https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/15/193659
さて、古い方の製鉄炉について、もっと遡ってみよう。
前項、黒井峯遺跡や三ツ寺Ⅰ遺跡の資料を集めていた時に、たまたまSNSにあがった(当時フォローしておらず)ツイートがこちら。
https://twitter.com/ikikokumuseum/status/1611622575024766977?t=5A2GHz_xW0zlIIuzJa1-XQ&s=19
一支国博物館様のツイート、弥生期の「地上式周堤付炉」について。
古代製鉄炉について触れ始めた所、これは!となって当然。
とは言え、食い付いたのには理由もある。
時代背景や位置的内容が全くかけ離れるのだが…
これが八戸の「根城」の鍛冶炉の再現品。
ここ、根城に至る迄、長い月日で進化していたであろうから、単に似ていると言うだけではあるが、ここは我が国最古級且つ周堤を持つ地上炉とは如何なるものか?学んでみようではないか。
この遺跡は「カラカミ遺跡」。
壱岐には弥生期の遺跡が数多く残されるが、最も有名なのは「原の辻遺跡」で環濠を施す弥生期の集落。研究では「魏志倭人伝」に記載される「一支国」に比定された地で、多量の弥生土器や貴重且つ大量の青銅器が出土。
「カラカミ遺跡」はこの「原の辻遺跡」に継ぐ様な規模の様だ。
とはいえ、筆者は弥生期についてはあまり触れていないし、よく解らない。
理由は至極簡単。
秋田県内には弥生期の遺跡が極薄いし、北緯40度線を越えれば続縄文の色が濃い。
「地蔵田遺跡」位しか直接見てはいない。
不思議と弥生の色は秋田側より岩手側が強い様に感じる。
と、言う訳で、今回はこの「製鉄炉」に特化して報告をする。
カラカミ遺跡の研究の概要は…
・1929(大正15)年頃…発見
・1938(昭和13)年…小川貝塚として調査
・1952(昭和27)年…東亜考古学会が発掘調査
・1977(昭和52)年…九州大学が継続的に発掘調査
・1982(昭和57)年~継続中…勝本町(後に壱岐市)による調査開始
・2004(平成16)年~2008(平成20)…九州大学による東亜考古学会発掘地付近再調査
で、今に至る。
この地上式炉跡は、継続中の勝本町による2013(平成25)年の集落実調査による発掘で検出される。
長い研究の積み重ねだが、実は製鉄炉や鍛冶炉の検出は予言されていた様だ。
1954年の東亜考古学会調査段階で石のスクレーパーだけでなく小型の鉄の鎌やヤスと思われる物の出土や、2004年からの九州大学の再調査の竪穴住居内の鉄製品,鉄滓の他、石組炉、鉄器生産に使ったとも思える砥石,敲石,凹石,台石らの充実で可能性が指摘されていた模様。
この調査では、1952年調査に隣接した地域(カラカミ神社南東)から遺跡の広がりを確認する意図で調査に至り、特に土器らが見られた撹乱坑と思われる物が見つかった為に、拡張調査区を設け行われた場所でこの遺構が発見された。
ここで検出された「炉跡」は二種類。
①一次検出面の「地上式炉跡」と「石組炉」
一次検出面は、かつてあった大型竪穴住居が埋没したところで、更にそれを整地して構築されている模様。
粘土質の面に赤く変色した径約80cm焼土跡が放射状に広がる部分と、半円形の石組が残る焼土跡である。
「地上炉」は土で構築された立ち上がり部分(高さ10cm程度)が一部残る。
「石組炉」は中央部に脚部が破損した「土製支脚」がそのまま残されるが、それ以外の遺物は無い。
②竪穴住居床面の「地上炉炉跡」
竪穴住居の床面に1基検出。
やはり立ち上がり部が一部残される。
竪穴住居廃絶時に、炉体の多くは壊したものと思われる。
住居跡内の遺物は、弥生土器の瓷や壺、砥石、石製支脚(クド石)、敲石及び凹石。
また近辺から棒状鉄器、板状鉄器、銅鏃らも出土する。
これら遺構が使われた時期は、それまでの調査や土器編年(包含層に土師器検出)らから、
竪穴住居は弥生中期後葉に建築→廃絶,埋没→整地再利用→弥生後期後葉迄使用→集落は古墳期初頭迄存続
と、考えられるとの事。
この遺構から、
竪穴住居内で鍛冶作業…
九州大学の検出遺構から、
竪穴住居内と野外での鍛冶作業…
と、変遷したのではないかと見られるとの事。
さて、何らかの鉄器生産をしていた可能性は高いと考えられているが、では、どの工程迄出来ていたのか?
