https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/02/131535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833
さて、2ヶ月位文献を開き読む手が止まっていたが、そんなぬぼーっとしていられる訳もなく。
少しずつ錆びついた頭を動かそうではないか。
実は、手に入れたかった文献がたまたま古書で出ていた。
思わず発注。
「北方探検史 チースリク編」。
実はこれ、あちこちの史書に引用されているもの。
背景を…
北海道へ度道し、直接カトリックの福音をもたらしたのはイエズス会士のアンジェリス&カルバリオ神父の二人。
それぞれ二度、渡道しているのは既出。
元々はその3通の報告書を、主にイタリア訳本から北大の児玉作左衛門、高倉新一郎、工藤長平の諸氏が翻訳し「北方文化研究報告」で発表していた。
これらは学術研究書なので、一般の目には触れる事はなかった。
ここで協力していたチースリク氏がローマのイエズス会本部にそれぞれの原版が保管されている事を発見し、同氏の手によりポルトガル語原版から全文翻訳したものを発行したと言う訳だ。
チースリク氏は司教でもあるので、カトリック的表現の翻訳もお手の物。
手元に届いた本は、何故かチースリク氏がどなたかに献本したものの様で、本人直筆サインが入っていた。
これも何かの縁だと思い、気合を入れ直そうではないか。
まさか、全文を引用するのも手間なので、敢えてそれぞれの書簡から、
①地理的要因
②人々に対しての記述
この2点に特化したい。
では本項では、アンジェリス神父の一通目書簡(1618.10.1付け)より。
予め。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/24/195310
この時の逸話がこれである。
秋田から出港し、津軽の深浦町で風待の長い足止めを食らった時の話と、松前の殿の暴言。
①地理的要因
「蝦夷の国は我が〔ヨーロッパの〕古い地図に描かれているような島ではなくて、大陸であります。
西部は韃靼及び中国と、東部はノーヴァ・エスパーニャと連続していて、東方へ伸びる蝦夷の先端とノーヴァ・エスパーニャの先端との間に、われわれがアニアン海峡と呼ぶ分界があるだけでございます。
〔蝦夷は〕非常に大きな国です。彼等の多くに、蝦夷にある国々に就いてそのしっているだけのこと、〔それぞれの国への〕路程距離のことを訊ねましたところが、彼等は松前からアニアン海峡に達する東部までにある国々の名を挙げました。それで小生には概計して八十日行程だと教えました。
松前から西部へは、蝦夷人のの船の松前へ来る或る処即ち天塩までを、彼等は七十日の行程であろうと教えました。というのは、それより前は、北部地方から続いているとはわかっていても、その国々の名を知らなかったからでございます。そしてその北部がどれ程長いかも知ってはいません。何故なら小生の質問した者は東と西に住む人々だけであったからでございます。」
「毎年東部にあるミナシの国から松前百艘の船が、乾燥した鮭とエスパーニャのアレンカにあたる鰊という魚を積んで来ます。多量の貂の皮を持って来ますが、彼等はそれを猟虎皮といい、我が〔ヨーロッパ〕の貂に似ています。頗る高価に売ります。
蝦夷ではなくて、猟虎と称する一島におるので、蝦夷人はそこへ買いに行きます。その猟虎島は他の六つの島々の近くにあります。されば小生は、それに就いて、蝦夷の先端の正面にあるノーヴァ・エスパーニャの一部分キヴィラ国の正面南部に向いおうている島々だと判断できました。その島々の住民は余り色白くはなく、髭がなく、未開であります。その二人が昨年松前に渡来しましたが、彼等の言語を解する蝦夷人はいませんでした。」
「松前は津軽の終端から五レグワ離れているだけで、その間の海流は凄まじく流れています。若しどの船かが航路を外れて流されるとすれば、アニアン海峡までは止まることがないでしょう。」
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 より引用…
さて、少し要約。
A,この段階でアンジェリス神父は「蝦夷の国」は大陸の一部と考えている。
B,その範囲は、
・東…
当時ユーラシアと北米大陸の間にあるとされた架空の「アニアン海峡」まで。
・西…
韃靼、つまり満州方面に隣接。
・南…
蝦夷人の国から突き出た岬(半島)である松前(渡島半島と見るべきか)一帯。
・北…
樺太やシベリアは含むであろうが、詳細無し。
一応松前も含めて、ザーっと現在のグーグルアースで示してみると…
こんな感じであろうか?
