東北で「鍛冶」が始まったのは?…最新刊でアップデート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/23/224613

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

製鉄や鉄器製造に関してまた学んでいこう。

文献は新しいものもあれば古い物もあるので最新刊でのアップデートは必要。

このブログでも登場する「季刊考古学」の最新刊が「鉄の考古学・最新研究の動向」と言う事だったので記事を取り上げてみよう。

まずはおさらいを含め。

「東北地方における古墳時代の鍛冶関連遺跡・遺構」、この著者の能登谷宣康氏は、東北の鉄の歴史は3段階に分かれるとの事。

先に紹介した 「古・岩手のクロガネ」 資料集と整合しながら…

・第Ⅰ段階

製鉄も鉄器製作も行わず、鉄器そのものを他地域から搬入する…

交易なりで現物入手する事になる。

・第Ⅱ段階

鉄の素材を他地域から搬入して、鉄器の生産を行う…

図でいけば、

紫枠(銑鉄を搬入し鋳物を作る)

緑枠(銑鉄を搬入し鋼を作る)

青枠(鋼を搬入又は作った鋼から鍛冶加工する)

この段階。

緑枠の「精錬」作業は大鍛冶とも言われ、ここからワンランク上の高熱を要し、坩堝に入れて熱するので、坩堝の底に沿った「椀型滓」が検出されたりする。

・第Ⅲ段階

鉄鉱石や砂鉄を製錬し「製鉄」をし、銑鉄や鋼を「製錬」する。

赤枠の部分になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

ここで言う箱型炉や竪型炉は、この製鉄炉の事。

最も高温が必要なので、熱を操る技術と考えれば一番高度になるんだろう。

当然、これら段階はⅠ→Ⅱ→Ⅲの順番で伝搬する。

ここに添付したブログは、第Ⅲ段階の話で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/30/201841

7世紀頃の南相馬の製鉄遺跡群から北上していると言う事。

ここで、その前の第Ⅰ,Ⅱ段階の現状最新の解説が、この本著になる。

 

①鍛冶関連遺構とは?

著者の能登谷氏によれば、関連する遺構は、

・作業場(工房)

・鍛冶炉

・フイゴ座

・ピット(土坑)

・廃滓場              ら、

遺物としては、

・鍛冶滓

・椀型滓

・鍛造剥片(鍛冶で鋼を鍛造時の滓)

・木炭

・金床石

・フイゴの羽口

・金鉗(かなばさみ,やっとこ)

・鉄の素材や半成品

・砥石

等となる。

ここで、工房からの鍛冶炉らの直接検出は難しい模様。

仮に地上炉で廃絶され検出しない場合でも、炉跡や遺物らである程度判断が付く場合もある。

例えば、焼土跡があり、周囲から鉄滓や羽口片が揃い、土坑に木炭、鍛冶で打った痕跡があれば、概ね工房だと推測可能だろう。

 

さてでは、どんな遺跡が?

○第Ⅰ段階

弥生期の鉄器のみ出土した遺跡は五箇所。

上記地図を見る限り、筆者的には一箇所除き海沿いが多い気がするが。

特徴的なのは下北半島先端の大間貝塚。弥生前期で既に下北半島北端に鉄器が伝搬している様だ。

○第Ⅱ段階

・古墳前期…三箇所

・古墳中期…一四箇所

・古墳後期…七箇所

・古墳末期…二箇所

古墳前期、概ね4世紀には福島県域で鍛冶による鉄器生産を開始したと考えられ、そこから宮城,山形,岩手へ伝搬し、末期の「郡山遺跡」に至れば7世紀に国府多賀城に先行して造営された官衙で、官営工房ではないかと推測されている。

筆者の印象として、想像より早く鍛冶を開始している感。

 

