対岸の状況はどうだったのか-3…東通村尻屋崎「浜尻屋貝塚遺跡」に眠る安東氏の痕跡、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606

北海道対岸の青森に関しては、野辺地や波岡を十三湊に続き紹介してきた。

さて、なら持っと近い津軽半島下北半島ならどうか?

先日、筆者は下北半島へ行ってきた。

この辺の遺跡はどうなのか?

そして安東政季や蠣崎氏縁の田名部らは?

訪れたのは「東通村歴史民俗資料館」。

だが、なんと臨時休館だ…

筆者は事前調査は殆どやらないので、たまに空振りはやらかすのだが…

この際と思い、管理している教育委員会に電話したところ、村史の購入は可能なので訪れた。

村史購入時に近場で古〜中世史となるとここ以外なら六ケ所村との話、途方に暮れていたら発掘調査報告書を譲って戴ける事に。

東通村教育委員会には感謝しかない。

ありがとうございます。

本項の報告は、正にその発掘調査報告書になる。

バッチリピンゴ。

さて、東通村下北半島の北東端に位置し、寒立馬で有名な「尻屋崎」がある。

尻屋崎灯台津軽海峡を挟み函館方面、三枚目は何処に当たるのか?

視力に問題ない筆者にはハッキリ対岸北海道が見える。

これなら、船があれば対岸に行こうと思うだろう…バッチリ見える。

さて、本題。

その遺跡を「浜尻屋貝塚」と言う。

この尻屋崎から少し南に下った場所。

昭和42年に周辺でアワビを中心とする貝塚が発見され、ここも存在はある程度確認されていて、村史発行に合わせ本格的に発掘に至った模様。

なんと「中世に構築された貝塚」だと言う。

報告書によれば、国内で中世の貝塚遺跡は唯一ここだけ。

それも、その遺物を見ると、北海道と東北、そして中央との関係を見るにかなり貴重な遺跡になる。

では基本層序から。

第Ⅰ層…黒褐色土(表土)10~20cm

第Ⅱ層…砂丘砂層  0~30cm

第Ⅲ層…貝殻混じり黒色土(貝塚層)150~0cm

第Ⅳ層…火山灰層 0~10cm

第Ⅴ層…黒色土層 10~15cm

第Ⅵ層…黃橙色砂礫混じりローム層 70~100cm

第Ⅶ層…黃橙色泥層 50~100cm

第Ⅷ層…粘板岩層(地山)

ここは、海面への段丘が地滑りらでズレており2段になる。

貝塚は上の段にあるが、居住者は江戸期に上の段から下の段へ移住した様だ(利便性の問題)。

そんな事から事前に貝塚の存在が解っていた模様。

注目すべきは、遺構確認された第Ⅲ層と火山灰層である第Ⅳ層の関係。

第Ⅳ層はB-Tm(白頭山-苫小牧火山灰)と特定され、947年の編年指標が与えられている。

つまり、この貝塚は、平安中期まで遡る事は有り得ないと言う事。

結論から言うと、

「本遺跡の貝塚はアワビが主体である。貝層中から14世紀前半~15世紀末の陶磁器片が出土する国内唯一の中世アワビ貝塚である。」


「浜尻屋貝塚 -平成12~14年度発掘調査報告書-」  東通村教育委員会  2004.3.25  より引用…

 

と、貝塚内の陶磁器が殆ど中世、それも15世紀前半位をピークに集中することからその時代に構築されたと特定出来たパターン。

アワビは煮て干して「干し鮑」として保存用、又は大陸への輸出用として古代〜近世まで珍重されて来た事は従前から明白。

6cmの大型(取引用)から小さい物や他の貝殻(自家食用)まで出土しているが、古い層では大型が集中するので、産業として大量に採ったものと考えられる。

では、この「浜尻屋貝塚」の破壊力を…

①カマド状遺構…5基

「細長い粘板岩が直立しており、すぐ近くから石を固定するために使われたと考えられる粘土や焼土を検出した。また多くの石が2次加熱を受け脆くなっており、カマド状遺構と判断した。」

