https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/11/063157
さてこの「平地+煙道無し竈」を検出した「黒井峯遺跡」に続けて、同時代の遺跡を報告しよう。
今度は、「東日本最古級」の青銅や鉄を精錬した痕跡を持つ遺跡になる。
「三ツ寺Ⅰ遺跡」…
「日本の古代遺跡を掘る4 黒井峯遺跡−日本のポンペイ」では「三ツ寺居館跡」とも表現されている、周辺村落を率い開拓を行い、前方後円墳に眠っていたであろう豪族の居館跡。
概略を説明しよう。
時期は5世紀攪拌〜6世紀初期、榛名山南東麓を治めた豪族の館と考えられる。
井野川支流の猿府川の一部を堰き止める様に作られ、約86m四方の正方形の館跡は石垣で補強され周りは全て水堀と化している。
内部は3重の柵列で囲まれ、北西,南東方向にある橋で外部と繋がれる。
豪族の館(正殿)、石を敷き詰めた祭祀場(水を掘りから引き入れた)、従者の住まいや倉庫群らが立ち並ぶ。
とても古墳期のものとは考え難い。
むしろ中世の「平城」と行っても騙されそうな様相。
発掘で4期の変遷があり、
・築造
→小改築
→大改築(最盛期)
→衰退
→居舘廃絶
で、6世紀初頭の渋川テフラで衰退を開始し、二度めの伊香保テフラで廃絶されている。
ただ、居舘廃絶後も館跡に対する祭祀行為は形態を換えつつ何故か9世紀前半まで継続されていて、堀や井戸跡へ土師器や須恵器、墨書土器らが投棄された形跡があり、それが途切れた頃から居舘跡内らに新集落らが進出する様だ。
検出遺構としては井戸や竪穴住居ら。
遺物も、建設中の地鎮らが施されたと考えられる「子持ち勾玉」や土器,須恵器、金属器、大量の木器と、実生活を垣間見せる物が多い。
居舘周囲は、本居舘造営同様に川の利用が見られる用水路を擁した水田や畠を持つ集落跡や前項の様に山の開拓に伴う集落跡が締めており、山間部への古墳群造営らも含めて、如何に繁栄していたかを窺える。
また、フイゴ羽口,坩堝とさせる物が出土し、青銅器や鉄器の精錬らを行い豪族の刀や鏡を作る工房があったと考えられる。
我々が着目したのはこの「金属精錬や加工の工房」。
これがこの発掘段階での「東日本最古級」の精錬,加工工房だろうからだ。
では、この工房はどんなものなのか?
これを発掘調査報告書から見てみよう。
これは、上記の変遷の内、築造〜大改築の時期に存在した竪穴住居で、北西の川への張り出し部分に意図して建てられた様だ。
では、基本層序から…
1.館の台状部
Ⅰ層…暗褐色、浅間A軽石を含む耕作土で30cm
Ⅱ層…暗褐色土、浅間A,B軽石を含む
Ⅲ層…盛土層で、地山のシルト質土,ローム,黒色土ら4種以上が混ざり1m程度
Ⅳ層…黒色土で浅間C軽石を含む、10cm
Ⅴ層…黒色土でローム混入、10cm
Ⅵ層…ロー厶漸移層で褐色ローム混入、10cm
Ⅶ層…ローム層で黄褐色、15cm
Ⅷ層…シルト質土
2.濠部
1層…表土層 で暗褐色〜灰色、浅間A,B軽石を含む近世水田耕作土30cm~1m
2層…浅間B軽石で15~20cm
3層…黒褐色~暗褐色土で、小砂礫らを含み50~80cm、上部10cmは耕作土含む
4層…二ッ岳FP土石流で、径1~5cmの軽石,砂礫含む
5層…二ッ岳FAで厚さ50~80cm
6層…黒色泥土で30~50cmで、木製品を始めとする遺物包含層
以上で、浅間B,C軽石と二ッ岳FAが比較的綺麗に出ていて、編年指標として有効。
では、この工房跡と見られる竪穴住居と金属器らに関わる部分に特化して報告する。
これが5号住居跡。
西濠へ突き出た「西辺第1張出部」の上面にある。
特徴は東側に2基の竈があり、古い竈を廃絶し作り直した形跡がある。
この住居内からは青銅精錬用の羽口一点と砥石一点が出土している。
同時に「西辺第1張出部」だが、この張出の南側は石垣が崩落しているが、その中段からやはり青銅精錬に使ったと見られるフイゴの羽口5点と坩堝3点が出土している。
