枝幸の湊は何時からか?…「枝幸町史」との整合と「湊,津」の特定の為の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/01/201111

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

地方史書「新編天塩町史」より。

筆者は北海道の地方史書を幾つか入手し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

この様に、通史的に流れを追えないかと思ってみたが、なかなかそうは問屋が卸さない。

理由は簡単だ。

擦文期までを「先史時代」と位置づけ、ここまでは考古学領域、アイノ文化期からを「有史時代」と位置づけ、概ね松前藩成立以後からストーリーが始まるから。

故に「先史時代」の章には考古学としての記述や叙事詩ユーカラ」の記述が並び、いきなり松前慶広が豊臣秀吉から黒印状を貰い独立→漢文九年蝦夷乱→誓書提出でアイノの過酷な〜…となるのが一種のパターンなのだ。

勿論、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600

こんな話は出て来ない。

あっても大殿「安東氏」は新羅之記録の記述にある「十三湊陥落と東公嶋渡り」や「安東政季」に関する事位。

見た中では、秀逸な「函館市史」や新北海道史辺りのみで、概ねが先のパターンになる。

さて、我々のテーマの中には「古代〜中世での湊は何処か?」がある。

「北海道〜東北の関連史」と銘打つ以上避けては通れないテーマなのだが、ハッキリとした痕跡まで残るのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624

余市の大川遺跡だろう。

ここまでとは行かずとして、古書記載含めて少しずつ…

と思っているところに、こんな話を教えて戴いた。

https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/kk/kou_kei/ud49g700000025e0.html

国土交通省北海道開発局のHPを引用すると、

「枝幸港は、オホーツク海北部に位置する地方港湾である。枝幸港の歴史は、江戸時代の貞亭年間(1684~1686)松前藩が直領の鮭漁場を開いたことによって始まり、以来、明治中期には1,400隻を超える漁船が集積した一大水産基地として発展をみた。」

とある。

関連しそうな事を並べてみる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

 

・1603年

松前藩役宅が宗谷におかれ、礼文,利尻,樺太を司どる 

 

・1611年

慶長三陸地震に伴う津波検出

 

1616年

福島,知内町で砂金採掘開始 

 

・1618,1619年

アンジェリス&カルバリオ神父が渡道、布教 

 

・1624年

厚岸場所開設

 

・1625年

この辺りより「近江商人」渡道開始

 

・1628年

大千軒岳開山

 

・1631年

島小牧開山、赤神銀鉛山開山

 

・1633年

沙流ケノマイ,シブチャリ開山

 

・1635年

様似(運別),国縫,夕張開山

松前重臣(砂糖,蠣崎ら)、宗谷珊内より樺太ウッシャムに渡り検分行う 

 

・1636年

松前重臣(甲道)、樺太タイラカに至る 

 

・1639年

幕府、鎖国令発布 

 

○同1639年

ロシア、オホーツク沿岸到達

 

・1640年

駒ヶ岳Ko-d降灰、8mの津波伴う 

 

○1643年

ロシア、三年かけボヤルコフが黒竜江→韃靼湾へ探検。

 

・1648年

シブチャリのカモクタイン(シャクシャイン)とハエの鬼菱が抗争開始

 

・1663年

有珠山us-b降灰

 

・1667年

樽前山Ta-b降灰

 

・1669年

寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)

 

・1670年

ハウカセら西蝦夷の乙名らが不穏として余市にへ進軍、服従の誓詞を取る

 

・1671年

改めて東蝦夷地へ進軍、白老で服従の誓詞を取り、同年中で全乙名より誓詞を取る

 

・1672年

北前船(西廻航路)を川村瑞賢が開発

 

・1678年

江差の檜山が開山

 

・1684年

宗谷場所開設

 

・1694年

駒ヶ岳Ko-C2降灰

 

・1698年

松前藩士(佐藤)、単身東蝦夷地を探ると言う 

 

・1700年

松前藩、幕府へ「蝦夷全島地図」「郷帳」二冊を提出、千島を領地として記載、樺太も記載

 

・1701年

霧多布場所開設

 

○1711年

ロシア、占守島遠征で土人と戦い征服。

 