この発掘調査結果の段階では、ハッキリ解ってはいない。
炉体はある。
道具(石製品)もある。
未完成品もある。
僅かながら別地点でも鉄滓も。
だが、まだ明確に製鉄までやっていたか?迄の結論へは至らず。
少なくとも鍛冶は行われ、当時の最先端技術を持った集団が暮らしていたのは確かなのだろう。
で、現状は?
この発掘でも実は「楽浪系瓦質土器」ら大陸や朝鮮半島との繋がりを示唆する遺物が検出されている。
では、先のツイートに戻ろう。
「カラカミでは製鉄を行っていた。
その根拠のひとつが「地上式周堤付炉」
国内では地下式の炉しかなかった時代、この地上式炉は鉄を加工するのに適した炉で、韓半島のヌクト島でも同じ炉が見つかっている。」
と、言う訳だ。
同系統の製鉄炉がヌクト島に検出されており、製鉄も行っただろう…これが、現状での見解…という訳だ。
本州では地下式炉で行われた製鉄を、ここ壱岐では地上式周堤炉で行ったとしている。
で、フイゴを設置すれば「根城の周堤付き鍛冶炉」そっくりだよな…に、至った訳だ。
正直言えば、鍛冶炉も根城以外では見てはいない。
概ねフイゴの羽口と鉄滓、加工途中のもので、遺構そのものはなかなか見ていないのが現状。
中世迄は「野鍛冶」が主で、専用工房らでの活動は限定的になるかも知れないが。
如何だろうか?
思いつきで集めた故に、文献が連続で全て集められた訳ではないので、敢えて製鉄関連遺構に限定した。
北海道~東北の製鉄技術伝播から始まったこの学び…
平安の福島,新潟迄南下して、関東最古級と壱岐の我が国最古級まで時代を遡ってみた。
古い方、南の方がどうだったか?をもう少し学んでみようではないか。
そうすれば、どんな風に技術が北上したのか解って来るだろう。
それが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915
何故、竪型炉なのか?
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
奥尻島「青苗遺跡」の製鉄炉は箱型炉なのか?誰が作ったのか?…へ至る通過点となろう。
ただ…
上記迄で気になる事に気が付いたであろうか?
敲石や凹石…
本項では「製鉄や鍛冶」の道具。
鉱山関連では「鉱石を砕く」道具、これは近世東北でも使われていた。
なら、北海道の「擦文文化期の遺跡」の敲石や凹石は何に使ったのだ?
何故か、不自然に「在る」のだ。
まさか縄文さながらに、胡桃や栃の実を砕く…にはならない。
もはや穀物を食べていた。
以前からの疑問が増幅されていく…
まぁ、少しずつ…より深く、より古く。
参考文献:
「天手長男神社遺跡 市史跡カラカミ遺跡2次」 長崎県壱岐市教育委員会 2014.3.31
「壱岐カラカミ遺跡Ⅰ -カラカミ遺跡東亜考古学会第2地点の発掘調査-」 宮本一夫 2008.3.31
「壱岐カラカミ遺跡Ⅱ -カラカミ遺跡東亜考古学会第1地点の発掘調査-」 宮本一夫 2009.3.31
「カラカミ遺跡(第3集)」 勝本町教育委員会 昭和60.3.31