羽黒山「蝦夷館」とは?…立地らに対する考察の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/21/052745

先に筆者は「羽黒山」へ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

妙にポツポツ出羽三山の話が出てくるからである。

出羽三山史」によれば、出羽三山は古来東北の総鎮守、国家鎮護の霊山。

その開山は崇峻天皇の第一皇子「鉢子皇子」によると伝えられる。

その御墓は宮内庁管轄で菊の御紋付きの柵で囲まれ、それは東北唯一。

往古より数多の修験者が羽黒山,月山,湯殿山を巡り修行したと言う。

 

さて、本項は考察の備忘録。

前項にある「蝦夷館」についてである。

今では桜の名所として行楽地として親しまれているが、写真の様に土塁と空堀が巡らされた曲輪が認められ、識別上は「中世城館」と扱われる様だ。

前項にあるように「チャシ跡」との話もある様だが、現状山形の埋文らではこのチャシと言う言い方は止めているのは概報。

では、どう捉えられているのか?

蝦夷館は月山泥流の北に延びた丘陵端部の薬師沢にあり標高128mである。山上を平坦にして、約200m四方の斜面に三段の曲輪がある。最上段の曲輪は東西80m、南北50mの瓢箪形をなし、東部を残して、巾4m,深さ1mの空堀をめぐらしている。堀の外側に土塁がある。古くから蝦夷館とよばれてきたが縄文時代の石器が出土することもあつて、チヤシ(アイヌ語で偶塞)とする見解もある。地名により薬師沢館ともよぶ。」

 

山形県中世城館遺跡調査報告書 第三集(庄内・最上地域)」 山形県教育委員会  平成9.3月  より引用…

 

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507

まぁ我々的に言えば「とっくの昔に否定された縄文=アイノ説を何時までグダグダ言ってんの?」「縄文晩期の亀ヶ岡文化を否定する気か?」で終了。

でも、それで終わってしまったらつまらない。

ここで蝦夷館の立地から、これが何であるか?を考察してみよう。

念の為、あくまでも考察である。

さて、この立地を見てみよう。

これが蝦夷館公園の案内板。

この曲輪が手向僧坊の入口にある事が解る。

往古よりこの僧坊に泊まり、羽黒山参拝を目指す入口であった事は解るだろう。

Google Earthより。

羽黒山出羽三山神社との位置関係を見てみよう。

庄内平野から谷の入口にあり、手向僧坊を経て随神門へ。

そこから一度石段を下ると、

国宝「羽黒山五重塔」へ。

そこから石段、山道を登り、

出羽三山神社へ…

これが元々の参道。

報告書の縄張りを見ると東側が切れているが、それが手向僧坊への登り道に接続されている。

要は、登り口周辺から周囲を一望出来る様に立地している。

 

「この三山は、山そのものが神であり、又神のお住所として捧げられた領域であったから、神聖この上もなく、山中の一木一草といえども神々のものであり、これに手を触れたり、又猥りに近付いてはならない禁忌の区域であった。であったから古来三山を駈ける道者は、全て先達の指揮、指導に従い、厳重な戒律が守られ、一定の精進を遂げなければならないのはそのためであり、現在各地方に残る精進屋や精進場で、里先達の指導で精進潔斎が続けられるのである。出羽三山が今に至るまで行の山道・浄めの山と言われているのも、その源はここにあるのである。」

 

出羽三山史」 出羽三山神社  平成23.3.1  より 引用…

 

当然ながら、神の山から物を採るや神域を侵す行為は禁忌とされ、当然不信心な侵入者は…と言う訳である。

中世では、大宝寺氏が寺社別当も兼ねて政治も宗教も治た時期もあるので、不審な者は当然取り締まる必然があった訳で。

ここを加味すれば、

出羽三山開山

②防御性環濠集落造営

③中世で監視用として転用

して、蝦夷(薬師沢)館→宿坊→随神門より参道へと向かうルートの入口で使用されたのではないか?

と、推測出来ないであろうか?

 

そして、これが北海道にある「チャシ」同様の物と仮定するなら我々が従前言ってきた、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801

単独運用するものでなく、複数で監視砦として運用する物ではないか?と言う話と矛盾しない。

砦から監視する対象は、御神体としての「山」。

その本命は、チャシ群の奥の御神体の山になるだろう。

仮に…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

埴原モデルや金田一説、民族運動第一世代の吉田菊太郎翁らの歴史観でこれらを鑑みれば、蜂子皇子が出羽の由良海岸に辿り着いたのは593年、605年に出羽三山開山…6〜7世紀初頭の話で、まだ出羽柵なんて話ではない時代の事、アイノ文化の欠片もない時代の信仰ベースでの話になり、それら歴史観では否定出来ぬ程遡る話になると。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716

まぁ御幣信仰を持っていてもおかしくはないし、後に修験道密教の傾向を強めて行く段階で、錫杖やらがあっても何にも矛盾しない。

但し、それは東北の古修験道の派生になり、全く独自の宗教観ではなくなるだけの事。

 

まぁ、あまりアイノ語だのチャシだのと言わない事をお勧めする。

蝦夷にアイノが含まれる事はあっても、アイノに蝦夷が含まれる事は時系列的に有り得ない。

侮蔑用語の名のものに、直訳するのは如何なものか?

数字を順に並べられないと自白する様なものではないのか?

独自のものと言うなら、東北とは切り離すべき。

 

筆者はちょっと見解が違う。

繋がる人々と繋がらない人々が居るだろうと言っているだけの事だ。

まぁあくまでも考察の備忘録。

こんな断片で何か証明出来る話ではないので、まだ戯言に過ぎん。

 

ところで、この曲輪なら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

津軽型。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

こちらの系譜。

さて、こんな戒律を作り御神体を守ろうとした。

その意図はなんだろう?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

こんな話から広げている故に。

ぼちぼち、隠し玉を出すべきか…

まぁ少しずつ…

 

 

 

 

 

参考文献:

 

出羽三山史」 出羽三山神社  平成23.3.1

 

山形県中世城館遺跡調査報告書 第三集(庄内・最上地域)」 山形県教育委員会  平成9.3月