○1713年

ロシア、幌筵島迄征服、温根古丹島探検、占守島含む三島で日本製品押収し、土人より千島の名称と南で日本に接する事を聞く。

 

・1716年

新井白石、「蝦夷志」著す(樺太記載) 

 

1717年

この頃、藩士知行地で場所請負制開始

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる

 

・1731年

択捉,国後の土人松前藩主に謁見,献貢

 

・1790年

樺太,斜里場所開設

 

こんなところか。

残念ながら枝幸湊の記事に対する出典がないので、何を元に記述したか?迄は解らず。

ならば、地方史書で照合を…と、「枝幸町史(昭和42年版)」を入手した。

結論から書くと、この枝幸町史には、北海道開発局の根拠となる部分の記載は無かった。

ならば、周囲の状況と合わせて探る為の備忘録としようではないか。

と、言うのも、同書はこの時代の枝幸町そのものの記述が薄く、「宗谷場所」と言う観点で纏めている。

それだけ枝幸に関する古書記載がこの段階では掘り下げられていないのかも知れない。

 

では、本題。

まずは先行入手していた「新編天塩町史」から。

史記述の中に伝説のバテレン、アンジェリス神父の報告がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/15/194055

引用した部分の中に「天塩」が登場する。

なら、天塩の湊が何時頃からあるのか?

 

「天塩に場所が設定されたのは慶長年間(一五九六〜一六一五)といわれているが、場所の範囲は苫前場所との境界ヲタコシベツ(歌越)から宗谷場所のエキコマナイ(勇知)までであった。」

 

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15  より引用…

 

天塩場所の知行主は不明で交易は年1~2回程度との事。

アンジェリス神父は「天塩国から松前迄yezoが商いに来る」としているので、松前藩の船だけでは交易量は不足だと言う事だろうか。

天塩町史の記述をみると、

・場所が出来るのは慶長年間

・範囲は歌越~天塩~勇知の間

となる。

アンジェリス神父の一度目の訪道が1618年なので、湊が出来るのはそれ以前となるから、最低限遡れば1615年と一応合致はする。

 

では「宗谷場所」。

上記年表にあるように、

・1603年に宗谷に役宅が置かれ

・1684年に宗谷場所開設

これを念頭に読んで戴きたい。

 

「和人の交易が宗谷地方にまで伸びたのは漢文九年の蝦夷乱以前からで商場と呼ばれていたが、松前藩が宗谷に正式の場所を開くのは貞享年間(一六八四~八七)のことである。すなわち商場のころ交易船は藩の随意によって派遣されたいたが、場所となってからは定期的にアイヌ介抱の為の物資を供給し、代償として地方の産物を積み取るようになった。」

 

枝幸町史  上巻」 日塔聡/枝幸町史編纂委員会  昭和42.7.15  より引用…

 

どうやら、場所設置前から商場は開かれ、交易としての行き来はあったものと考えている模様。

これは厚岸の事例だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

この様に、藩の船で商場へ向かい、オムシャらを行った様だ。

関連して…

この稚内「声問川2遺跡」には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/27/201947

畠跡。

概ね17~18世紀なら、むしろこちらに付随したものと考える方が良いと我々は考えるのだが。

もとい…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

漢文九年蝦夷乱の後に松前藩余市,白老迄行き、各乙名が逆らわぬ様に起誓文を出させている。

枝幸町史では、ここで「臣属の礼」を取らせたとしている…あれ?「新羅之記録」には松前慶広が秀吉黒印状を見せて、逆らうと仕置軍が来ると、服從する様に脅しているのだが。

まぁ良いか…

では、範囲は?

