https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200
前項はこちら、余市の石積み。
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
飛島の館岩と庄内史。
さて…
筆者は普段は単独行動。
先日実は、毎度ご意見や新しい知見を下さる方と二人でフィールドワークを行った。
非常に楽しく且つためになる時間を戴いき、感謝である。
そんな時は、何気に相乗効果を生むもので…
某資料館において、そちらの町内の中世山城に「石垣がある」と、ひょんな事から話が出る。
はぁ?となり、県立博物館→県立図書館へ二人で調べ回った次第。
某資料館の話は確認に至らなかったのだが、ネットでも検索ワードを「石垣→石塁」と変えただけで、なんと2件程度引っかかったりした。
時間らの都合もあり、図書館での資料確認は筆者が引き継ぎ行う事とした。
今回はそんな瓢箪から駒の確認結果を報告する。
結論から言えば、秋田に石垣や石塁,石積みを施した中世城館は存在する。
では…
抽出方法は「秋田県の中世城館」の第三版より、石垣や石塁,石積みらの記述を探して数や位置を確認した。
同書にある秋田県内の中世城館は総数908箇所。
その内にそのワードを含む記述があったのは13箇所(約1.3%)になる。
内訳は下記の通り。
0/58箇所
0/84箇所
・能代市,山本郡地域…
0/89
0/174
8(石垣3/石塁5)/141
・大曲市,仙北市,仙北郡地域…
4/177
・横手市,平賀郡地域…
0/79
1/111
以上である。
見ての通り、総数で1.3%なのに、妙に由利本荘市ら鳥海山側に偏重し、その地域では6%程度に跳ね上がる。
では、詳細を見てみよう。
・黒川館(にかほ市金浦)…石積み
「仁賀保氏」家臣「黒川六兵衛」の居館の伝承。
・西の館(由利本荘市前郷字西川町)…巨石の散乱(現状、石垣は認められず)
・根城館(由利本荘市矢島町)…石垣
ここについては、「攻城団」様より、
https://kojodan.jp/castle/2291/photo/109574.html
確かに石垣が見える。
主郭の一部に限定される模様。
・新荘館(由利本荘市矢島町)…石垣
これも東北部の小腰郭に限定される。
伝承では信濃から移住の根井一族の構築で、主郭入口付近に限定。
・美濃輪館(芹田館)(にかほ市三森)…石垣
ここについては、「秋田の中世を歩く」様より、
https://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/nigaho/serita.html
確かに石垣が見える。
台地の北半分に限定、野面積みで二段郭を構成する模様。
伝承では「由利氏」に従属した「芹田伊予守」が応仁年間に構築。
・山根館(にかほ市院内)…石積み
平成5~8年に発掘調査が行われており、
秋田県立博物館にもパネル展示され、石塁や土塁の基部に石積みが施されており、石積みの中に石臼等が検出される。
伝承では、由利維安の構築(1085年)で、維平,維久3代約130年使用。
後に仁賀保氏の祖である「大井伯耆守友挙」が1468年に改築し入場し、1602年の国替まで居城としたとされる。
・栗山館(にかほ市伊勢居地)…石積み
主郭の一部に石積み。
○大曲市,仙北市,仙北郡地域…
・館ノ沢城(秋田市協和上淀川)…石積み
主郭の3箇所に石積み。
・岩井堂館(大仙市土川)…石積み
西の出丸に「石積塚」と呼ばれる石積みがあり、南東部斜面に「七ツ盛,七ツ塚」と呼ばれる土盛りあり。
・館城(大仙市土川)…石積み
西側帯郭の斜面に石段に用いたと考えられる石が散乱。
・孔雀城(大仙市大曲)…石垣
単郭の西側に一部野面積みの石垣が残る。
・男鹿崎館(雄勝町秋ノ宮)…石垣
主郭と堀切,竪堀で切り離された北郭斜面に大石が複雑に積み重なり、石垣だと言う伝承が残る。
以上である。
さて、それまで筆者が捉えていた秋田県内の石垣は払田柵のみだった。
さすかに上記は、伝承上でも平安末~室町の応仁の頃まで時代背景が300年以上離れるので、一様のものと考えるのは難しいであろう。
雄勝町の「男鹿崎館」の様に、極山城的な作りで、文禄年間に使用した伝承が残る場合は中でも後世に築かれたと考えるべきところ。
逆に、平安末と言われる山根館は、敷石の上に土塁を築いき直しているので、伝承そのものではなくとも古い館跡を後世に手直しして使われた事は言えるのかも知れない。
と、言う訳で、筆者は折角なので矢島町の「根城館」に行ってみた。
①赤丸
左が主郭側、右が馬出し側と思われ、この奥に八幡神社が。
②紫線
これが土塁。
主郭側より。よく見ると残存したと思われる礎石?が直線的に並ぶ。
裏側より。
主郭側が高いので更に高く見える。
この右手が緑線の様に平地になって、家臣団の居住地?とある。
③水線
これが石垣。
北西側…
北の角…
北側…
北西〜北側のみに施される。
高さは見える限りでは1m位か。
だが、北東側は高低差が北側より大きく、石垣の基底部が見えなかった為に全て石垣かは確認出来ず。
石垣の方面は崖〜矢島の盆地方向、土塁が山側になる。
石垣確認完了。
秋田にもあった。
さて、考察してみよう。
勿論、上記の様に時代背景が微妙なので、現時点での内容である。
①石垣や石積みの傾向…
