https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257
一応、性質上、これを前項とするが…
地方史書や研究文献を読んでいると、たまに「え"??」と思うものはある。
概ねそれは伝承レベルの話で、裏付けはないのでそこで止まる。
だが、中には、科学的根拠が付けられて「どう解釈すべきか?」と研究者を悩ませるものもある様だ。
たまたま見つけた山形と青森の考古遺物の事例である。
①渡来系青龍刀…
ちょっとネタ振り…
これは縄文後〜晩期の「是川石器時代遺跡」出土の漆塗りの飾り太刀…勿論、金属ではない。
「是川縄文館」の展示。
これを踏まえ…
「平成7年の夏、羽黒町中川代遺跡出土の刻文付有孔石斧が報告されたことによって、遊佐町三崎山遺跡出土の青龍刀とともに、庄内では縄文時代の貴重な大陸からの渡来品二点をもつこととなった。まだ国内ではいずれの類例はない。
三崎山の青龍刀は昭和二十九年(一九五四)に採石場から発見されたものである。全長二六センチ、最大幅八センチの内反りの製品である。中国の黄河中原の分布する殷の最盛期のものに似ており、後・晩期の土器とともに出土していることから時期も一致している。東北の縄文時代後半期には石剣・石刀・青龍刀形石器などの磨製石器が出てくる。これらは刃物である武器として使用出来ないことから、呪術や儀式上の宝器的な性質とされてきた。そして大陸に発達していた金属製品の模倣と見られていたが、その原体が日本に伝来していたことになる。さらに国内での金属器の使用は弥生時代という定説に対して、それが約一五〇〇年もさかのぼることになり論議をかもしだいていた。」
「立川町史 上巻」 立川町 平成12.3.15 より引用…
一応…
殷代…むしろ「商」か、と言えばフィクションでは「封神演義」の時代。
現在China王朝で存在確認された中では最古の王朝だったか。
それと類似する青龍刀が出土。
この記述は「縄文時代」の項目にあり、庄内地方は大木式土器の文化圏でその青龍刀は縄文後〜晩期の土器と共伴し出土していた。
勿論、庄内地方はその後弥生時代を経て、奈良~平安期には「出羽柵」「城輪柵」が造営された地域。
まぁここまでなら、後代の物が包含層として…等で済んでしまうのだが、実はそこで終わらない。
http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20010619000208
毎度お世話になっているファン・ガンマ様からの情報である。
どうやら鉛の成分分析を行い、それが商(殷)代の物と一致し、科学的にその時代のものであろう事が立証…
先の「刻文付有孔石斧」も、国内産の石ではないとあり、縄文後〜晩期には大陸と行き来し交易していたのではないか?を示唆させる。
なら、後〜晩期に出現する石剣や上の漆塗り飾り太刀は「威信材」なのでは?とも…
ただ、これ…
それが成立するなれば、世界最古と言われる縄文の「漆文化」を大陸へ伝来させたのもまた縄文のご先祖達…これも言える訳で。
で、ここで終わりはしない。
実はまだある。
上記「是川縄文館」で入手した文献に、興味深い話があったので紹介しよう。
②謎の青銅塊…
いきなりいく。
「二枚橋(1)遺跡は青森県むつ市大畑町に所在し〜中略〜縄文時代早・前・後・晩期、弥生時代中期の遺構・遺物が確認された。」
「青銅塊1点(図1:1)1)は遺構外(Ⅳ−58グリッド)から出土した(同左)。同グリッド周辺からはいずれの時代の遺構も検出されておらず、同一グリッド出土土器の大部分はⅡ'層に廃棄された(写真)二枚橋式2)でわずかに縄文時代後期を含むものの、確認調査時の一括取り上げのため当該製品の出土層位を特定することができない3)。
本製品は長さ1.5cm、幅1.3cm、厚さ0.8cmの不整な粒状を呈し、重量は5.1gを量る。上端部は丸みを帯び、断面形状から見て表面に平坦部を作出した何らかの製品の一部であると観察される。器面には緑青の他、細かい発泡痕が見られる。下端部の一部に丸みを有するものの欠損品と考えられるが、似たような形状を持つ類例は管見の限りがなく、元々の形を復元することは困難である。」
