最新刊ではどうか?…「奥羽武士団」に記述される「陸奥安東氏&出羽秋田氏」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/27/092649

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045

さて、久々に大殿「安東氏」を取り上げよう。

たまたま新聞にあったので入手してみた関幸彦氏著「奥羽武士団」。

同書は、あまり中央史では馴染みが薄い陸奥,出羽国の中世諸将に焦点を当て、出自,系譜や活動らを纏めた本。

ぶちゃけるとその題名から家臣団らにも言及していないか?期待したのだが、著者御本人が「地域武士団の深掘りまではいたらず」とはしがきされているので、それは無理な相談だろう。

なら、概要として地方史書らで学んだ事から新刊でどの位研究が進んでいるか?みたいな視点で大殿「安東氏」を見てみよう。

同書では陸奥側、出羽側それぞれ分けて諸将を紹介しているが、両国に名を連ねるのは「安東氏」のみ。

それは行政区分的に「津軽安東氏時代」は陸奥側武士団、「檜山,湊安東氏→秋田氏」が出羽側武士団として記載されているから。

では、それぞれを要約してみよう。

一応…

同書では安東氏を「安東(藤)氏」としている。

我々はずっと「安東氏」と記事しているので、引用以外は「安東氏」で統一する。

古書記載上両方使われていて、ざっと鎌倉→安藤、室町→安東の傾向は見られる様だがこれ…どうも判然としない様だ。

 

陸奥の「安東氏」

・出自…

副題がいきなり「謎多き出自」。

ぶっちゃけ未だ議論中。

ハッキリしない上で、伝承では神話の世界から

長髄彦の兄「安日」

→「悪路王」

陸奥六郡を治めた「安倍氏

安倍貞任の子「高星」

奥州合戦の案内役「安藤次」

蝦夷管領「安藤五郎」

→十三湊の「安藤盛季,鹿季兄弟」

→十三湊日ノ本将軍「安東康季」

→南部氏との抗争に敗れ、嶋渡り&宗家滅亡…ここまで。

・拠点と勢力圏…

伝承では「藤崎」。

奥州合戦の戦後処理以前から有力者として居り、津軽平賀郡を北条得宗家が御家人曽我氏ら勢力を置く事で抑え、その「東夷ノ堅メ」として「蝦夷管領,津軽代官,津軽守護人」らとそれぞれ称される職責を得て岩木川を下り「十三湊」へ進出したと憶測される。

津軽鼻和郡から西浜方面になる。

この十三湊進出に当り、先に奥州藤原氏末裔の対抗もあったとの説がある。

これが所謂「十三藤原氏」。

実はこの辺も判然としない様だ。

但し、十三湊福島城発掘では、平安末以降福島城は建替,拡大の痕跡もある様だ。

因みに十三湊や福島城らの発掘から見える安東氏の十三湊制圧は、鎌倉期中葉以降の寛喜年間(概ね1230年頃)以降とされ、それは鎌倉末成立の「十三湊新城記」で間接的に裏付けられるという。

在地勢力を潰す又は吸収する事で、そこに拠点を移し拡大した…これでも説明はつくのだろう。

この辺は未確定。

ただ、御家人をあちこち配置した北条得宗家にして、在地勢力を利用して利権確保したのも何か理由があったのかも知れない。

後に十三湊~外ヶ浜一帯に勢力拡大し、海の武士団としての性格を強める。

主な職務は、東夷成敗権の付与により流刑地たる蝦夷地の管理や「関東御免ノ津軽船」運用による幕府公認の交易請負を一手に引受て、北方文物を若狭まで運んだとされる。

 

ここで筆者が注意すべきと考える事は、鎌倉幕府成立で所領を受け取った御家人にしても本拠として構えたのは鎌倉後期、主には南北朝前後に宗家が赴任したが多い事。

曽我,工藤,南部,浅利,北畠,小野寺、南なら伊達,結城ら、蠣崎(後の松前)にしても他領から移っている。

対して安東だけは東夷成敗権や交易請負権の一部を北条得宗家や後に室町幕府から付与されたが「在地勢力」なのだ。つまり、御家人らよりむしろ「国衆」に近い。それも御家人ら施政者層を飛び越えて得宗家なりから直接指令を受け、直接利益を上納する「国衆」…ここだ。