「浜尻屋貝塚 -平成12~14年度発掘調査報告書-」  東通村教育委員会  2004.3.25 より引用…

集積や柱穴もあるが、基本屋外な様で、周囲からは鉄滓らは検出しておらず、精錬や鍛冶ではなくアワビらの加工用として構築されたと考えられる。

破片なので詳細形状は不明だが、鉄鍋の破片も出土している。

 

②硯

敢えて着目した。

本発掘後期のテストピットで、混貝主体層からの出土。

瀬戸美濃平茶碗や釘と共伴。

他のピットでは銅鏡や舟釘、刀子、サイコロ(骨角器)らも出土しており、一定以上の文化水準を持った人々が居た事になる。

金属器では他にも鏨、鎚、鉄鏃、釣針、ヤス、鉄鈎、火箸、締め金具や古銭ら。

 

③骨格器

左上に注目戴きたい。

離頭式の銛頭である。

これも今まで何度か紹介してきたが、余市奥尻島で出土した物同様に、鉄の銛先がついた燕尾型のもの。

当然、骨鏃や中柄らも出土する。

又、4点だが、擬餌針が出土している。

貝殻の他に、カツオや2mクラスのマグロ,メカジキ、70cmオーバーのタラ,マダイ,スズキ,ヒラメと、大型の高級魚が並ぶ。カツオ等はこんな擬餌針を使ったのかも知れない。

勿論、イワシやニシンらもある。

さすが、津軽海峡の入口。

鉄鈎でなければ保たない様な大物が並ぶ。

2mとなるとマグロはナブラへの銛撃ちだろうか?

釣り好きとしては、過激に唆られる。

 

④井戸…2基

この内、一基はアスナロを使用した木枠が取り付けられる。

もう一基は土,粘土のみで下水の様な臭気があり、むしろトイレ?とも。中には鞴の羽口ら。

羽口は竪穴状遺構内で鉄滓と共に見つかったものもあり、鍛冶をしていた事を示唆させる。

鋼は複数他地域から運び込まれたと推測している。

 

⑤人骨…一体

性別不明の6~7歳位の人骨が一体、ほぼ全身骨で出土。

盛土の掘り下げ時に検出し、墓坑らしきものは検出されず。

頭位は北西、東に顔を向けた側臥屈葬。

さて、この人物は何者か?

本州人、近代北海道アイノの両方の要素を持ち、どちらに近いかハッキリ解らないそうだ。

 

目立つところをピックアップしてみた。

尻屋崎周辺には縄文草期から、弥生、奈良、中世、近世まで、貝塚を除き小規模ながら一通りの遺跡がある様で、中世貝塚はここのみだが、近世幕末?の貝塚まで揃う。

東通村にはまた、B-Tm(白頭山-苫小牧火山灰)を挟む奈良,平安の遺跡があり、そこでは土師器と擦文土器が共伴するとか。

ここでも盛土内(年代特定不能)では擦文土器も出土する。

と、言えば、上記の離頭式銛頭から「本道アイノ!」と言いたい方は居るだろうが、待って戴きたい。

硯、竈、井戸が揃う。

本道アイノの担い手とはならない。

では?

