同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

「対岸の状況」という視点で、先に「野辺地町史」で周辺を学んだいる。

さて、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

出羽三山らを取り上げた。

なら同様に、秋田から見て鳥海山の裏側になる「庄内の歴史」を見てみよう。

それで、秋田とはまた様相が違う出羽國が見えるし、出羽三山信仰を少しでも理解しようとするなら周囲の歴史も必要になる。

何度か登場した「立川町史」から展開する。

 

事前に。

立川町…これ正確には「旧立川町」が現状は正しいのだろう。

北にあった「旧余目町」と合併し、現在は「庄内町」なっている。

北東は酒田市松山、東が最上郡戸沢村,大蔵村、南が西村山郡西川町、西が鶴岡市藤島,羽黒町と隣接する。

思い切り出羽三山に隣接する地域。

また、酒田市松山(旧松山町)と酒田市の堺辺りにあるが「国指定史跡  城輪柵」。

ここが出羽国司居たとされる「出羽国府」比定地…つまり「出羽柵」と考えられている。

「出羽柵」は比定地が幾つかあり、

当初は酒田市(最上川ら河口付近)→秋田城へ北上→(秋田城を残したまま)城輪柵へ…こんな風に移動したとする説がある。

これは多分、

多賀城(陸奥国司)…胆沢城(鎮守府将軍)に対し、出羽柵(出羽国司)…秋田城(秋田城介)という関係性を見ているからか?

清川地区から吹き下ろす「清川ダシ」で年中風が強く吹き、日本三大局池風の地とされ、早くから狩川地区で風力発電が行われている。

この辺にして、では本題へ。

 

・旧石器期…

この「立川町史」が発行された段階で、庄内地方には32箇所、旧立川町で3箇所の遺跡が見つかっている。

 

・縄文期…

旧石器期同様に6箇所の遺跡。

この地方は「北海道〜北東北縄文遺跡群(円筒土器文化圏)」ではなく、秋田県南部やお隣宮城県らと共通する「大木式土器」らを伴う土器文化を持つ。

秋田県南部は、それら土器の違いのグラデーション地域なのか、両方出土したりする。

で、特筆すべきはこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/07/112250

不思議二題の内の青龍刀の出土が、隣の隣は「遊佐町」。

実は大陸からと思われるものは、隣の鶴岡市羽黒町でも出土している。

それがこの羽黒町中川代遺跡の「刻文付有孔石斧」で、縄文中期位の土器と供出。

縄文期に、大陸との行き来を示唆させる貴重な遺物。

 

・弥生期

旧石器期ら同様に5箇所、この時点では弥生中期より古い物はないとしているが、近隣の遊佐町では炭化米らも出土、庄内地方一帯で弥生の痕跡は見られる。

この様に、庄内地方は旧石器〜弥生期には人が住み、それもかなり活発に行動している様が想起させられる。

 

・古墳期…

山形県としては内陸部の南陽市「稲荷森古墳」ら前方後円墳もある。

庄内地方では鶴岡市の石棺を持つ「菱津古墳」1基としているが、むしろ4~5世紀位の集落跡の検出があり、鶴岡市畠田遺跡らでは周坑を持つ住居らが発掘され、弥生迄同様に生活の場であった事が解っている。