「前略〜宗谷場所の範囲もはじめは小さな限定された地域だった。『元禄御国絵図』とともに幕府に提出された『松前島郷帳』には「是よりそうやの内」としてつさん、のつしやむ、そうやを挙げ、新井白石の『蝦夷志』はこれにバッカイを加えたが、北見沿岸の「是までゆうへちの内」と区別している。したがって開設当時の宗谷場所は宗谷アイヌという一部族の勢力範囲、すなわち酋長の直接支配の届く地域だけを指したものだろう。」

 

枝幸町史  上巻」 日塔聡/枝幸町史編纂委員会  昭和42.7.15  より引用…

 

と、言う訳で、先の天塩場所の範囲と合わせると、宗谷場所の日本海側は抜海村迄となるか。

が、ここにはオホーツク海側の範囲がはっきり書いてはいない。

と、言う訳で、枝幸町史で使用した『蝦夷志』を見てみよう。

これは新井白石松前や内外書物を纏めた地誌書で1720年成立。

実は蝦夷志には北海道が島であり、

・小泊〜松前は約30km、三厩松前は約50km

松前から東に順風丸五日の航海で納沙布岬

納沙布岬から順風丸六日の航海で宗谷へ、その間湊は凡そ12箇所

松前から北に順風丸五日で宗谷へ、その間湊は凡そ17箇所

と、記載している。

では、どんな地名が?

邑聚(つまり村里)として…

 

東…

ハラキ(函館市原木)

シリキシナイ(同尻岸内)

エケシナイ(同えけし内)

コツイ(同古武井)

ネタナイ(同根田内)

オサツヘ(同尾札部)

オトシッペ(八雲町落部)

ノタヘ(同野田生)

ユウラップ(遊楽部)

クンヌイ(長万部国縫)

シッカリ(同しつかり)

ベンペ(豊浦町弁辺)

オコタラヘ(洞爺湖町おこたらべ)

ウス(伊達市有珠)

エンドモ(室蘭市絵鞆)

アヨロ(白老町あよろ)

シラオイ(白老)

タルマエ(苫小牧市樽前)

マコマエ(苫小牧)

アツマ(厚真)

ムカワ(鵡川)

サル(日高町沙流)

モンベツ(同門別)

ケノマエ(新日高町鳬舞)

ニカブ(同新冠)

シブチャリ(同しびちやり)

ミツイシ(同三石)

ウラカワ(浦河)

モコチ(浦河町むくち)

ホロベツ(同幌別)

ウンベチ(様似町海辺)

ホロイズミ(えりも町幌泉)

タモチ(同たもち)

トマリ(広尾町とまり)

オンベツ(釧路市音別)

トカチ(浦幌町十勝)

シラヌカ(白糠)

クスリ(釧路)

チヨロベツ(同ちょろべつ)

アッケシ(厚岸)

ノッシャム(根室市納沙布)

べケルル(別海)

チベナイ(標津町こえといヵ)

シロイトコロ(斜里町知床)

ルウシヤ(羅臼町るしや)

リイシヤシ(斜里町宇登呂付近)

ベケレ(同べけれ)

フナベチ(同海別)

シャル(斜里)

リンニクリ(小清水町りんにくり)

ウラシベチ(網走市浦士別)

ハバシリ(網走)

ノトロ(同能取)

ツコロ(北見市常呂)

 

西…

ウスベチ(せたな町臼別=久遠場所)

フトロ(同太櫓)

セタナイ(瀬棚)

ハマセタナイ(同浜瀬棚)

アブラ(同虻羅)

チワシ(島牧村千走)

シマコマキ(島小牧)

ユウマキ(同夕まき)

六条間(寿都町六条)

スッツ(寿都)

オタスッツ(同歌棄)

タンネシリ(同たんねむい)

リシベチ(同尻別)

イソヤ(同磯谷)

イワナイ(岩内)

シリフカ(共和町しりふか)

ムイノトマリ(泊村むいの泊)

フルウ(神恵内町古宇)

シャコタン(積丹)

ビクニ(同美国)

フルビラ(古平)

ザルマキ(同らるまき)

モイレ(余市町もいれ)

ヨイチ(余市)

シクズシ(小樽築港祝津)

カツチナイ(同勝納)

オタルナイ(小樽)

ハッシャブ(札幌市発寒)

ノロ(同篠路)

シャッホロ(札幌)

イシカリ(石狩)

オショロコツ(厚田区をしよろこつ)

アツタ(厚田)

マシケ(増毛)

ベツカリ(同別狩)

ホロトマリ(同ぽろとまり)

ハシベツ(同はしべつ)

ルフヲツヘ(留萌市るるもっぺ)

トママイ(苫前)

ウイベチ(遠別)

テシホ(天塩)

 

東の北…

ウユベチ(湧別)