勿論、アンジェリスの時代にはまだロシア東進はアジアまで進んではいないので、ベーリング海峡らは発見されていない。
約150年後の赤蝦夷風説考でも
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
オランダ版万国地理誌(ゼオガラヒー)から引用しているので、「カムチヤスカ」とはしているが、示した地図上ではカムチヤスカの下には()付きで「赤蝦夷」としており、カムチャッカ東端までを見込んでいる様だ。
ヲロシアの一部且つ日本人居住区があったと記される『タツ〔ヤク〕コイ』から想像される「ヤクート(現サハ共和国)」周辺まで含むのだろうから、北海道は南端の一部でしかない。
確定ではない。
記述から想像させる程度で、アンジェリス神父は見込んでいたのではないか?。
勿論、アンジェリス神父の時代→赤蝦夷風説考の時代でロシアに侵略され、千島途中迄進んだ事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
詳細はこちらへ。
アラスカは概ね1800年頃併合された様だが、カムチャッカ〜アラスカ侵略に際し、露米商会が主導的に動いた様だが、慢性的寒さ対応と食料不足に悩まされていた様だ。
後の我が国との通商要求はこの食料調達が主な理由と言う。
クリミア戦争戦費調達で、アメリカに売却される迄はアラスカはロシア領。
C,松前迄の所定の航行期間は、東(カムチャッカ辺り?)から80日、西(天塩,宗谷辺り?)から70日。
これだけの日数、それも片道となると、年の半分近くは漁も含めると「海の上」とも言えるのか。
それも越冬用の食料調達が最大の目的だろう。
どうだろう?
政府広報らで拡散されるイメージと重なるか?
東で言えば、厚岸場所開設が1624年。
それまではこうやって松前へ、その前の時代は十三湊や秋田湊を最大の取引先として行き来していた事を考えると、ほぼ「海の民」「通商の民」となる。
随分イメージとかけ離れると思うが。
ついでに、アンジェリス神父が確認した限りでは、潮は日本海→太平洋の方向にかなりの急流で流れていた。
概ね、我々が考える「本州から向かえば東へ流れる」を裏付けている。
では次…
②人々の様相…
「小生はあの船(筆者註:訪道時の船)が帰航する時まで十日間松前にいまして、その信者達の告解を受けました。それは十五人を超えませんでした。また新たにも信者ができました。それから出羽国へ戻りました。小生が蝦夷にいた間に、寡なからぬ蝦夷人と話しましたが、そのうちには通訳を介した者もあり、また日本語を知っているので通訳が要らない者もありました。
彼等が救霊に就いては何も知らないことがわかりました。太陽と月とを崇拝しますが、救霊の故ではなくて、人生に有益なものだからでございます。キリスト教徒のなすと同じようにして埋葬し、資力ある者は函を調製して死骸をそれに入れ、直ちに地中に埋めます。貧しい者は死骸を袋に入れて、同様にして埋めます。日本の神や仏を嫌います。
また彼等は大胆、強勇の人にして争うことが好きです。然し、間もなく仲なおりをし、復た争いはしません。彼等がその敵に遭うと先ず相互にコトワリをいいあいます。果てもなく酒盛をして飲酒するが、決して酩酊しないのには小生は驚き入りました。
弓、毒を塗った矢、短い彎刀、金具を付けた木の槌を用い、この木槌でお互いを殴りあい、その打傷で血まみれになります。小生があるとき喧嘩の場にいあわせたことがあります。喧嘩のあとでも彼等の傷を治療する医者が要りません。というのは負傷は総て塩と海水とで癒すからでございます。
彼等は体軀の小さな人で、強健にして、毛深く、胴に達する髭があり、頭の半ばを剃り、その残部は日本のヴォップロ〔髪〕の如くにしています。男女共に耳環を付け、乗馬に巧みで、単純だがぬかりがありません。」
「蝦夷人の服装は回教人のカバヤのようですが、我々の長白衣(注、カトリック祭服の一種)に施される如く、アチコチに多くの種々の色の布で飾られています。彼等はズボンをもシャツをも用いません。あぐらをかいて、日本人のように箸で喰べます。家には、高麗人のように非常に広くて長く且つ手芸を加えた筵を敷いています。」
「メナシからは小生が前述した百艘以外にも船がまいります。東部地方の船も亦、松前へ猟虎皮を載せて来ないだけで、同じ商品を持って来ます。蝦夷国の西の方に向う一部である天塩国からも松前へ蝦夷人の船がまいりますが、それらの船は種々の物と共に中国品のようなドンキの幾反をも将来します。それらの蝦夷は高麗から余り遠くないようでございます。但し、実際に蝦夷人達は、中国をも高麗をもその何物であるかを知らないといいました。
日本からも亦毎年総て三百艘程が松前に渡ります。小生の乗ったのは二十二反帆の船でありました。どの船も皆米と酒とを積んで行きます。さすれば、松前へ渡りたいと思えばいつでも行けるわけで、この蝦夷の布教を続けるのにまことに好都合なことでございます。
蝦夷人がキリスト教徒になるにひどい障害があろうとは思われません。何故ならその国内に出家がいません。彼等の誰一人も読み書きができませんし、また中国人のような非常な利欲〔の念〕をも有ってません。その証に、蝦夷に多数の金の鉱山があるけれども、彼等がそれを採掘しないで、二年前から松前殿がようやくそれらの鉱山を開き始めたことでございます。小生はその金を視ましたが、甚だ純良であります。日本の金のように、というのはそれは極微粒の砂ですが、砂金てはなくて、最も小さな片でも一分はある金の破片であります。あるときには彼等は百六十匁の重量ある金塊を見付けました。それら金の山からは恰も〔金でてきた〕陸地であるかの如くに〔多く産出致します〕。後になって、日本人が〔金の〕山を採掘しているのを知って、蝦夷人に利欲心が起るかどうか小生にはわかりません。