この段階で旧立川町での検出は無い様だが、周囲の状況や古くから水田として利用された立地より、同様の傾向と推定している。

さて、国造…

残念ながら「国造本紀」らにあるのは、東北では福島県北部〜宮城県南部迄。

日本海側も山形以北は記載無い。

と、言う訳で、7世紀へ。

まずは647(大化3)年に渟足柵(新潟市付近?)、648(大化4)年に磐船柵(村上市?)の造営が記録され、次が「阿倍比羅夫」の登場である。

実は阿倍比羅夫の活動には山形での記述は無い様で、秋田,津軽,北海道へ飛んでいる。

だが、この時代に

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325

朝廷は、太平洋側では陸路からの面制圧、日本海側は海路からの点制圧で湊を押さえていったと考えらている。

山形は古墳中期位に内陸に前方後円墳検出しているので、どちらからも北上可能な位置でもあると筆者は考える。

集落の検出もあるし、南部の朝日連峰を越えれば磐船柵。

朝廷との特別な折衝が新潟〜山形で必要だったとも考え難い。

同書では「庄内地方は、少なくとも朝廷と対立する状態になかった」であろうと、記述がない理由を推定している。

むしろ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631

こちらが恐ろしい。

仮に「蜂子皇子」伝承が本当であった場合、593年に出羽三山へ到達し開山した事になる。

阿倍比羅夫と敵対する必要があるのか?…常套手段だが、宗教で地均しされていれば全く無いだろう。

この辺は、出羽三山史や信仰圏について別途学ぼうと考えているので、ここまで。

ただ、地理上、山形県陸奥国側との連動も考えられる事は頭に置いておきたい。

 

・奈良〜平安期…

まずは「続日本紀」の708(和銅元)年。

越後国言す。新たに出羽郡を建てんと。之を許す。」

まずは越国出羽郡として出羽の誕生。

現実、これに対して陸奥や越後で反乱が発生した様だが、東海〜関東,北陸から派兵らが行われ、709(和銅ニ)年7月の条で「諸国をして兵器を出羽柵に運搬せしむ」とあり、それ以前に磐船柵→出羽柵の北進があった事になる。

で、出羽郡成立の5年後、続日本紀712(和銅5)年に「ここに始めて出羽国を置く」。

この時に日本海側の一国一郡では小さいので、先に陸奥国編入されていた「最上・置賜二郡」を出羽国ヘ再編入する。

これで概ねの山形県出羽国となり、東北には陸奥国,出羽国成立、故に奥羽で陸奥と出羽二国を指す。

この後、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523

「出羽柵を秋田村高清水岡に遷し置く」とあり、最北の国衙、後の秋田城が設置、秋田も出羽国編入される。

この辺から、当ブログの読者の方が目にする秋田の歴史が始まる。

北海道ではこの前から擦文文化期が萌芽・開花していく…と、言う訳だ。

秋田以北の場合、

元慶の乱から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/202134

製鉄や須恵器の技術拡散に至り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

土豪の台頭と防御性環濠集落の時代に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

そして、安倍,清原氏、そして奥州藤原氏の時代へ…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

 

さて、庄内地方に戻る。

庄内は北海道〜北東北の様な歩みにはならない。

この後、887(仁和3)年、日本三代実録に、出羽柵移転についての記述がある。

これで南下させた出羽柵が、先に紹介した酒田市の「城輪柵」だと考えられている。

ここも、他の国衙同様に「コの字型」の政庁配置を持つ。

出土遺物では概ね9世紀前半〜11世紀前半迄と考えられ、概ねこの記述と合致している。

この城輪柵から北の遊佐町方面や南の鶴岡方面では集落跡が検出され、どうも竪穴→平地住居への変遷が10世紀位から起こり、平野部では平地住居が圧倒する様に変化している模様。

須恵器窯跡や小鍛冶を示すフイゴの羽口、斎串や墨書土器ら祭祀を現すものの検出ら。

特に竪穴→平地化は内陸地方より顕著で、出羽国衙を中心とした開発が進むだけでなく西方からの移入らもあったと推定される。

また余目町では製塩土器らの検出もあり、海岸部では小規模ながら製塩も営んでいた形跡が残る。

北東北との違いで特筆すべきは「荘園」が成立していた事。

秋田には「荘園」の記録がなく、11箇所全て山形にある。

寒河江・小田島荘→11世紀前半

成島・屋代荘→12世紀前半

その他→12世紀後半

の様だ。

この中で、旧立川町に関わるのが「大泉荘」と「海辺荘」

「大泉荘」は鶴岡方面で皇室御領、「海辺荘」が旧立川町を含む現庄内町方面の様だ。

「海辺荘」ははっきり誰の荘園か解っていないとあるが、後の「金沢文庫古文書」に大泉と海辺は一体として扱われた節があり、皇室御領の可能性を示唆している。

1191(建久2)年の「長講堂領目録」では、「大泉荘」は「後白河法皇」堂領とされ「砂金百両、御馬二疋、絹二百疋」らが年貢として収められ、それらは室町初期迄は記録上続いた様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

