防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

前項に続き、今度は奥六郡俘囚長安倍氏の「鳥海柵」を。

「国指定遺跡  鳥海柵シンポジウム −資料−」  より。

これが立地。

北上川胆沢川で侵食された段丘で胆沢川を挟み「鎮守府胆沢城」と向い合う。

解っているだけで三条の沢を利用して郭を作り、

周囲を堀で囲む構造で、更に郭は溝らで区画される。

段丘と沖積低地の比高は約10m、そこには柱列や櫓状建物,門跡があり、自然の沢を利用した堀と柵列で防御された城柵だったと考えられている。

ここでは、古墳時代〜奈良期の遺物も出土していて、

①元々は蝦夷(エミシ)の居住区や古墳

鎮守府胆沢城造営で律令国家側の施設や居住区

安倍氏の「鳥海柵」造営

④廃絶後、奥州藤原氏の経塚

と変遷している様で、中世以降では現状迄使用形跡は無い。

古墳〜奈良期では、竪穴住居や古墳から刀剣,玉類、束帯用の銙帯や和同開珎らだけではなく、エミシの赤い甕も検出され、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/10/180459

北上市以北の集団との共通点を持つ。

また、胆沢城の時代では「五保」「介」らの墨書土師器や緑釉陶器らから、胆沢城(又は多賀城)関連施設や官人居住区を推定している。

その後、土器編年より、鎮守府胆沢城の廃絶期(十世紀中頃)に続き、十一世紀初めには「鳥海柵」として整備,軍事的性格を強め運用開始、十一世紀中頃で運用終了の様で、前九年合戦による安倍氏の敗北と合致する様だ。

前項でも記載したが、四面廂付建物(Ⅰ~Ⅳ期)を中心とし安倍氏による政務が行われていたと考えられている。

この建物、柱の穴形や径,間隔らから、胆沢城→鳥海柵柳之御所の中心建物の変遷が推定出来、家臣団が控える中門廊ではないかとされる部分があると思われ、平泉やその後の鎌倉幕府で確立される「兵による主従関係」の原型が鳥海柵で出来つつあったとの説があり、「地域が主体となる中世社会は鳥海柵から始まる」という見解もある。

南端付近には鍛冶工房、旧二ノ丸(第二〜三沢の間)に土器工房が備えられる。

郭と郭は橋で接続され、それぞれがバラバラではなく一体的に運用される「群郭城郭」だっと思われる。

 

さて、ちょっと考察。

従来から言ってきたが、東北の古代城柵,中世城館を見学して回ると、何となく気がつく事がある。

根城や浪岡城はその形が「群郭城郭」的。

対して、秋田にある「脇本城」「浦城」らは純然とした山城。

さて、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

「上北型…

段丘の先端らに集落を作り、最高部を堀で隔絶→支配層が出来上がっているのでは?

津軽型…

集落そのものが堀や土塁で囲まれる→支配層が明確ではないのでは?

ら、日本海津軽平野と三八上北地域で地域差がありそうだと提唱する。」

要は、

「北上型」の環濠集落→鳥海柵→「群郭城郭」へ…

津軽型」の環濠集落→大鳥井山柵→「山城」へ…

こんな系譜で中世城館へ変遷したのではないか?とふと思う事がある。

これは地形差(陸奥→沖積低地が狭い、出羽→広い)や河川との関係(川舟の運用の有無)、海の監視らにも寄るとは思うのだが。

陸奥では南北に北上川沿い街道が伸び、監視はそこを中心に行う

・出羽では広い低地,海を小高い山の上から全体監視する

この違いから、軍事的要因が加わるなら、自ずと必要になる城の形も差が出たのではないのだろうか?