ノトロ(紋別市紋別港付近)

ショコツ(同渚骨)

オコツベ(興部)

ホロナイ(雄武町幌内)

ホロベチ(枝幸町幌別)

ツウベチ(浜頓別町頓部)

 

北…

バッカイ(稚内市抜海)

ツサン(同つさん)

ノッシャム(同納沙布)

ソウヤ(宗谷)

 

と、言う訳で、この位の集落名は1720年以前には新井白石の手元に届いていた様で。

これでいくと、枝幸町は湧別、つまりオホーツク側と考えられていたようで。

まぁ上記引用同様、松前的にはウイベチ(湧別)の枠組の中の様だ。

これ、明治以降の航路の展開を枝幸町史から拾うと、東は上記同様に函館〜根室根室〜網走、西は小樽〜稚内とあり、丁度オホーツク海側は日本郵船らの定期便がなく、藤野回漕店らが不定期で船を回した様で、西廻でも東廻でもどちらからも行けるが、奥地的な枠組だったのだろうか?。

 

さて、では、もっと古いものは?

枝幸町史には『津軽一統志』の記述がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158

津軽一統志はこれらで取り上げている。

漢文九年蝦夷乱の際、幕命で状況報告を指令された津軽藩がぶっちゃけスパイ活動をした報告書を元に纏められた部分が記載される。

この中に蝦夷地の主要地点の記載があるそうだ。

 

・石狩  (河口に狄家数知れず、川上約20kmに上ノ国惣大将ハウカセの居城有り)

・ましけ(増毛)…※

・へすかり…※

・ふろとまり…※

・くわしべつ…※(ハシベツ)

・るゝもつへ…※

・うんしや(臼谷)

・とま内(苫前、沖に二嶋有り)…※

・はほろ(羽幌、金山有り)…※

・てしほ(天塩)…※

・江指の鼻(沖にルイシン嶋、狄商場)

・はつかい(抜海、商場)…※

・れかまた石

・のつさふ(納沙布)…※

・そうや(宗谷、商場)…※

・三内(珊内、商所嶋さき也)

・ゆうへつ(湧別、是より北高麗に渡る)…※

(…※付き  は、蝦夷志と共通の場所)

記載上は商場は宗谷と珊内、特記としては江指の鼻に狄商場とあり、漢文九年蝦夷乱の最中にも松前藩は天塩,宗谷,湧別に交易船を廻していたとある。

また、大陸「北高麗へ渡る」、つまり大陸との玄関口は湧別だと特記している。

羽幌に金山…

さすがにスパイ活動、詳しい。

やはり、枝幸は湧別と同じ枠組の様で。

宗谷場所の主要取扱品には三丹交易品を含むので、湧別側の枠組の上で宗谷場所で取引らが行われたと言う事になるか。

 

と、言う訳で、1600年代後半〜1700年代始めには主要な地名は既に知られていて、ある程度の状況は把握されていた事になる。

それらには規模は別にして湊があり、商場や場所開設により、そこへ取引を含めて出向いていたと。

現実、宗谷やオホーツク地域は、江戸初期の駒ヶ岳,有珠山,樽前山らの火山灰層が検出されておらず、影響は少なかったと考えられる。

漢文九年蝦夷乱の最中でも、松前藩が船を廻せたのは、災害史の視点でも納得は出来る。

東廻ではなく、西廻で船を廻せば良いのだから。

ただ、微妙な地名差があるところを見れば、時代により村落の移動なりはあるのだろう。

解り易いところでは、有珠善光寺周辺は、火山灰の影響を受け荒廃したのは記録に残る。

後に村落が出来ていれば、新たな移住があり、村落としての人口増減は考えられると言う事に。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

天塩の住居の一件も、津軽一統志に「狄家あり」…これを竪穴住居と見立てれば、探索らで来た人々は一目で解ったであろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/13/062742