関連項で砂金場について説明した。

また、927年に書かれた「延喜式」では、式内社として鳥海山の「大物忌神社」「小物忌神社」、月山の「月山神社」が記録される。

ここで「月山神」は773年段階で古書記載が残り、山形最古の記録が残る神社となる。

因みに「大物忌神社」は837年が初見。

既に奈良~平安には両山共、信仰の山として成立し、9世紀前半には「大物忌神社」を官社とし月山神も合祀して祭祀が行われた記録がある。

式内社,式外社の叙位叙勲は9世紀、特に後半の貞観,元慶の時に集中し、秋田や岩手の蝦夷乱や鳥海山大噴火らに対応する為と推定される。

ついでに仏教は?。

685(持統天皇3)年の陸奥国蝦夷、脂利古の男、麻呂と鉄折が僧侶になる事を許可されたが古書記載の初見。

現物と古書が揃うのは「秋田城」に附帯した四天王寺出羽国の大地震で倒壊したと言うもので、「類聚国史」の830(天長)年の記載と秋田城発掘での伽藍と思われる遺構の合致…もうこうなれば確実な線。

ただ、考古学的には、村山市御所山(船形山)の山頂で金銅菩薩立像が出土、これが飛鳥期の百済からの渡来仏と考えられ、7世紀前半迄遡れそうだと…この辺の時代背景と出羽三山の蜂子皇子伝承が近いのが興味深い。

まぁ平安になれば国分寺定額寺設置や各地の廃寺跡遺跡の検出らで確実視される処。

鶴岡市藤島の中山廃寺(14世紀?)や最上川河口の勝楽寺遺跡(13世紀)と仏教痕跡を裏打ちしている。

この時代に、朝廷の北進や国衙,荘園設置や宗教の拡散があり、体制や価値観の変化が起こっていた事は想像に易しい。

 

・鎌倉期…

奥州合戦時、庄内は如何に?

源頼朝畠山重忠の本隊が陸奥側から北上。

比企能員,宇都宮実政らが越後から出羽へ北上、これに対して田川行文,秋田致文,由利維衡が念珠関付近で対峙したとされる。

この田川行文が、先の「大泉荘」周辺の有力土豪の様だが防衛線は破られ、結果は知っての通り。

また、その後の大河兼任の乱でも、大河兼任は出羽国府を落とし、先の「海辺荘」から多賀城を目指したとあるが、これが旧立川町の清川地区だろうとしている。

また、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/193257

藤原秀衡の妹「徳尼」と酒田三十六人衆の伝説はここで報告している。

同書では、伝説初見が江戸初期で定かではないとしている。

ただ、徳尼と三十六人衆は羽黒山に匿われて酒田へ抜けたとされる点に注目したい。

これは中世に羽黒修験が如何に強大な勢力を持っていたか?の裏打ちでもある様だ。

羽黒山関連の事例を二つ。

羽黒山領に手を出したら?

1209(承元3)年、鎌倉幕府から任命されていた地頭の大泉氏平に羽黒山領を横妨された折に、羽黒山衆徒から訴訟を起こされた。

実は羽黒山、初代将軍源頼朝から「地頭支配に属さず、地頭の山中追補権を停止する」御書が出されていた。

幕府裁定は?

大泉氏平の手出し口出し等関与禁止と横領しょうとした領土の返還。

②修行で諸国行脚の羽黒修験は?

これがエグい。

1297(永仁5)年に、羽黒修験の一人が悪さをしたとして上野国で捕縛され、鎌倉由比ガ浜で斬首される。

これに対し羽黒修験側は「諸国行脚の修験者に悪事非法あらば、捕縛後羽黒山へ遣わし、羽黒山で刑執行が作法」と抗議。

時の執権北条貞時の裁定は?

