「錬金術」が「科学」に変わった時-6…佐渡の鉱山史を学んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/31/195723

この辺を前項として。

折角なので、阿仁銅山,加護山精錬所だけではなく、別の鉱山にも展開してみようではないか。

まぁ黄金山産金遺跡の項は、参考文献の通り、これを学ぼうと思って入手した文献の中にあったと言う事。

敢えて…布石だった。

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/20/203327

こちら、デ・レ・メタリカ

 

金と言ったら?

奥州藤原の黄金文化…

甲斐武田の軍資金…

でも、院内銀山らにここから技術導入したとの記述があるなら、やはりここしかあるまい…「佐渡金銀山」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/100518

先に飛島も取り上げているので、離島も良いだろう。

但し、佐渡と飛島では絶対的な差がある。

それは何か?

佐渡には国衙があったことだ。

その辺も含めて学んでみよう。

 

佐渡が歴史上登場するのは?

これは知られた話。

古事記日本書紀、それも伊弉諾,伊奘冉の段で既に佐渡の名は記される。

13代成務天皇の時に佐渡國造が置かれ、36代孝徳天皇の時に中国として設定、45代聖武天皇の時に、一時越後に併合したが、後に佐渡國復帰の様で。

我々のブログの中で、こんな記事から始まるのは初めてかも知れない。

長くなるので、詳細の佐渡の歴史は、別の折に回す事に。

 

さてでは、佐渡の鉱山は何時から?

前項にあるように、我が国の産金の歴史は陸奥涌谷「黄金山産金遺跡」から。

後に750(天平勝平2)年に駿河から産金、ここらからあちこちで金銀銅の産出が解った様で、延喜式で租税として金の上納記事があるのは、陸奥の砂金二百両と下野の砂金百五十両,錬金八十四両。

貞観・元慶の頃の大陸との交易通貨は砂金と水銀、また遣唐使の留学でも砂金が使われたとか。

とは言え、まだ佐渡の鉱山記述はまだ全く無い模様。

では、佐渡の産金が記述されるのは?

ハッキリとした産金開始の記述は無い様だ。

が、白河天皇の頃(1073~1087)にはこの赤丸付近、「西三川」で産出される記事が今昔物語や宇治拾遺物語にあり、既に知られていとある。

また、世阿弥が1434年に佐渡に流刑にされたおりに書かれた(1436年著)「金嶋書」に記述があり、この段階でも採金が行われていたとする。

更に、豊臣秀吉の頃、秀吉から上杉景勝への書状に、

「   於佐渡国在々庄園地頭・御家人(と)号(し)構居城候由比度其元發向被致一国一城に可被究者也西三川砂金之義は任先例伏見大坂へ可被相納者也仍 而下知如件

天正十七年(筆者註:"一五八九"のルビ)丑六月        秀吉

上杉景勝殿   」

 

佐渡金銀山史の研究」 長谷川利平次 近藤出版社 平成3.7.10  より引用…

 

と、秀吉は西三川の砂金の事を知っていて、更に幕藩時代においても記述は残る。

つまり、ここ西三川は平安以降、採金はずーっと続けられていたと考えられる訳だ。

1784~1786(天明4~6)年に書かれた「金子文書」の砂金稼所の条に採金ど道具として「汰板(ゆりいた)」「もっこ」らの記載があるので、西三川の産金は砂金掘りだったと考えられる。

佐渡の産金は平安期に、ここ西三川の砂金から始まり、その後も継続された…まずは一つ目。

 

では次、実は銀山である。

「鶴子銀山」。

上の地図では紫丸の辺りになる。

ここは発見者と発見伝承が口伝され、「佐渡古実略記」「佐渡風土記」「佐渡年代記」らに記述があるそうだ、勿論伝承レベルではありそうだが。

その内容は、1542(天正11)年に、越後の茂右衛門と言う商人が商売で佐渡に来ていたが、ある夜に夜に船で後の銀山方向を見たときに銀を吹くような光を見て近寄ったところ金気を感じ、地の者や地頭の本間氏に掛け合い許可を取って試掘に至る。

ここで自然銀を発見した所から鶴子銀山の歴史が始まる。

本間氏とは、銀百枚を運上する約束をした為にその一帯を「百枚平(別名外山茂右衛門間歩)」と言うそうだ。

後に上杉景勝佐渡掌握の時に、外山に陣屋を立て、後に幕藩時代でも産金が続く。

幕領になった折には、ここ鶴子銀山をメインとして陣屋を置いた程活況を帯びたが、落ち着いた頃に相川の「佐渡金銀山」が開山し、陣屋がそちらへ移されて町の活況らが失われた様だが、寺社伝でこの時期に開基の話が多数ある事や「鶴子千軒」の口碑が伝わる事から盛況時は繁栄していた事は想像に易しい。