「二枚橋(1)遺跡出土青銅塊についての考察」 根岸/齋藤/森田 『青森県考古学 第27号』 青森県考古学会 平成31.3.31 より引用…
一括取り上げした土器らの廃棄物の中に混ざっていた様だ。
註釈部分の引用はしないが、Ⅰ~Ⅲ層までを一括で取り上げた為に、Ⅰ層、つまり表土から出土された事を否定出来ない。
だが、発掘担当者は一括出土した土器・石器に混じって検出したとしている。
その場合、共伴した土器より弥生期位の物になってくる。
著者らはこの資料を元に、青銅塊に混入する鉛の二種類の同位体比を分析して、これが何処から産出されたのか?を確認したとしている。
この図の中で、
A→弥生期に大陸から運ばれた鉛使用し、国産された青銅鏡の多くがこの領域
C→国産の鉛
D→弥生期に朝鮮半島産の鏡,剣の領域
だそうで、本品はほぼCで国産鉛を使っていると指し示している。
また、鉱山の鉛の同位体比から推定すれば、北海道南東部,青森西部の鉛に近い数値であり、下北半島産ではないのでは?としている。
また、引用部にある発泡痕は製錬や溶融段階で内部に残存した「硫黄」の為とも考えられ、銅の原料が「硫化銅鉱」が考えられるとある。
あまり製錬精度は良くないのか?
さて、ここまでなら「へー」で済んでしまいそうだが、著者達は頭を抱え込む事になっている。
理由は技術史。
我が国で銅製錬が始まったとされるのは早くて6世紀後半〜7世紀とされる。
弥生期に国内で銅製錬が行われているハズがない…ここだ。
年代がそれよりかなり遡ってしまう事になる。
本書では、国産鉛を使用している事から、弥生期のものではなく混入したものとしか言えない訳だ。
青森県内の銅製品の最古の事例は、七戸の「森ヶ丘遺跡 12号墓」の小銅片で続縄文の北大式期に当る。
又、恵山文化に伴う鉄器らから、弥生中期位には北東北に工具として金属製品が実用品として一定程度普及したのでは?という可能性を指摘する研究者もいる様だ。
今のところ、同書の考察としても後代のものとして何時混入されたか?も現状では特定困難で、追求もここまで…と、いうところか。
二枚橋期の土器には、佐渡の管玉らや北海道の黒曜石製石偶が入り込み、土器が北海道〜北東北まで分布され、大間貝塚では弥生全般でもかなり古手の鉄来が検出するし、対岸の恵山貝塚も然りだろう。
これらは慎重に扱い、正しい解釈や立証が必要になってくる。
技術史はある意味絶対的。
火のない所に煙は立たないし、燃え上がれば殆ど言い切れる。
さて、どうだろう?
勿論、時期的な整合は必要だが…
上記二題を見る限り、これはなんだろう?と思わせられる事ばかり。
ただ、西日本の動きとは別に、北,東日本独自に大陸との行き来があったとすれば?
工人が少数なりに流入し、技術的な下地を持っていたなら…朝廷の北上と共に技術伝搬したと同時に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/30/201841
東北人が、こんな製鉄プラントを運用出来たのも納得だし、大陸でも西日本でも使わなかった砂鉄を原料とした製鉄技術を生み出す事が出来たのも、朧気ながら納得は出来る。
但し、青銅器らの検出そのものが北海道〜東北では数が限られる為、日常的に行われていたか?は甚だ疑問だが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204
竈にしてもそうだ。
独自進化とはならなかったが、原型と思われるものは萌芽していた。
なんでもかんでも北上した訳ではなく、南下した技術と融合させ日本型を作り込んでいったのではないか?とも考えられないだろうか?
こんな事例が増えてくれば面白い。
色々な仮説が出て、本当はどうなのかが立証されてくる事を期待する。
縄文から矛盾のない「日本通史」を知りたい。
参考文献:
「立川町史 上巻」 立川町 平成12.3.15
「二枚橋(1)遺跡出土青銅塊についての考察」 根岸/齋藤/森田 『青森県考古学 第27号』 青森県考古学会 平成31.3.31