羽黒山の抗議を全面的に認め、刑執行者を処分し、羽黒修験の行動は寺社領,山中仕置に留まらず、諸国行脚の修行の身柄まで及ぼさせたとある(北条九代記)。

問題は、北条貞時と言う点。

元寇を退けた北条時宗の息子で、北条得宗家への権利集中が成された後、北条時宗の死により幼少で執権就任。

成長後は、幕府内の権力争いを力でねじ伏せた人物。

昨今、鎌倉幕府は、執権の権力と独裁色が強くなり過ぎ倒れたとも。

そんな執権だったのだが、羽黒修験側全面勝訴。

出羽三山は幕府直轄の祈祷所でもあるので、こんなエグい話もある。

中世の宗教勢力とはこの様なもので、ある種の治外法権を得ていた様だ。

徳尼と三十六人衆の話が史実と違うとしても、それは敵方とされた者でも羽黒山へ逃げ込めば権力者でも手が出し辛い事を表しているとも言える。

さて、では一般の状況は?

先に述べた様に、室町期迄は荘園が存続している。

大河兼任の乱後には基本的に奥羽は「謀反人跡」となり、鎌倉殿の権限に於いて味方は安堵、謀反人は領土取り上げで鎌倉から派遣された地頭が置かれた。

この内、大泉荘を受領したのが、藤原北家の流れを組む「武藤氏」の武藤資頼

この弟氏平が、大泉荘の地頭職を譲り受けて入り、「大泉氏」を名乗る。

地頭職は、荘園内の管理らと、荘園主への年貢課役の送付らが主な任務。

一部の取分と課役を得るだけだったが、徐々に勢力を上げ横領らを行う様になった為に、羽黒山と揉め事をおかした様で。

後に、大泉氏は拠点を大宝寺に本拠を置き「大宝寺氏」を名乗る様になってくる。

鎌倉期では1229~1230年と1256~1258年で最低2度の大飢饉が発生している様だ。

餓死だけではなく、治安悪化も問題になった記録が残る。

東北型の冷害だった様だ。

荘園らはその後、北条得宗家の権力集中と共に得宗家領が増え、鎌倉末期頃には大泉荘(大泉氏)、海辺荘東部(結城氏)、海辺荘西部(安保氏)共にほぼ得宗家領化した上で()内の三氏が地頭又は地頭代官として実務に当たっていた模様。

 

南北朝

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

陸奥将軍府北畠顕家と共に出羽国司として派遣された「葉室光顕」だが、後に斬首される。

興味深いのは、葉室光顕が出羽国司兼秋田城介で何処に居たのかさえはっきり記されて居ない点。

秋田県史や安東氏関連では、秋田城付近と見ているが、同書では出羽国府があった庄内と見ている事。

これが地方史書の面白い処でもある。

秋田→北朝に付き南下した安東(藤)氏では?(後の湊安東氏)

庄内→北朝に付いた大宝寺大泉氏や余目安保氏では? 

居場所により、葉室光顕を斬首した者が変ってくる訳だ。

ただ、どうだろう?

北畠顕家の弟である北畠顕信は、北畠顕家が討たれた後に南朝方として大物忌・月山両神社(鳥海山)へ所領寄進したり藤島城へ入ったりしている。

それらが庄内で出来たのか?…ペンディング

最終的に藤島城の陥落らから、北朝方が優勢となり、出羽按察使として斯波兼頼(後の最上氏)が山形入部、周辺はほぼ北朝方に固まっていく。

また、南朝方に付いた結城氏の所領は飛び地であった為に、経過は不明だが徐々に大泉氏や安保氏の支配下になったと考えている様だ。

 