つまり、この5号住居が青銅精錬らを行った「工房跡」の可能性が高いであろうとしている。
また、南濠に突き出た「南辺第1張出部」の西側の石垣崩落部分に鉄精錬に用いた羽口が10点出土、鉄滓が少量出土している。
張出上面の遺構は不明だが、この張出部に鉄精錬に関連した工房跡があった可能性が高いとする。
興味深いのは各濠の遺物の傾向で、
南濠…
儀礼的な物が少ない
西濠…
土器より木製品や植物種子らが目立ち、それは張出部の辺や基部に集中、モモ,オニグルミやクリらが200点程度出土し、猪や鹿骨もある。
北濠…
取水していたと考えられる。
この取水部付近から大量の土器や木製品が出土。
ここが、9世紀迄儀礼が続いた場所である。
東濠…
トレンチ調査のみ、殆ど未調査。
遺物傾向は不明で、北西同様の渡橋らがあるものと思われる。
この様に出土傾向が微妙に違い、行ったと思われる儀礼も違いがある様だ。
また、居舘の主は、居舘内部構造らの性質から考慮し政治的な役割の他に祭祀を司る役割もしていた様だ。
水辺や石を敷き詰めた祭祀場らがその根拠。
政治と宗教を押さえた統治者だった可能性がある。
鉄滓や羽口が基部から出た「南辺第1張出部」上面や他の上面は、後の耕作らで平滑された所も多い。
それで遺構が残っていない部分は多い。
非常に残念だが、製鉄遺構は難しかったのだろう。
上毛野域での製鉄遺構検出は、それまで7世紀だったが、これだけでも100~200年位遡らせた可能性がある。
さて、上記に羽口について「銅精錬」「鉄製錬」とわざわざ分けて書いてある。
何故そんな事が言えるのか?
この辺が科学の力。
①羽口,坩堝の遺物から少量の資料を剥ぎ取り、四種の酸化物に溶出させ鉄,銅,カルシウムの比率測定を行う
②青銅が付着していると特定された資料の鉛同位体を測定し、
国産か別の国か判別
銅-スズ-鉛比率で時期特定
③鉄滓と考えられる資料のXRFによる元素毎比率分析
らを行っている。
銅…
坩堝で溶融し、China三国時代以降の南系青銅器を鋳直した可能性あり、時代的に5世紀後半〜6世紀前半と矛盾なし
鉄…
TiO2が少なく、Fe2O3が多い特徴で、その比率から鉄鉱石から精錬した可能性を想定している。
但し、銅を処理したと明確に解る遺構、鉄製錬遺構が検出出来なかったので、この段階では可能性を想定で判断を留めている。
が、少なくとも羽口,坩堝への付着が検出出来ている事から、何らかの加工処理を既に施す事が出来たのは間違いない。
検討では「保渡田三古墳」との関連性を指摘しており、同古墳の遺物との成分比較らが調査報告時の今後の検討が記載される。
ここまでが記載への報告。
さて、残念ながら遺構としての検出はムリだった様で、この文献の段階では推定の域。
どの工程迄出来たか?どんな技術を使ったか?迄の解明には至る事は難しかった模様。
但し、関東の有力豪族が「自らの居舘」の中に工房を持ち、金属器を処理するに至っていたのは事実だろう。
また、製鉄についても、上部平滑で掻き取られた→地下や半地下らの「竪型炉」の様なものではなく、地上炉だったのでは?…などという考察もあり得るのではないだろうか?
鉄製錬迄やっていたなら、「箱型炉の様なもの」に近くなりそうな…
まだ発見に至ってないようだが明確に朝廷直属施設である「上野国府」が設置される以前から、既に有力豪族は工人衆を招き作業させられる程の力を持っていたのだろう。
勿論、この豪族は朝廷とかなり関係が深かった事は発掘調査報告書にも記載ある。
まぁ少しずつ、他の事例らも探していこうではないか。
参考文献:
「日本の古代遺跡を掘る4 黒井峯遺跡−日本のポンペイ」 石井克己/梅沢重昭 読売新聞社 1994.10.25
「古代東国の王者 −三ツ寺居館とその時代−」 群馬県埋蔵文化財調査事業団/群馬県立博物館/群馬県教育委員会 昭和63.10.8
「三ツ寺Ⅰ遺跡 −上越新幹線関係文化財発掘調査報告書第8集−」 群馬県埋蔵文化財発掘調査事業団 昭和63.3.30