鍋について学んでみる…その東北,関東における起源と変遷

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/17/190904

「鍋・釜」を前項とする。

先日、SNS上、内耳鉄鍋らについて話が出ていた。

敢えて筆者は参加しなかったが、折角なので「鍋」について纏めておこう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

今迄も触れてはきたので、この際重複も含めて「鍋」を相対的に学んでみようではないか。

実は以前入手していたのだが、関東の研究中心だが「かみつけの里博物館」で「鍋について考える」という特別展が行われ、その図録を持っていた。

これが割と解りやすいので、前項らとこの図録を中心に纏めてみよう。

 

①鍋とは?

これは前項にこんな定義をされていたので…

・機能
「煮る、炒る、焼く、炒める、揚げる」に使うもの。
・材質

鉄製

平安期の事典「和名類聚抄」で「鍋(かななへ)」として記載される。

土製

同書で「堝(なへ)」、後の「類聚妙義抄」では「堝(ツチナヘ)」とされる。

ここまでは材質を漢字の偏で表している。

石製

記載が無いようだが、九州で「滑石」を使った石鍋が作られ、主に貴族らが使った様で修理して使う程に高級品だった模様(相場が石鍋4つで牛一頭位)。

概ね10世紀末位に出現し、後に鎌倉で多数出土する様だが、他の地域では限定的で、16世紀初頭頃に消滅。

長崎の西彼杵半島の「ホゲット石鍋製作遺跡」らが有名。

実は秋田では「館堀城跡」らから出土事例が幾つかある。

・内耳型の鍋の歴史

勿論、鍋そのものの起源は、縄文土器弥生土器→土師器,須恵器…ここからスタートする。

では古代に使われた「内耳型」の起源は?

実は鉄鍋だったりする。

再び、岩手県立平泉歴史遺産ガイダンスセンター」、柳之御所遺跡のレプリカ。

これで12世紀代だが、清原氏関連の金沢柵絡みの陣立遺跡ら11世紀末には出現しているとされる。

では「内耳土鍋」は?

「土なべと鉄なべを比較すると、形や内側に耳をつける点が共通していることに気付く。内耳鉄鍋は平安時代末に出現、内耳土器は14世紀後半に出現する。このことから、鉄鍋を模倣して、土製のをつくられたと考え、鉄製から土製の材質転換には、何らかの意味があると考える。」

「東日本において、12世紀~14世紀後半までには土製の煮炊き道具がほとんどみられない。このため、その頃には鉄製の鍋が、主要な煮炊き道具と考えられている。14世紀代の後半になると、東日本の一部では、土製の内耳土器が出現する。」

 

「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」  かみつけの里博物館  2000.2.20  より引用…

 

以上の様に、「内耳型」の煮炊き具は鉄→土器…と変遷している。

ここで中世の南東北〜関東では、形状や材質で、

南東北の出羽・陸奥

上野・武蔵…

下野・常陸・下総・上総…

信濃・甲斐…

概ね4つのパターンに分かれ、それぞれで製造・利用がされていた様だ。

で、この中でその出現が最も早いとされるのが南東北

他は概ね15世紀以降の出現となる。

「中世の早い段階から内耳鉄鍋があり、主要な煮炊き具であった。内耳土鍋は、14世紀後半に出現したと考えられている。焼成は土師質が多く、分布域をみると福島県中通りの中北部、米沢盆地から福島盆地にあるという。さらに、内耳土器の分布域が、伊達氏の領国と重複する点も指摘されている。」

 

「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」  かみつけの里博物館  2000.2.20  より引用…

 

と、言う訳だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

そんな話があったので、こんな話も学んでみた訳だ。

それら中世の土鍋圈は、上記の地域から遠江らを飛び越え何故か東海圏の一部に土鍋圈を作るという荒業を発揮する。

 

では、それらと北海道以北の関係は?

千島方面に15世紀位から内耳土鍋が出現する。

また、本道内では日本海ルート上の内耳鉄鍋が。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

それぞれの分布でどんな交流であったかも想像可能かも知れない。

以上…

 

で終わったら、面白くもなんともない。

なら少々ネタフリをしてみよう。

圧倒的に鉄鍋圈であったとされる北東北。

本当に内耳土鍋は14世紀を待たなければ出現しないのか?

答えを言えば、そうでもない様だ。

筆者は津軽で現物を見ている。

「把手付土器・内耳土器はいずれめ一〇世紀以降に出現し、一一世紀に多く認められる金属器模倣の器である。把手付土器は小形鉢形の器側面に把手を付けたもので、多賀城や秋田城で鉄製の器形が出土している。~中略~羽釜は鉄製の鍔釜を模倣した形で出土数は多くないが、九世紀中頃から特定の集落で認められるようになり、空白期間を経て一ニ世紀頃にまた特定の集落で認められるようになる。

内耳土器は、内耳鉄鍋を模倣したと想定されるが、出自を北方民族の革製煮炊具と考える人もいる。この土器は内側に耳を持つことから、鉄製の弦でなく植物性の弦であっても囲炉裏や炉の上で煮炊できる特性がある。ただ、出土している事例を見ると口径がニ〇㌢以上の例はほとんどなく実用的に使用されたにしても、一度の煮炊量はかなり少ないと見る事が出来る。」