見ての通り、戦国~織豊~江戸期の「城」に施された様な、強固な防備用ではない。
郭の周囲の1〜2方向、登り口の階段付近、館の周囲等、人に見える方向に施している。
これは払田柵も正殿へ向かう部分と階段のみの様なので、共通かも知れない。
理由は不明だが、何故か共通していそうだ。
実はこれ、余市の茂入山や大崎山も同様で、大川遺跡らの方向,川の方向しか施してはいない。
②秋田での位置関係…
見えにくいが…
ポイント→根城館(矢島町)
赤,水色○→鳥海山
黄色○→秋ノ宮
赤○→由利本荘市前郷
緑○→大仙市土川
水色○→払田柵周辺
こんな風になる。
石垣や石積みが偏重するのは、矢島町やにかほ市…つまり鳥海山の北側山麓になる。
往古は秋田側では矢島口が参拝の入口。
矢島町と秋ノ宮は国道108線が旧街道と同様の様で繋がる。
矢島町と前郷も繋がり、その先通称グリーンロードを北上すれば大仙方面に抜けられ、旧西仙北町へ通じる。土川は旧西仙北町。
グーリンロードを東へ向かえば、横手盆地方向へ抜けられ、旧南外村や旧大森町方面へ、この先に払田柵がある。
まぁ、峠はあれど、街道伝いに皆接続可能で、山塊で往来不能では無かったであろう事は想像出来る。
中世では、矢島やにかほ市は由利十二党の領域、横手,平賀~湯沢,雄勝は小野寺氏の領域、土川らは本堂氏の領域と、領主はバラバラ。
が…紫○、これは概ね別の意味で前郷や矢島方面と共通点を持つ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/193803
近世では須郷田層ら石灰質砂岩から石の竈「味噌へっつい」を切り出し自作していた地域。
近世迄、石積みらだけでなく、石の利用方法を知っていた人々とも言える。
領主らはバラバラだが、地の者達は石の利用方法を共通して知っていた…つまり、中世らに入ってきた御家人らとはあまり関係ない勢力がこれらを伝搬したのではないのか?
これら偏重と技術を持つ者…
鳥海山を起点とした修験ならどうだろう?
ここに限らず、中世城館は根城館も含め、神社や寺、祠,五輪塔,板碑らが散見され、館と別の郭に設置されていたりする。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
安倍,清原氏から、中世の大宝寺氏、安東氏…何故か別当を兼ねて、宗教権威も持っていたりする様だ。
乱立する国衆、拮抗する一族内の中で、自らの権威を誇示する為に宗教権威を利用した…は、どうだろう?
単に経済的権力だけで周囲より抜きに出るのが難しいであろう様は、後三年合戦経緯上の清原氏の動きらでも想像可能だ。
この場合は、中央の軍事貴族との婚姻で権威を上げていた節はある。
ここら事情を加味すれば、こんな事の答えにもなるのではないか?
従来検討される防御性環濠集落や中世城館の土塁,空堀の機能は?には、①戦闘での防御設備、②宗教らの結界の役目…だが、その利用者が政治権力と宗教権威を兼ね備えるなれば、①,②の両方を併せ持つ…
ここまでを鑑みれば、局部的に設置した石垣の意味合いは「見える場所にある事」を考えれば、どちらかと言えば権威の誇示の意味合いの方が高いのかも知れない。
さて、如何であろうか?
勿論、こんな事は入口で、まだ何も解った訳ではない。
まずはヒントを一つ手に入れた程度。
ただ、これらが成り立ってくるなら、全く何の為に作られたものか解らない余市の石垣,石積みや飛島は館岩の石塁も、読み解くヒントにはなるのではないだろうか?
極古い方にその起源を置けば、大陸との交渉へ至る説はあるが、忘れてはいけないのは、渤海にして百済にして純然とした仏教国であった事を。
検討への一つ目の試案として…
・石積みや石垣は、防塁,結界両方の意味をもち、権力と権威の誇示の為…
・その技術は出羽三山や鳥海山信仰から伝搬した修験からの伝搬であり、どちらかと言えば宗教的意味合いの比率が高い…
・源流に修験、こと仏教があるなれば、海外勢が参加したとしても疎外する理由はない…
・余市らの石積み,石垣も修験の伝搬によるものなのではないか?→この場合、往来頻度で考えれば、秋田城以降の秋田湊からの移入になり、それは平安以降、中世でも成り立つ…
勿論、これは近世でも成り立つ。
何故なら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
この、「ちょっと稼いでくるわ…」感覚で北海道に渡り、漢文九年蝦夷乱に巻き込まれた人々こそ、この「にかほ周辺」の人々だ。
まぁ平安の世から江戸中期までは象潟の多くは海の底…象潟湾の周辺の人々ではあるが。
まずは一つ辿り着いた一案。
これを源流とすれば、近世に構築されたとしても、秋田湊らの関与は否定される事はない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/15/194055
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558
むしろ簡単に説明可能。
アンジェリス&カルバリオ神父は、秋田湊からの船で訪道している。
ましてやキリシタンを含む金堀衆は石垣構築は難無くこなす。
第一期福山城の石垣は千軒岳の金堀衆によるものだ。
技術的には何の問題にはならない。
まずは一案としての備忘録である。
参考文献:
「秋田県の中世城館」 秋田県文化財保護協会 平成4.12月(第三版)