彼等はその後も在地勢力の頂点である「俘囚長安倍氏の末裔」であり続けているからだ。

 

鎌倉幕府末の安東氏身内争いから「津軽大乱」に至り、鎌倉幕府の威光低下を晒すきっかけを作るが、この職務は十三湊を拠点に南北朝以降も継続して続けられ、安東盛季,康季親子の時に最隆盛を極めていた様だ。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0220205100/0220205100100010/ht030200

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0220205100/0220205100100010/ht030210

弘前市史デジタル版より。

この辺は明朝の動きらとも連動する見方もある様だ。

1394(応永元)年の「北海夷狄動乱」の鎮圧により室町幕府から「日ノ本将軍」の称を得て、時の帝や貴族らもそれを追認し、揺るぎないものとする。

だが、南北朝以降、八戸や糠部らで勢力拡大した南部義政の攻撃を受け十三湊陥落から嶋渡りへ至り、再興を狙うが叶わず…

ここまで来るのに「諸説あり」的な表現が幾つも並ぶ。

やはり、出自どころか「謎多き一族」のままなのだ。

 

②出羽の「秋田氏」

・出自…

ここでいきなり問題に直面する。

元々の津軽安東氏宗家は、上記の様に滅び、日ノ本将軍安東康季の子義季で断絶し、康季の従兄弟筋の「安東政季」がそれを継ぐ。

南部氏が傀儡政権を作らせる為に担ぎ出した話もあるが、この安東政季が南部氏に反旗を翻し敗れ北海道へ逃れ、ここから出羽の檜山へ、檜山安東氏を興しその直系が南部氏と抗争を繰り広げつつ戦国大名としてのし上がる。

これが先行し秋田湊を押さえた「湊安東氏」との統一を果たした「安東舜季」「安東愛季」「安東(秋田)実季」三代へ連なる。

問題は、先行し南下した「湊安東氏」。

この南下時期が「諸説あり」。

南北朝期までに南下しており、男鹿周辺らに勢力を持っていた

○上記、安東盛季の弟「安東鹿季」が南下制圧

これで百年程度はギャップが出来る。

前者の根拠は筆者も「生きてきた証~中世竈探し」で押えている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/10/093753

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/31/185524

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

男鹿周辺の石塔や、北浦日吉神社らの棟札の安東氏記銘の紀年遺物そして南朝方「葉室光顕」斬殺への関与と…

この斬殺事件は、在地勢力だけで行われたとは考え難い。

石工にしても、五城目銅座にしても、畿内との関係が深くなければ成立はしないだろうと言うのが我々の見方。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

橘氏らも登場はするが、頻繁に交易するバックボーンがないと簡単にこれだけの事をするのは難しいだろう。

 

と言う訳で、檜山安東氏については、ある程度古書整合がとれ、湊安東氏はその南下時期が判然とはしないが秋田湊を押さえる事で出羽で二家並立し、それが安東舜季,愛季,実季三代の時代に二家統一を果たし秋田氏を名乗り、織豊〜江戸期へ向かう。

ここで奥州仕置ら豊臣方の威光により蠣崎(松前)氏が独立、後の江戸幕府成立で安東実季は宍戸へ移され、出羽や津軽,北海道との関係を全て失う事になっていく。

 

ざっと纏めるとこの様な感じだろうか。

正直に言えば、安東氏の従来からの謎の部分が解明されている訳ではなさそうだ。

まぁ何度か書いているが、十三湊らの発掘は進んでいるが、出羽に移ってからの主城「檜山城」らの発掘は始まったばかり。

あまり研究が進んでいるとは言えない様な印象。

と、同書には勝山館や志苔館ら渡島半島の勢力やひいては蠣崎(松前)氏にはほぼ一切触れてはいない。

これをどう見るか?

もっと突っ込みが欲しいところ。

だが、この様な著書は読者へ興味を持つキッカケを与える物だとするなら、読者本人がそこからさらに学べば良いだけとも言える。

まだまだ先はある。

謎だらけだ。

始まりに過ぎない。

 

 

 

 

参考文献:

 

「奥羽武士団」  関幸彦  吉川弘文館  2022.910

 

(デジタル版)  新編弘前市史 通史編1(古代・中世)