ここで我々が引っ掛かっていた「前提条件」、アイノ文化指標としての「竪穴→平地化」…これが微妙になってくる。

①竪穴→平地を近世以前と見る

居住遺跡が見当たらない→江戸初〜中期の記述と整合しない→入居は近世移行にならざるを得ない

②竪穴を江戸期に使っていたと見る

天塩の事例とは合致する→松浦武四郎の穴居跡とも合致する

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

→土器編年らと合致せず→明治らの調査とも合致せず

なら…

③竪穴を江戸期に使い、途中から平地へ変わる

幕府の床付き住居奨励で変わる→②の条件とは合致する→①の古書記述とも合致する→居住遺跡の上に平地住居が作られれば古来穴居跡は残らない→土器らも埋められ見当たらない…

これらで説明出来てくる。

堂々巡りになっているのも、「アイノ文化の指標は竪穴→平地&中世にそれが起こる」としているからでは?。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/15/144234

請負場所の幕府奨励策の影響を受けた本道に置いて、江戸期中に平地化が起こる…消えたトイ・チセの謎は解ける。

土器編年は、土器が「残された」部分で組まれていく。

土台、北海道は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

土砂堆積が少ない。

なら、土器を伴わない竪穴の中に、近世の人々が住んだ竪穴住居があるのではないか?と言う事。

まぁまだ事例が少なく、話にはならないが、消えた中世の謎ごと解消されて来るとは思うが。

 

もう一つ注目してみよう。

北高麗との玄関口は「湧別」…

これも津軽海峡同様に、宗谷海峡の海流を把握すれば、樺太や千島、いやシベリア方面も含め、何故この位置を玄関口だとする理由も解るのでは?

オホーツク海は流氷の流れ着く場→表層の海流がそこに向かうだろう。

ロシアの南下は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

東アジア→シベリア→カムチャツカ→千島と、陸続きで行われた。

樺太らは二の次で、艦隊で海からの侵略らは後になる。

目的が毛皮確保と領土拡大ならそうなるだろうが、仮にオホーツク制圧から艦隊で南下されたら?

樺太→湧別で、ダイレクトに本道へ…背筋が凍る。

同時に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

幕別町の白人村伝承や、

 

「上石狩アイヌの中には、海路北見から石狩浜に来て、そこから石狩川をさかのぼって上川に定住したという口碑を持っている家系がある。これは家紋でもある程度みとめられる。」

「前略~近文酋長の川村カネトが明治四十四年(一九一一)に北見湧別で川村家と同じ系統のシルシを発見してこの伝説のこと(筆者註:網走川流域から来た)や、川村家もまた遠い祖先は網走方面から海岸沿に宗谷を廻り、石狩川をのぼって入りこんだとつたえられていることなどが思い合わされたという。」

 

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

 

上石狩アイノの伝承。

アイノの移動や混雑には、十勝や日高方面の話が多い。

これは、江戸初期の火山灰降灰の影響からの避難と見ればどうだろう。

と、同事に時期が少し下り、この北見方面からの移住伝承が出てくる。

これをロシアの南下を避けた人々と見る事は出来ないだろうか?

現実、この様に移動した伝承やシロシに現れる内容を整合すれば、旧来の聞き取り調査で古老らが話していた「先祖は✕✕から移り住んだ」と言う話の信憑性が上がる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/10/093212

勘違いしてはいけないのは、大規模な古潭の多くは、開拓使の意向で、土地給与とセットで作られた人工居住地。

先達たる古老達が「移動した」と言っている事を無視は出来まい。

現にシロシに現れるし、移動の動機や理由も上記通りなら、話としては成立するだろう。

特に北見からの移動に関しては、江戸中期位からの伝承(聞き取り時より3~5代前)が主。

大体時期的に、請負場所展開やロシア南下、それより先の日高,十勝からの移動…合致しそうだが。

厚岸のノイアサックは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

先住しチャシ構築した人々を知らないし、元々こんな認識もある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/12/200407

十勝〜千島の集団と、それより西の人々は、先祖に対する感覚も違う。

これらを整理すれば、江戸期に起こった事もみえてくるのではないだろうか?

 

とりあえず、地名らに関しては、各種探検らより先に知れていた…

ここは事実の様で。

少しずつ、整理していこうではないか。

 

 

 

 

 

参考文献:

枝幸町史  上巻」 日塔聡/枝幸町史編纂委員会  昭和42.7.15

 

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15

蝦夷志 南海志」  新井白石/原田信男  平凡社  2015.11.8

 

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10