・室町~戦国期…

北朝方の大宝寺氏や安保氏は、南北朝の争乱後、比較的平穏に領土確保出来た様だが、徐々に鎌倉公方の圧力が高まり、関東や奥羽の守護達との軋轢が高まる。

大泉氏はこの時に他の守護らと共に、京の将軍と結び付きを強める。

はっきりした確証は無いようだが、京都扶持衆またはそれに近い立場であり、永享の乱鎌倉公方の奥羽支配が終焉した後に大泉淳氏の代で上洛し、出羽守を拝した様だ。

そして、大宝寺氏を名乗りだす。

ここで…

鎌倉~南北朝から荘園への干渉や新田開発により、土着の国人,土豪らの力が少しづつ上がるのが見えてくる。

在家として寺社の旦那をやる者が記録として出てくるからだ。

応仁の乱の頃から、それら国人衆,土豪らを家臣団として組織化し、徐々に戦国大名化していった為に大宝寺(大泉)氏は上洛らが出来たのかも知れない。

この時代の守護大名の関係は、縦型社会と言うよりは横型社会に近い印象を筆者は持っている。

守護大名、後の戦国大名の仕事の一つは、国人衆間の領地争いの仲裁と判決。

それが気に入らなければ踵を返し、隣の大名へ鞍替えするなんて話はよくある事。

時として、国人衆の中から勢力を上げ、家臣団の中で格を上げて行く者が現れる。

酷い場合は下剋上

応仁の乱で幕府の統制力が弱まれば、必然的に地域での力関係がものを言ってくる。

力を上げた大宝寺氏は、旧南朝方の藤島,平賀氏を討つ。

そんな中で、最上川北の「砂越氏」が惣領家である大宝寺氏内で勢力を上げ、大宝寺氏と覇権争いを始める。 

砂越氏もまた、幕府に直接アクセスし始める。

この後砂越氏と大宝寺氏は最上川を挟み、「永正の乱」「天文の乱」で二度直接衝突をする。

大宝寺氏家老の藤島の「土佐林氏」らを攻め、大宝寺氏支援に回った余目の「安保氏」を討ち、一時大宝寺氏を東側へ追いやる。

この争乱の遠因は、隣越後国での守護「上杉氏」と守護代「長尾氏」の抗争ではないかとする指摘もある様で。

大宝寺氏は上杉氏へ支援を求め、砂越氏は支援を求めず。

上杉氏は使者を砂越氏へ派遣し仲裁、停戦する。

ここで、大宝寺氏は上杉氏との関係を深めていく。

上杉家中の本庄氏が、「伊達氏」側の「中条氏」に攻められた折に本庄氏を支援している様だ。

伊達氏の状況は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

こちらに。

上杉の嫡子問題に伊達が干渉した為とされる。

後、守護である上杉定実は出家し、幕府裁定で上杉謙信(長尾景虎)が守護を代行する事に。

戦国乱世の影響をモロに受ける事になってくる。

実は、上杉謙信武田信玄との川中島合戦の折に、大宝寺氏家老の土佐林能登入道へ状況を知らせる文を送っている模様。

が、上杉謙信と家老土佐林との関係を余所に、大宝寺氏は武田信玄からの工作で、伊達稙宗,芦名盛氏,本庄繁長らと上杉謙信攻撃を画策。

これが上杉謙信にバレて、本庄氏は直江氏を仲介に和議。

これで、大宝寺氏と土佐林氏の関係も悪化し、大宝寺家臣団が内部分裂を起こす。

和議したとはいえ、大宝寺氏は武田氏や伊達氏らに通じ、土佐林氏は上杉氏一択、砂越氏は上杉氏とも繋がりがあるものの周囲の国人衆は「最上義光」と通じる者が多かった様で。

大宝寺氏を中心に砂越,土佐林氏が国人衆を取りまとめる緩やかな連合として収まるが、三氏お互いに疑心暗鬼ではある感じか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505

