https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558
さて、3通の書簡を取り上げてみた。
3通目でアンジェリス神父は、蝦夷国は島であると見直しをかけている。
昨今、時空のシャッフルがされていると言い続けているので、あとがきとして並べ直してみよう。
当時の特にバテレンや西洋人達の視点で、「蝦夷」とはどんなものなのか?
①地理的要因…
・蝦夷国の大きさ
西→
その先は竹林や馬を目撃しているが交渉は無く、蝦夷人とは違う人々が住む。
端近くに天塩国があり、そこの住民がChinaの絹反物ら買って松前へ持ってくる。
北→
ほぼ未知の領域。
海峡でアジアの大陸と分離されている。これがオホーツク海と合致するかは記述なく、判然としない。
東→
東端は北米大陸と海峡で向き合い、その周辺にラッコが捕れる3つの島あり(そこの住民は浅黒い膚で髭が無い)。
東の途中にメナシ国があり、ラッコ皮を買付て松前へ運んでくる。
メナシ国の奥には白い膚色で石の家に住む人々が居るが交渉は無い。
南→
南の先端に岬があり、そこに松前がある。激流の海峡があり、それで本州と向き合う。
松前殿が治め、総人口は約一万人。
中央部→
未知の領域。
ここの住民の話は出てこなく、両神父ともに会ってはいない模様。
松前へ商いに来ているのは、特に高付加価値がある天塩国とメナシ国の人々。
幾つかの湊を経て数十日の日程で米や麹、各種古着らを買い付けて帰っていく。松前へ土着した者も居る。
言語は、関西弁で会話可能な者、通訳が必要な者、それらとは全く言葉が通じない者(特にラッコの島周辺の者の来道の話有り)
容姿は前項を参照戴きたい。
髪型,入墨?,耳環,首飾りら、所謂アイノ文化を持つ人々に似ているが全くのコンパチと記述はしていない。
筆者が気付いた点では、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
太刀を持っている記述はなく、短刀か長くても脇差し程度、矛盾はある。
又、天塩国,メナシ国以外の住民については「干鮭,ニシン」を持ってくるらしい事位しか記述なく、全く解らず。
勿論、未知の島とされており、発見されてはいなかったカムチャッカやシベリア東部も含まれると考えていた。
「蝦夷国」はそれら未知の領域を含む島で、そのに住む色々な血統を持つ人々の総称として「蝦夷人(エゾニアン)」としていた模様。
②時間軸的要因…
報告はアンジェリス&カルバリオ神父が渡道した1620年頃の事。
この直ぐ後に家光となる。
勿論、松前藩成立し、二代公広の治世。
禁教令は既に発せられ、当然ながらバテレン追放令は適用されており、これら報告書の直後に両神父とも捕縛され、
アンジェリス神父→火刑
カルバリオ神父→水攻め刑
で殉教する。
大千軒岳大弾圧はこれらの約20年後(1639年)で、まだ松前藩も東北諸藩もキリシタンへは寛容な部分もあった時期。
既にゴールドラッシュは始まり、数多の金堀&キリシタンが北海道や東北の鉱山へ入っている。
因みに天草の乱は1637年。
宗谷の役宅は既に作られ、厚岸場所開設はこの直後。
商場知行もまだ判然としていない。
金山開設も初代慶広が亡くなる直後から開始されていたり、各役職名が古文に出てくる頃で、藩としての体制形成の時期だと言えるかも知れない。
・ロシアは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
まだエニセイスクを侵略し拠点を置いた頃で、まだ東シベリアまで到達してはいない。まだ影響を及ぼす段階に無し。
1616年に外国船は長崎又は平戸に入港する様に限定され、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
オランダとイギリス艦艇が、スペイン船に海賊行為を行い始めた頃。
スペインやポルトガルは危機感持っていたであろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/20/181217
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/20/071910
ドン・ロドリゴやビスカイノが記録を残すのが1610~1611年なので、両神父の渡道と蝦夷人との遭遇はその約10年後になる。