松前にいる日本人は女童をも勘定して一万人程でありましょう。松前もまた或る人々の考えるような島ではなくて、蝦夷の国から海中に突き出ている岬であります。蝦夷には我が国〔ヨーロッパ〕の馬と頗る近似する馬がおり、熊もいますが、牛や羊はおりません。」
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 より引用…
では要約。
A,言語…
一つ「基準」をつける。
アンジェリス神父は、京で和語を習得している。つまり関西弁である。
・関西弁を理解し、関西弁に近い言葉で話せる者
・関西弁では通じず、通訳を必要とする者
・①の東部ミナシから来た二人に代表される「全く言語の通じない」者
アンジェリス神父が会話した中ではこの三種。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
この約五十年後に書かれた「津軽一統志」での記載の「津軽狄村の通訳と、西は言葉が通じたが東は通じない」…これとよく通ずる。
B,容姿,特徴…
・松前周辺に居た者
小柄で毛深く長い髭、月代の様な髪型で男女共に耳環
剛健にして好戦的
弓,毒矢,短刀,木槌を持つ
酒に強い
パッチワークされた長いガウンの様な服装でシャツとズボンは無し
座る時はあぐら、箸を使い、刺繍入りムシロに座る
医者はおらず、怪我は海水で洗うのみ
・東方の人々
色白ではなく、髭が無い
ぬかりない松前の人々に比べ未開的
C,宗教
太陽と月を信仰
本州の神道,仏教を嫌う
埋葬は、金持ち→棺桶、貧しい→布袋
で土葬。キリシタンに似る
D,交易
・東方ミナシ国…年百艘
乾鮭、ニシン、ラッコ皮
・他の東部…年百艘
乾鮭、ニシン
・天塩国
乾鮭、ニシン、大陸の反物
(中国,高麗へは行かず、途中仕入)
・本州…年三百艘
米、酒
E,鉱山
多数の金鉱山が松前に開かれるが、蝦夷人は(その時点では)掘らず。
純良な砂金を確認、砂金が大きい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
その約二十年後では、道東,千島,樺太では、最低「銀」の採掘と精錬は知っていて行っていると記載あり。
F,松前の人口
総数で概ね一万人と推定。
G,馬の存在
欧州の馬に近いものが既におり、蝦夷人は乗馬が巧み
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428
ユカンボシC15遺跡らの状況や駅逓制度の話を併せて考えると、居てもおかしくはないが、松前に限定せず蝦夷としている事がポイントか。
近世では初見か?。
しかも乗馬が巧みと記述する。
こんなところか。
割と今迄、我々の報告してきた事が重複して一気に記載されている感。
当時のバテレン…いや、西洋人から見た北海道はこんな感じであり、ワールドワイドから俯瞰すれば、人に接触したのは北海道の松前周辺に限られるが、「蝦夷と言われる国」は北海道ピンポイントではなく極東東端全てを指し、文化も言語も血統も全く異なる地域と人々の総称だと解る。
それは1700年代半ばに古書での記載が始まった時点でも「赤蝦夷風説考」らを併せてみても、何ら差はない。
たまたま古書記載能力のある、我が国や明,清、高麗、後のロシアで記述に登場する「だけ」の事で、それらと土豪や民間で盛んに行き来していて記事されていないだけなのだろう。
アンジェリス神父の記述する「国」の概念は、松前や出羽と記載される事から藩や周辺地域を指すものと解る。
フィールドワークされていないだけで広大且つ多様なものの総称として「蝦夷」と言ってるのは理解されていたので「赤蝦夷風説考」らでは、
・口蝦夷
・奥蝦夷
・赤蝦夷 と言う様に、識別を行っていたのだろう。
簡単に「蝦夷→アイノ」と翻訳して良いハズもあるまい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/30/043133
我々は既に二年前から言っている。
蝦夷=アイノ…ではない。
蝦夷にアイノは含まれる…と。
時代変遷で対象が変わり、更に江戸期に於いて世界観がこれだけ広大になっている。
よく巷で「定義」の話になるのだが、では「定義」していただこう。
「アイノとは何を指し示すのか?」
広大且つ漠然としすぎて、出来はしまい。
単に「北方にいた、独特の文化を持つ人々」では多様過ぎるのだ。
中には「アイデンティティがー」「精神的なー」と仰る方も見受けられるが、もっと識別していかねば説明も定義も出来まい。
まぁそんなファンタジーの世界に住む方は、我々は切り捨て相手にしない。
さて…
馬や鉱山の話は今迄も追って来たが、小さいながら明確に記述されている。
これらも考古学視点で探していこうと考える。
交易品も、地域差として明確にされる。
西は大陸の品々、東は毛皮。
入手出来る場所が違うので、それなりに差は出て当然。
言語も最低三種登場する。
で、これはまだ一通目。
三通あるのだ。
江戸初期に、バテレン…いや、西洋人は何を見、何を報告していたのか?
to be continued…
参考文献:
「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30