この辺の書状に砂越氏の名前が残り、独自に諸大名とのやり取りをしていた事は伺う事が出来る。

1571(元亀2)年に土佐林氏は大宝寺氏へ反旗を翻すも、返り討ちにあう。

土佐林氏の元で敗走した者は、上杉方の本庄氏へ取り込まれる事に。

ここで一つ問題。

土佐林氏は往古より出羽修験寺の別当も兼ねていた。

その別当職を奪いとる。

この翌年に武田信玄上杉謙信が没、本能寺の変織田信長も自害、最上氏も嫡子問題で最上義光と父義守,伊達輝宗と抗争激化…混迷を深める。

大宝寺氏の大宝寺義氏も、最上氏の問題へ伊達輝宗と共に干渉し、反最上義光派へ徹底抗戦を煽った書状が残る。

最上義光が抵抗派を押さえ、最上地域の鮭延城の「鮭延秀綱」を攻略し傘下に治めたところで、それに対抗した大宝寺義氏は、最上地域へ進攻する。

この直後、大宝寺義氏は何故か秋田の由利,矢島方面への出撃も行う。

つまり、東と北への2面作戦。

東は最上義光の逆襲に合う。

北は先に「由利十二党」と通じたが、察知した「安東愛季」に先手を取られ、由利攻略を許す事に。

大宝寺義氏にすれば、庄内,最上地域だけではなく、赤宇曽(現由利本荘市岩城町)の湊までを支配下に置こうとしていた様だ。

これら北進も、安東愛季と小野寺景道(大宝寺義氏と血縁あり)、小野寺景道と最上義光ら、周囲の状況が影響したとは思われる。

が、2面作戦は失敗、激戦を戦った国人衆は、領地加増らの恩賞を出す事は出来ず不満を募らせる事に。

典型的な外重内軽タイプ。

現実的には大宝寺義氏は30人位の国人衆連合体で、かなり基盤は脆弱だった模様。

不満を持った「前森蔵人」は最上義光と通じ謀反を起こして大宝寺義氏は横死する。

が、これで庄内国人衆はバラバラになり、自己の存続,強化の為に外部勢力に頼る事になる。

一方は越後の上杉景勝、もう一方は最上義光と分裂。

ここで最上義光は最上地域経由で庄内へ進攻、ほぼ掌握。

最上方の「東禅寺筑前」による庄内支配となる。

が、ここで話は終わらない。

上杉景勝配下、村山市の「本庄繁長」が、上杉派を取り込み北進。

庄内攻略を成功させる。

が、このタイミングが微妙なのだ。

豊臣秀吉の私闘禁止令が出ていた。

最上義光徳川家康を通じ、これに触れる事を訴上。

上杉景勝は本庄繁長を庄内へ置き、既成事実を作りつつ秀吉へ工作、本庄軍へ参加していた「大宝寺義勝(大宝寺義氏の子義興の婿で本庄繁長の子)」を庄内進攻の大義名分として秀吉の元に送り謁見させる。

ここでTheEnd

秀吉は大宝寺義勝と上杉景勝を和睦させ、本庄繁長は蟄居となるが、庄内は上杉領となる。

かなり目まぐるしい。

簡単に言えば…

地頭から身を起こした大宝寺氏は、国人衆を束ねて戦国大名化はしたものの、周囲の強敵に対峙するための外征重視政策から内部掌握に失敗し、最上義光上杉景勝の元に飲み込まれた…か。

 

・江戸期…

さて、この庄内を巡る最上氏と上杉氏の攻防は、戦国~織豊期で終結した訳ではない。

越後から米沢へ国替した上杉景勝は、庄内の押さえを直江兼続に支持する。

直江兼続は、最上に通じた者を粛清。

この一つが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

羽黒修験の別当,学頭,長吏ら。

先に最上義光との関係で大宝寺氏と血縁ある別当らは相馬の日光院に逃れ、最上縁の別当が据えられたが、それらを一掃。

直江兼続による検地らが行われる。

これに伴い狩川では検地反対の一揆も起こるが「撫斬令」で鎮圧。

同時に、関連項にある立谷沢川の「瀬場」の砂金増産らを行うら十一箇条の「田川・櫛引両郡の法度」と知行割を実施する。

又、伏見城普請の為の材木を秋田(安東)実季の桧山から運ぶ為に、酒田経由の配慮指示らを出す。

やっと直江兼続により落ち着くか?