まだ活発に我が国周辺で、外国船が闊歩していた時期。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
フリース船隊の航海は1643年で約20年後。ここで千島や樺太、厚岸らへの上陸がされ道東を含め記録が残る。
・天災らは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
ビスカイノの金銀島探索が丁度慶長大津波の直後で、1611年のその津波の痕跡は道東の発掘調査でも報告されている。
またこの報告らの20年後の駒ケ岳爆発から火山灰層形成される爆発は
1640年→駒ヶ岳(Ko-d)
1663 →有珠山(Us-b)
1667→樽前山(Ta-b)
と、連発して発生する。
「生き延びる事が出来たのか?」と言う我々の疑問である火山灰層だが、両神父が渡道したのは、丁度これらの火山灰層被覆の直前位に相当する。
因みに記録上の主な金山開山は、
大千軒岳→1628年
沙流,シブチャリ→1633年
様似,国縫,夕張→1635年
と、なっている。
勿論、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)は1669年、きっかけとなる鬼菱とシャクシャインの抗争の始まりも1648年頃なのでその2~30年前に相当し影も形もない。
・もう既にロシア東進が進み、赤蝦夷風説考が書かれたのは1781年。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
カムチャッカ半島らを侵略し千島に南下、それらの人々とトラブルを起こしていた頃。
工藤平助は地理全誌(ゼオガラヒー)らも読み込み、概ね
口蝦夷→十勝辺りまで
奥蝦夷→道東〜千島一帯
と分別している様だ。
後に近藤重蔵や最上徳内らが直接入り込むが、元々蝦夷国は北米大陸直前までの広大な土地と認識していたのでこんな分別が必要になったのだろう。
ロシアの侵略により、明確な国境策定が必要になる。
それまでの様に漠然としている訳にはいかなくなった事情はロシア東進によると言えるのではないか。
以上の通り。
こんな背景の時代である。
で、この点は踏まえておきたい。
①両神父が報告した「蝦夷国」は、未知の領域と人々を含む広大且つ色々な人々を含む総称。
②この時、両神父最大の目的は蝦夷人への布教可能を探る事だが、概ねの西洋人の興味は貿易拡大や「金銀島」を見つけ征服する事。
③両神父が報告した人々はあくまでも交易で松前まで来ていた「奥蝦夷」の姿で口蝦夷は描いていない。
故に本道に居た口蝦夷の姿は未知数。
また、少なくともカルバリオ神父は、蝦夷国内の集団の中に(乙名は居るが)、天下殿(天下人や将軍)も王(大名,武将)もいないとしているが、彼等の王と言えるのは松前殿だとハッキリ書いている。
これは蝦夷人に許可証の発行を行って蝦夷国内の往来や商い、安全の保障をしている事が根拠。
異論ある方も居ようが、少なく見積もっても経済圏は同一と見るべきだろう。
松前の町や役宅,直後開かれる厚岸場所がなければ、越冬用の米も生活必需品も手に入らない。
④災害史や考古学視点と組み合わせると、駒ケ岳(Ko-d)、下っても樽前山(Ta-b)被覆直下が、両神父訪道の時期とも一致する(勿論、遺跡はもっと遡る可能性は有り)。
丁度「アイノ文化期」として報告される遺跡の廃絶直前と一致する。
これは、金堀&キリシタンが盛んに北海道入りし、その十年後位からの内陸側へ金山開発した時期とも一致する。
⑤宗谷役宅や厚岸場所が出来た時期も概ね一致する。
特に東方面の場合、松前まで出向く必要はなくなる。
これは、他藩の商いへの介入阻止も含むのではないだろうか?。
⑥蝦夷人は馬を知る。
使いこなす者もいる。
こんな感じだろうか。
当然、この訳本一つで何が決定するものでもない。
が、この報告はバテレン本人が北海道へ赴き、直接蝦夷人から聞き取りした内容で、フリース船隊航海記録と共に、他人の話を聞いて書いた他の西洋人の記録とは一線を画す。
それもまた事実だろう。
中〜近世に僅かに残される古文の読み直しは、更に進めていきたいと考える。
が、不思議な事はある。
安東氏や南部氏の古書にあまり夷狄の記載が無いのは何故?
不思議ではないか?