奥州藤原氏柳之御所に至っては、最早奥州には敵対する者がおらず、軍事的要素が無くなってくるのは、「安倍・清原氏の巨大城柵  −鳥海柵跡・大鳥井山遺跡−」にも記載がある。

ここは配置を(高館を大鳥井山に見立て)川沿いまで下げた大鳥井山柵とした…とすれば、何となく納得。

むしろ軍事的要素より経済的要素や宗教要素が強くなる…ここだけはむしろ特殊であり、鎌倉〜室町でまた軍事的要素が増えた段階で群郭城郭や山城へ分かれていく…こんな変遷。

まぁ中世城館に関しては細かい分類や事例が纏められている様ではないようなので、思いつきに過ぎないが。

こんな推定が成り立つならばその延長として、北海道に於ける古代官衙、防御性環濠集落、道南十二館の推定、ひいてはチャシの分類らに応用出来そうな気もするのだが。

ことに道南十二館については、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

殆ど解ってはいない。

本当に道南のみなのか?

実は、余市鵡川ら「人が住む」とされた地域や下北半島まで広域に及ぶのか?

色々推定出来る事はあるだろうし、以前から言っている、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331

阿倍比羅夫が指示した「後方羊蹄」の郡役所らを絞り込む要素にも出来るであろうと思うが。

 

さて、元に戻そう。

安倍氏の城柵は「鳥海柵」のみではなく、衣川の関以北、黒沢尻柵や厨川柵ら十二の城柵を一党でそれぞれ守る形をとっていたと陸奥話紀にある様だが、現実的には気仙郡の「金氏」らと婚姻関係を結び、その勢力はもっと南にも影響していたと最近は考えられている模様。

そして、それが前九年合戦の遠因なのではと同書にはある。

安倍氏も前項の清原氏同様に、中央氏族「安倍朝臣氏」で、純然とした蝦夷系豪族ではなかったのではないかと樋口知志氏は指摘。

台頭時期は研究者により見解が分かれるとしているが、元慶の乱で派遣された「安倍比高」「清原令望」等中央氏族から父系を、在地土豪の娘を母系としての婚姻で土着した者からの系譜だろうとの見方。

その台頭にあたり、陸奥,出羽の国司鎮守府将軍,秋田城介らとの婚姻でパイプを太くした…と言う見方だ。

ここで、前九年合戦当時の安倍氏内での婚姻関係では、

気仙郡の金氏を母系にする→安倍貞任ら、出羽清原氏を母系にする→安倍宗任ら、と、処刑された者と流刑された者が分かれる傾向を持つとの事。

安倍氏清原氏の勢力争いの中で、それら勢力図が利用されたとも言えそうだ。

前九年合戦の皮切り「阿久利河の殺傷事件」はほぼ安倍貞任は濡衣で、源頼義による安倍氏討伐のシナリオの中で嵌められたのでは?という物。

また、合戦終了後の沙汰では清原武則の意向が反映され、前述の様な処刑組と流刑組に分かれたとしている。

ここは、後三年合戦でも清原武則からの陸奥清原氏と旧来からの出羽清原氏の仲違いを利用したと言うのも同様なのかも。

これら説を読んでみれば、鎌倉殿源頼朝が霞む位、エグいと感じるのは筆者だけではないだろう。

藤原清衡が最後まで生き残り、奥州を束ね平泉に浄土を作ろうとしたのも、それまでの殺伐とした流れにほとほと嫌気が差したのかも知れない。

同書では、この辺の背景を監修の樋口知志氏、安倍氏については安倍氏十二柵の比定を含め浅利英克氏、清原氏については島田祐悦が執筆している。

浅利氏と島田氏の考古学成果に背景を乗せていく感じか。

考古学成果で少しずつ歴史がアップデートされてきた感。

一読お勧めである。

安倍氏にしても清原氏にしても藤原氏にしても、陸奥,出羽の資源と北方交易利権を活用し、国司をパイプに財力,勢力をのばしたのは間違いない。

これらの研究が進めば、間違いなく北海道の擦文文化期の見え方は変わってこざるを得ない。

何せ、中央との関係が必ず絡むのだから。

 

 

 

 

参考文献:

「安倍・清原氏の巨大城柵  −鳥海柵跡・大鳥井山遺跡−」  樋口知志/浅利英克/島田祐悦  吉川弘文館  2022.10.10

「国指定遺跡  鳥海柵シンポジウム −資料−」  金ケ崎町中央生涯教育センター  2017.2