いや…落ち着く前に豊臣秀吉が没。

ここで「北の関ヶ原」の勃発。

徳川家康の上洛令に従わなかった上杉景勝

問題が発生する。

庄内の地は、米沢の上杉景勝から見ると飛び地になる。

最上義光徳川家康側についている。

飛び地庄内を守るには、北の最上と必然ぶつからざるを得なくなる。

庄内を治めるのは直江兼続

動かざるを得なくなる。

再び最上vs上杉(直江)の戦いになる。

結果は…

関ヶ原本戦があっさり終結した為に、庄内守備処か直江兼続は米沢撤収をせざるを得ず。

上杉景勝は120万石→30万石へ減封。

逆に最上義光は庄内と由利を加増され、24万石→57万石へ。

ここから庄内は最上領となる。

最上義光は、配下の「北館大学」を狩川へ配置、旧狩川城を陣屋とした。

ここで、最上義光は庄内と由利には改めた検地は行わず(反感強いら)、上杉らの検地結果らで年貢徴収を行う。

先行し立谷沢付近での新田開発が実施されるが、そのせいかそれより低い地域での水不足の傾向が発生。

その為、知行主の北館大学は最上義光へ「北楯大堰」を掘削を上申し了解を得て、清川,狩川らへの水田への水供給の安定化らを行う。

この大堰事業は、鶴岡,藤島方面でも行っていたかと。

従来から荘園としての穀倉地帯を拡大すべく行われた模様。

これで一件落着…は、しない。

最上義光没。

ここで最上騒動が勃発し、最上氏改易…

幕府により接収された最上領は分割され、庄内には酒井忠勝が入部、鶴岡城へ入る。

これで庄内藩が成立。

一部は幕領となり、後にこの米を最短で江戸へ運ぶ為に酒田港を起点とした「西廻り航路」が開発される事になる…河村瑞賢により。

 

まぁ、我々的にはまずはここまで。

あくまでも旧「立川町史」ベースで且つかなり端折った通史であるが、我々的には流れが解ればそれで良いので、種々異論や附帯する事象もあるかと思うがご勘弁を。

どうだろう?

秋田と山形には、その成り立ちに於いて決定的な違いがある。

①秋田は弥生色が薄く、山形は濃い。

②秋田には末期古墳しか無いが、山形には前方後円墳含めた古墳が存在する。

③秋田には荘園は無かったが、山形は庄内にも荘園があった。

故に、平安で両方に国府はあれど、鳥海山を挟みその役割も違いが出るであろう。

羽黒山が最北の宮内庁管轄地で、そこには蜂子皇子の伝承がある。

こんなところか。

ただ、出羽と陸奥で比べた場合も想定してみよう。

③についてだ。

これ、地形を考えると興味深いと思う。

出羽の場合は、その境に鳥海山が聳え、秋田城と出羽国府の機能をしっかり分ける事は可能だっただろう。

鳥海山を挟み、荘園の有無すらきっちり分かれる。

が、陸奥はどうか?

多賀城鎮守府胆沢城の機能をきちんと分けるものは見当たらない。

現実には後の時代に、鎮守府将軍陸奥国司の役割は曖昧になり、いざこざが起き、職務統一されていく。

この辺は元慶の乱の影響も然りかも。

秋田城からの技術伝搬は、俘囚内を川に沿って起こるが、陸奥側ではそれが無かった。

よって、八戸らへの伝搬は、秋田城→米沢川→津軽,糠部へ…と、考えられているからだ。

出羽と陸奥は違う。

が、また出羽内でも、鳥海山を挟み成り立ちの差がありそうだ。

必然、お国柄の違いは出て当然かも知れない。

 

また、こんな風に地方史書による通史の確認はしていこうと思う。

おっと忘れてはいけない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544

庄内は鶴岡と北海道の関わり。

 

まずはここまで🙇

 

 

 

参考文献:

 

「立川町史 上巻」 立川町 平成12.3.15