著者のまとめとして…

①鍛冶関連遺跡は集落跡が多数を占め、他に居館,古墳(金鉗らの副葬含む)等,官衙跡が挙げられる。

②工房は竪穴建物や竪穴住居廃絶後の窪みを利用して作られてる。

竪穴住居跡は、中期前半迄は地炉跡、それ以降は「竈」跡の検出検出を見るそうだ。

ここで「竈」登場。

工房は居住空間でもある様なので、この時期から竪穴住居の「竈」が北上していくのだろう。

これら工房跡の竪穴建物らも末期に向かい大型化していく様だ。

③鍛冶炉は平面として「円形又は楕円形」、床を掘り込み粘土で貼ったものと床面そのものを使う場合があるが、前者はその耐熱性から「精錬炉(大鍛冶)」、後者が「鍛錬鍛冶炉(小鍛冶)」と考えるそうだ。

④フイゴの羽口は当初専用→中期前半以降に土師器高坏の脚部を転用した物が登場、以後専用の物へと現状変遷が見られるとの事。

⑤工房を作ったのは、居館遺構や古墳の副葬との関連性から、在地の豪族が関わり、素材の銑鉄らの入手や技術導入はその在地土豪畿内の中央勢力の豪族との繋がりから行われたと考えている模様。

古墳末期では、朝廷の官衙として相馬らの官営製鉄遺跡と連動する形で運営されたのだろう。

 

お気付きだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428

馬の伝搬が4世紀末頃、それと同時期か若干先行して鍛冶作業が北上している。

馬も、当初は王権による独占は出来ず、中央の有力豪族や関係の深い在地土豪へ分配された。

若干遅れ5世紀の半ば位から、馬具の形状統一がなされていくとある。

同時期又は若干の先行をしていた鍛冶工人らは、統一規格を提示されればそれに合わせて鉄製品を作り込める技術を獲得していた事になるんだろう。

竪穴住居の竈を含め、鍛冶,馬、そして製鉄技術と須恵器の技術がこんなタイミングで北上していった事になる。

あれ?と思う方もいるだろう。

中央勢力vs蝦夷(エミシ)の戦いは?…いや、生活が潤うのが必至の技術伝搬。

弥生の水田技術はそれより先行している。

敵対する必要があるのか?…無い。

後の大乱、陸奥の38年戦争も出羽の元慶の乱もいきなり喧嘩腰になった訳ではない。

前者は在地土豪間の確執やそれに対する朝廷の対応への不満から、後者は拡大する交易に対する生産量増加が冷害等天災らでバランスを崩す事と国司の対応の悪さから。

勿論、在地土豪と中央豪族の力関係はあるであろうが、お互いにそれなりに交流する中、技術伝搬で腹一杯食える様になるのが解っているのに、わざわざ拒否して戦う必然はないだろう。

古墳には在地土豪達の権威の品が副葬された。

中央との敵対を示す物があるであろうか?…恐らく現状ないだろう。

地域を集団を束ねる土豪は、当然として政治的判断を迫られる。

いきなり面子を潰されぬ限り、大人の選択をして当然。

 

さてでは、北海道は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

箱型炉?のある奥尻島「青苗遺跡」を除いて、取り上げた事があるこの遺跡から…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/18/110054

 

「顕微鏡による観察からは、つぎのようなことが推定される。

①この物質は、鉄の精練の際に生じたスラグであって、鉄器ではない。

②溶けかけたスラグが認められることから、この物質が生成した時の温度は1200度あるいはそれ以下と推定される。

マグネタイトは、空気中ではこのような低い温度では生成しないことから、一応還元的な雰囲気で処理したときに生じたものと思われる。

④しかし、マグネタイトよりもさらに酸素原子数の少ないウスタイトや金属鉄は認められられないので、還元的雰囲気は完全とはいえず、密閉性の悪い、比較的簡単な炉の中で生成したものであることが推定される。」

 

「サクシュコトニ川遺跡 −北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落−」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61.3.20. より引用…

 