 

「浪岡町史 第一巻」 浪岡町  平成12.3.15  より引用…

 

以上の様に、浪岡町の環濠集落遺跡である「高屋敷遺跡」周辺では「把手付土器」「羽釜型土器」「内耳土器」が9~10世紀には出現している。

ただ「内耳土器」は、柳之御所遺跡の「内耳鉄鍋」の様な形ではなく、図の様に普通の鍋の内側に耳が付く様な形状をしており、浪岡町の「中世の館」で見る事が出来る。

これらの原型たる鉄製の羽釜や把手付鍋は秋田城から出土しており、こちらも「秋田城跡歴史資料館」で展示が見られる。

金属器の模倣土器は中世迄待たずともやってはいたのだろう。

時節柄も9世紀後半の元慶の乱以降なら製鉄,須恵器窯の拡散や文化の拡散と共に広がったと考えても良いかと考える。

何せその後に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

祭祀用具が北海道迄北上している。

広義の「政」として秋田城から北上するのは、何の矛盾もないであろう。

 

さて、北海道と東北に照準を合わせて少し纏めてみよう。

 

・8世紀

中頃に秋田城(出羽柵)北上、製鉄や須恵器窯技術も同時に北上し、渤海使らの羽釜らを鉄器模倣した形跡が考えられる。

 

・9世紀

中頃に元慶の乱発生。

·秋田城→雄物川遡上

·秋田城→由利柵から子吉川遡上

·秋田城→能代営から米代川遡上→津軽方面へ、製鉄,須恵器窯技術が拡散

同時期程度に、鉄器模倣土器が津軽浪岡周辺で開始。

 

・10~11世紀

防御性集落の出現と模倣土器の拡大。

11世紀に「内耳鉄鍋」出現。

道南,稚内,樺太らにも拡散、「内耳土鍋」も出始める。

食器としては、木器の椀や曲げ細工の容器が広がるのもこの頃か。

 

・12~13世紀

柳之御所遺跡らで「内耳鉄鍋」検出。

東北ではその頃には、ほぼ土製煮炊具が消滅し、鉄製に置き換わる。

 

・14~15世紀

後半から旧伊達氏領付近(米沢盆地,福島盆地)から「内耳土鍋」が出現し、同時に千島周辺で検出し出す。

15世紀には北関東、信濃,甲斐周辺、後に飛んで東海圏の一部まで広がる。

 

こんな感じか。

改めて前項を。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/17/190904

浪岡周辺で金属器の模倣が開始した段階で、鍋と釜が作られた理由も何となく解るのではないか?

この頃は竪穴住居で、竈+地炉の併用。

釜は竈へ、蒸す又は炊く…

鍋は地炉へ、それも内耳の弦でぶら下げ火力調整し、煮る又は炒る,焼く…

ちゃんと想定出来そうなものだ。

「鍋について考える」では、中世迄に出土した鍋の周辺には食べ物と見られる遺物もあるとの事だが、割と「貝類」の検出が多いそうで。

ご先祖達は貝出汁の汁物を好んで啜っていたのかも知れない。

そういえば、シジミやアサリの味噌汁を飲むと妙に落ち着く気も。

 

食器の文化史的になったが、こと東北に於いてお気づきだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

割と製鉄技術の伝搬と密接な気はしないだろうか?

あまりに高額で権威財的な「石鍋」は別として、土器と鉄器はそれぞれ独自に発展したと言うより、お互いに模倣し合いながら形や拡散場所を変えてきた様だ。

実用品として権威財として、鉄器のインパクトはそれだけ高かったのかも知れない。

北海道においても、研究初期に河野博士や後藤博士らが続縄文~擦文期で「鉄器,鉄剣」らに着目し「その製造場所により、文化の重さが大陸or本州どちらになるか?」確認しようとしていたかが理解出来よう。

それは、現代ほぼ解明されている。

ある時期からほぼ100%本州なのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

土器から見ても、この通り。

当然の結論。

 

一つ付け加えれば…

続縄文~擦文文化期は北海道では「先史時代扱い」。

先史時代からこうなのだ。

そしてその時代に「アイノ文化の片鱗」はまだ無い。

そして、擦文文化期の終焉とアイノ文化期の開始時点はまだ解明されてはいない。

象徴アイテムすら諸説有り。

これが現実。

 

まぁ、こんな食器の変遷を見ていけば、少しずつ擦文文化人が「生活痕跡を消し(中世遺跡の消滅)、何処へ行ったのか?」も、論じる必要があるのでは?

読者の方々はそんな想像をした事があるであろうか?

でも、それが解明出来なければ何処でどうやって「アイノ文化が出来上がったのか?」を答えられていないと言う事。

まぁ…誰も答えられまい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

これが解っていないのだから。

 

触りだけではある。

まだまだ入口。

もっと学んでいこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」  かみつけの里博物館  2000.2.20

 

「浪岡町史 第一巻」 浪岡町  平成12.3.15