持ち込まれているのは、主にこの「観光アイノ」の色が強いもの。
ムックリがごちゃまぜになっている段階でさもあらん。


近世以後の現状の学びを簡単に纏めると、こんな感じに見える。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
吉田菊太郎翁や荒井源次郎氏等協会第一世代が忌み嫌う事をまともにやっている。
それも拠点が荒井源次郎氏が名指しした「白老」と言うのが、我々的には大いに笑えるところ。
大体、「白老」に陣屋を置いたのは何藩だ?
更に笑える。
ただ、上記の如く、これらは基本的に文化財保護や教育行政も含む「地方行政上の問題」。
我々メンバーの中でも口を出せるのは、道民のみ。
当然の事。
基本的に各教育委員会はそれぞれ独立している。
国会や文科省からも強制出来る話ではないし、道から市町村からも独立している。
議会が予算の承認権は持つだろうが。
まぁ、北海道の皆さんがこのままで良いのなら、それで終わり。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/04/174109
なので、こんな提言をしていたが。

我々の見え方を信じる必要はない。
それぞれがどう歴史と向き合い、先祖の営みを見るか?…それは個人の自由だ。
ぶっちゃけた話、所謂活動家や地方役人、教育行政に携わる人々は上記程度は知っている。
そりゃそうだ。
仮にも学問として習得しているのだから。
矛盾点位熟知した上で「意図して」ストーリーを組み立てているだろう。
知らぬハズなし。
活動家紛いに「道民は勉強していない」と嘲笑されていたとしても、我々には関係ないし、地方行政上の問題。

それらは、我々が関知する事では無い。