ここも明治迄稼働した模様。

https://www.city.sado.niigata.jp/site/mine/4524.html

佐渡市のHPであるが、主に露頭した銀鉱脈を様で、掘った跡は今も残る様で。

鶴子千軒と言うだけに、大遊郭があり、鉱夫や船頭らが利用シていた模様。

 

砂金山、銀山ときて、最後が「佐渡金銀山」になる。

俗称「上相川千軒」とか

上の地図の水色○周辺。

莫大な富を産んだ新鉱脈発見は1601(慶長6)年で、所謂青柳の割戸らが発見された。

だが、それ以前、初代奉行河村彦左衛門の検地帳1598(慶長3)年の条に金山町の記述があるとか。

もしかしたら砂金らが採られていた可能性はあるらしい。

で、この1601年段階で「錬金」、つまり鉱石から精錬して金を取り出していたようで、伝説として語られる山師「味方但馬」は一日で一千貫(3.75㌧)の金を掘り出した…と言うような話が全国に伝わり、大量の山師;鉱夫らが流入したとか。

加賀藩に至ってはその流出が収まらず、三度に渡り山師,鉱夫らの佐渡渡航を制限したにも関わらず、止める事が出来なかったとか。

江戸期でも、

第一期(極盛期)…1601~1643

第二期(衰微期)…1644~1715

第三期(極衰期)…1716~1817

第四期(再興期)…1818~1866

と、数量の変動や盛衰はある様だが、近代までその活動が我が国を支えたのは事実だろう。

その第一期で既に、京や大坂の遊女や太夫らが佐渡行き、中には豪遊し財産を失うものも数多くいたとか。

かの出雲の阿国が渡った記録もあるとか。

この頃の相川府の人口だけで20万人を数えたと。

昭和13年頃で14万人、現在5万人強の模様。

この時の佐渡に居たのが、山師の味方但馬とかの「大久保長安」である。

1601年の新鉱脈発見の2年後から佐渡奉行に就任。

やはり研究上は、カトリックポルトガル宣教師から技術を習ったと考えられており、それは、大久保長安は京に屋敷らを持っていた事からも伺えるとされる。

上記、西三川の砂金場の様に秀吉も佐渡には着目してはいたが、芳しい結果は得られてはいない模様。

それが大久保長安在任の辺りから爆発的に産出量が増えている事を考え見れば、否定し難いところ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/20/203327

現に、「デ・レ・メタリカ」には、採掘や鉱石から産金させる方法が全て記載される。

天工開物の出版は、大久保長安佐渡奉行就任より後になるので、こちらの方が蓋然性は上がる訳だ。

まぁ大久保長安が死した後にどうなったか?らはここでは割愛する。

それより、見逃せない記事があるので、引用する。

 

「パジェスの日本切支丹宗門史によれば慶長十年伏見の切支丹、中でも最も熱烈な一人が佐渡に渡り、鉱山で働いている信徒を激励したのを始め、元和八年(筆者註:一六二二のルビ)にはイエズス会のパーデレ・ヒエロニモ・デ・アンゼリスとヨハネ・マテオ・アダミの両師が佐渡へ二回も行ったこと、また寛永三年(筆者註:一六二六のルビ)には神父が医者の扮装をして越前や佐渡に渡ったこと、佐渡の銀山にはおびただしい切支丹信徒が働いていたとあり、当時伝えられたと云う、南蛮鉄、南蛮絞り(冶金法)、竜樋等がある。しかるに寛永十四−五年島原の乱後弾圧が厳しくなり、百余人を旧相川街道中山峠に於て(トンネル上)斬殺した。今日も百人塚として残る。」

 

佐渡金銀山史の研究」 長谷川利平次 近藤出版社 平成3.7.10  より引用…

 

ここでも、伝説のバテレンジェロニモ・デ・アンジェリス神父」登場である。

 

さて、本題。

上記の様に、佐渡金銀山は大久保長安と味方但馬の時代頃に、南蛮式の採掘や精錬らを取り入れた様だ。

大久保長安は他にも石見銀山や伊豆(土肥金山?)らでもその手腕を奮ったとある。

享保年間なので後に書かれた物だが、同書にある「佐州金銀採製全図」でも、

ねこ流しと呼ばれる比重差による鉱石と岩石の分離や、

金銀吹分けらは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/20/203327

デ・レ・メタリカに似ているのは確か。

さすがに水車による鉱石粉砕迄はやってはいない様だが、その分人力での石臼挽きは記載がある。

まんまデ・レ・メタリカが伝わったと言うよりは、原理の指導らをバテレンらから受け、有り物の機材で応用したか?

 

さて、如何だろうか?

まぁ各地の鉱山史らを学びながら、技術や登場人物らを少しずつ学んで行こうではないか。

砂金か?

鉱石か?

ここだけでも、時代による技術変化は見られよう。

ジワジワ行こうではないか。

 

 

 

 

 

参考文献:

 

佐渡金銀山史の研究」 長谷川利平次 近藤出版社 平成3.7.10