実はこの報告書の第Ⅲ章に「古代〜中世の下北半島」として、古文によるこの周辺の情勢が記載される。

鎌倉時代の青森は、二代執権北条義時陸奥守になり、津軽〜糠部まで北条得宗家の所領となっている。

そこに軍功恩賞や管理者として御家人が下向する。

が、たった一人だけ在地土豪が地頭代として「蝦夷の沙汰」を取り仕切る。

これが安東(藤)氏。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834

「庭訓往来」では東北から年貢として納められた物が記載されるが、鷲羽や水豹皮は安東氏が最も深い関わりを持ったと推定される。

十三湊安東氏の台頭。

南北朝になり、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

陸奥将軍府北畠顕家は、新渡戸文書の「北畠顕家国宣」内で、津軽の一部と下北半島を安東高季が鎌倉期から引き続き知行を任されていた記載がある。

又、1325(正中2)年「宗季譲状」には、安東宗季が息子の高季に宇曽利郷を、娘の虎御前に1代限りで田屋,田名部,安渡を譲ると記載がある。

同時に、南北朝〜室町前期の「南部家文書」には津軽,下北半島についての記載は無い。

つまり、下北半島は安東氏が掌握していたと考えられる。

これが崩れるのが、「蠣崎蔵人の乱」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/26/204942

先に南部氏侵攻で、十三湊陥落後に発生した蠣崎蔵人の乱を鎮圧した恩賞として、奥州探題の大崎教兼が鎮圧恩賞として、根城南部の南部政経へ糠部〜下北半島一帯を与えた書状が残される。

南部氏の明確な下北半島掌握の初見はここの様だ。

安東政季の嶋渡りの時、田名部は正式には南部領とは幕府には認められてはいなかった事になるだろう、実質は別として。

故に、傀儡として安東政季を据える必然が出てくる。

この田名部掌握は、江戸期に南部利直が幕領として江戸幕府に召し上げられるまで続く。

さて、この浜尻屋貝塚の年代は…14~15世紀頃。

つまり、この遺跡は安東領として干し鮑の生産をしていた事になる…と、言う訳だ。

前時代の余市奥尻島に見られる鉄頭がついた離頭式銛は安東領に暮す人々が中世使っていた、安東氏の痕跡になる。

まぁ「日ノ本将軍」と言われた時代を含むので…

 

さて、もう一つ…

先の北畠顕家の系譜を持つ北畠(波岡)氏、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606

波岡城を拠点としていた。

波岡城にも骨角器の中柄が二点出土している。

蠣崎慶広は三男であった為、波岡御所に伺候し、後、1560(永禄3)年に北畠顕慶(具運)から稲我郡潮潟の野田玉川村を拝領と「新羅之記録」にある。

北畠顕慶は官位を得る為に都に昆布や煎海鼠を献上したとされる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/26/205225

蠣崎氏はこの段階で、安東一党に正式に…

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600

あら?

まぁ蠣崎慶広が家督を継いだのはこれらの後で、先に大浦(津軽)為信の攻撃で北畠(波岡)氏が滅ぼされるのが先なので問題無いと言えばそうなのだが。

都との繋がりらは北畠(波岡)氏との繋がりの中のコネクションなのか?

勿論、蠣崎慶広は後に松前慶広を名乗る。

戦国の世は、なかなかドロドロなのだが、案外あちこちとの間で「コウモリ」をやっていたか…?

 

如何であろうか?

下北半島も興味深い場所が色々ありそうで。

その辺も地方史書中心においおい。

 

一つ問題提起…

離頭式銛ら象徴的なものが、下北半島に。

年代は14~15世紀。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

これも、似た時代になるのか?

16世紀に炎上した聖寿寺館の工房跡…

概ね、今のところ遺物はこの辺の時代に。

さて、では…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

北海道には、その時代の遺跡が無い。

再三言っているが、考古学的には今のところ、松前周辺や余市、厚真を除けば「全くの空白」なのだ。

さて、擦文文化人の末裔達は何処に行った?

樺太や千島の話は出るだが…

ほら、居たではないか、下北半島に。

まぁこんな視点もあっても良いのでは?

鎌倉幕府の奥州攻撃時に、津軽,糠部から移住した話はある。

鎌倉幕府滅亡で、津軽,糠部に戻る…

故に北海道には中世遺跡が無い…

せっかく楽しみながら学ぶのだから、この程度の妄想は膨らませなければ。

勿論、無根拠はNG。

でも…遺物はあるのだが…

 

 

 

 

 

参考文献:

 

「浜尻屋貝塚 -平成12~14年度発掘調査報告書-」  東通村教育委員会  2004.3.25

 

東通村史 遺跡発掘調査報告書編」  東通村史編纂委員会  平成11.2.1