擦文文化期の集落跡遺跡であるサクシュコトニ遺跡で精錬鍛冶(大鍛冶)には挑戦しているようだが、鉄滓を見る限りでは成功した様子は無い。

手持ちの発掘調査報告書でも幾つか羽口や鉄滓と思われるものが検出したものはあるが、この辺は最新の報告や論文の確認の必要はあるだろう。

だが、擦文文化期でも製鉄炉跡の検出が無く、精錬鍛冶(大鍛冶)も温度不足や密閉性不足で還元出来ない様子は覗える。

現状は、

・良くて精錬鍛冶(大鍛冶)まで

・悪くて鍛錬鍛冶(小鍛冶)まで

・鋳型検出はなく、鋳物はまだ

こんなところだろうか。

つまり第Ⅱ段階迄の伝搬となるだろう。

この辺は、前項らで述べているが、

・擦文文化形成の鍵となる蝦夷(エミシ)の移住段階で、北上したであろう集団に製鉄技術が伝搬していない…

・10世紀以降(元慶の乱以後)、津軽への製鉄技術伝搬段階で既に交易財として確立され、後の安倍,清原,藤原時代迄でその拡大がなされ、敢えて自ら作らずとも潤沢に入手可能となっていた…

ら、理由は想像可能。

と、言うか、擦文期の北海道の生活痕跡は、北東北…と、言うより東日本の生活痕跡と極近いのは知られた話だ。

考えて頂きたい。

これは、従前から言われている事で「擦文文化期→アイノ文化期の指標は、自らの自己生産を止めて本州からの移入品を使用する」ところから開始されると研究者達が言っているではないのか?

例えば「擦文土器の生産を終了→内耳鉄鍋,土鍋、漆器ら本州からの移入品に切り替え」…これが指標の一つとして、何時からこれが起こったのか?が、切り替わりの時期になる前提で研究が続けられている。

自ら、本州の経済圏へ入る事を選択しなければ、そんな現象が起こる訳が無いと思うが。

敢えて…

 

「遺物の記載部分をみてもわかるように、サクシュコトニ川遺跡出土の土器については、「土師器・土師質土器」という用語で説明されている。にもかかわらず「擦文時代あるいは擦文文化」という従来からの時代区分概念を検討せず踏襲したことを断っておきたい。北海道のこの時代のものは、本州の土師器を伴なう一般的な住居と同種の構造の住居を持ち、米以外の雑穀栽培がなされていたことも確認されている。たしかに、当時の政治組織からすれば、ここは化外の地であろう。しかし、物質文化の上からみれば、東日本の大部分の地域と「擦文文化」の間に、それ程の異質性を強調する理由が果たして存在するだろうか。本州東北部の文化の周辺として扱ってはいけないのであろうか。調査関係者の間でも、この問題に関しては意見が一致していないのである(たとえば、吉崎昌一岡田淳子:1984,pp80~105)。今後、広い視野からの検討が必要なのであろう。」

 

「サクシュコトニ川遺跡 −北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落−」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61.3.20. より引用…

 

まとめ部分の末尾、北海道の研究者自身の弁である。

 

さて、話を元に戻そう。

鍛冶関連遺跡の最新の解説はかなり簡単にしたがこの通り。

最新刊なので、入手は可能。

鉄関連技術が、海外からどのように伝搬したか?ら含めて記載ある。

最新の研究も含め、技術伝搬通史として学んでいこうと思う。

技術伝搬に嘘はつけない。

新規発掘でそれが覆る以外ない。

ただ、竈や馬もそうな様に、背景が決まれば似た時期に伝搬が複合的に起こっていくのは確かであろう。

事件でも無い限り、簡単に覆る事は考え難いのも確か。

 

まぁゆっくりじわじわ学んでいこうではないか。

 

 

 

 

 

参考文献:

2019年度岩手県立博物館テーマ展 「古・岩手のクロガネ」 資料集 岩手県立博物館 2019

 

「東北地方における古墳時代の鍛冶関連遺跡・遺構」 能登谷宣康  『季刊考古学  第162号』 雄山閣  2023.2.1

 

「サクシュコトニ川遺跡 −北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落−」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61.3.20