「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/22/210608

前項に引き続き、鉱山史を辿ってみよう。

佐渡以外に金山と言ってイメージし易いのは、やはり武田信玄の軍資金、甲斐の金山では?

鉱山史研究上、その評価はどの様なものなのか?

 

「金山では武田氏領の黒川・芳(保)等や、今川氏に属し後に武田氏の支配となった駿河の富士・梅ヶ島などが十六世紀中期にはすでに開かれた。これらもはじめ砂金採取がおこなわれているが、それとともに山金、つまり金鉱石を採掘して精錬もおこなわれている。その精錬は銀と同様で、金鉱を粉砕し淘汰した鉱砂に、鉛を加えて熔解し、灰吹したのである。山金などの採掘のために堅硬な岩盤穿鑿の技術が必要となり、また坑道に水平坑道が併用されてきたが、これには測量技術の進歩がともなったのである。甲斐は急流が多く築堤治水の土木工事は信玄時代に注目すべきものがあったが、これら土木技術は鉱山技術と深い関係がある。甲斐では鉱山技術を含めて土木技術を甲州流とよび、奥秩父の金銅鉱山や伊豆金山の開発に直接の影響を与え、また佐渡鉱山をはじめ諸国鉱山の興隆に石見銀山とともに大きな役割をもつのである。」

 

「日本鉱山史の研究」 小葉田淳  岩波書店  1981.4.10  より引用…

 

まずは文献史学の視点から。

金山の採掘は、砂金→露頭した金鉱石からの精錬(練金)→坑道を掘った採掘…この様に変遷する。

小葉田氏によれば、この中で甲斐金山衆は、甲州流土木技術を鉱山開発へ利用し、それが奥秩父,伊豆そして佐渡への直接影響を与えたと指摘する。

江戸期になってからの鉱山算出量拡大には、大久保長安の関わりが指摘されるが、大久保長安は甲斐出身。

後に伊豆金山や佐渡金銀山へ関わりを持つ事が理由だろう。

その件があるので、石見銀山と共に技術系譜の源流の一つとして見られている訳だ。

小葉田氏が挙げる金山は、

黒川金山

・四八代郡金山

南巨摩郡早川町保金山

この辺には古書記載が残り、信玄時代からの稼働だろうと、又、中巨摩郡御成山金山らは伝承上で信玄時代からとされている。

更に、武田領拡大により、駿府富士金山や信濃でもそれ以前から稼働しているが信玄時代に拡大したとされる場所もある様だ。

 

では…

文献史学の視点で、その稼働がどの様に考えられているか?

 

黒川金山の旧坑の現状を、昭和八年刊の『東山梨郡史蹟』の筆者は、次のように述べている。

   黒川の渓流に沿ひ、人工を加へて

   平地をなし、石垣等を作りて、屋

   敷の跡と思はしむる所、大樹密生

   の中、笹薮の葉蔭に点々と散在し

   あるを見、更には石臼等らしきも

   の笹にかくれて見うる。思へば往

   昔黒川千軒と言はれし当時を偲ば

   れる。

黒川金山の名称のある文書としては、まず天正五(筆者註:1977)年二月の黒川金山衆にあてた勝頼朱印状があり、ついで依田兵部左衛門あての同趣の朱印状がある。」

 

「日本鉱山史の研究」 小葉田淳  岩波書店  1981.4.10  より引用…

 

金山衆に石垣構築技術があるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151

後の時代、松前福山城石垣構築が金堀衆の手による事でも明らか。

この朱印状によれば、この時点で黒川金山は既に衰えてきていた様だ。

さてでは、これら技術を持つ甲斐金山、どの様に運用されていたのか?

 

黒川金山衆とよばれたなかに、中村・大野・風間・田辺・古屋等の諸氏があり、依田氏もその一人である。後世の諸家の由緒書中には、金山衆は金山掛奉行であったように記したものもある。近世諸藩の金山奉行は、藩より派遣されて鉱山支配に任じた藩役人である。金山衆はそうではなくて、間歩・堀場の所有者で稼行主であり、山主(山師)である。甲駿地方では、彼らは領主と被官関係をもつ名主的武士であり、金山衆は山主集団であるとともに武士団を形成していたらしい。」

 

「日本鉱山史の研究」 小葉田淳  岩波書店  1981.4.10  より引用…

 

領主に従属し、自分が持つ山を運用して財を成す土豪や国衆の様な存在か。

戦乱あらば徴兵もその奉公とはなっているが、時としてそれを含めた諸役を免除してまで金山運用を先行させる様な朱印状の様だ。

徴兵に応じた時は、二十四将ら武将の組下となり、武功で知行地支給や諸役免除されたりする処は他の国衆と変わらず、農事ではなく産金を生業としている処が違うだけの模様。

黒川金山の衰退と共に、金山衆や金堀衆は四散した様だが、中には里へ土着して近世に豪士や名主として存続し子孫が現在に及ぶ例もあるとの事。

 

では次に、文献史学以外の視点も確認しよう。

当然ながら考古学…

幾つかの金山は当然の如く発掘調査されている。

それが、中山,内山,茅小屋の三金山の総称である「湯之奥金山」。

湯之奥は、中世の穴山文書にも登場し、かの「穴山梅雪」が治めた河内領に属した様だ。

 

ちょっと予備知識。

GoogleEarthより。

紫丸が湯之奥金山付近、赤丸は日蓮宗総本山久遠寺がある身延山

先述の黒川金山はこれらとは甲府甲州市を挟み北東になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

そう、南部氏初代実長が日蓮身延山へ招いたとする話は概報。

所謂「みのぶ道」は、身延山と湯之奥金山との中間を通り、南部実長の本領である「南部荘」へ至る…こんな位置関係。

おっと、釘を刺しておけば、南部実長は鎌倉中期の人物で武田信玄とは300年位差がある事は言っておく。

但し、祖先は同じ甲斐守を努めた源新羅三郎義光であるのは間違いない。

 

実は、この湯之奥金山、武田信玄の隠し金山の実態を掴もうと考古,文献,民俗,地理地質,鉱山技術,石造物らの共同調査プロジェクトで発掘も行われている。

では、成果…

中心的な中山金山の全容。

金鉱石を採掘した地域と、精錬や生活らを行ったテラス部とに分かれているのが解る。先の通り金の産金は、砂金→露頭した金鉱石からの精錬(練金)→坑道を掘った採掘と精錬…この様に変遷する。

ここ湯之奥金山では、

・沢脇に水路を設け、砂金を水流と比重差で選り分ける「セリ板」「フネ」が周辺旧家で確認…

・露頭した金鉱石を露天掘りした採掘跡の検出…

・坑道跡の検出…

・テラス部での鉱石粉砕用の石臼の検出…

と、江戸期に完全分業化する前の様相がほぼ揃う。

精錬施設や居住地があったテラス部は、平滑された基部に石垣を施し補強、江戸期の「金沢御山大盛之図」を参考にしたレプリカがこれ。

先述の黒川金山での「石垣」…

こんなテラスの補強用なのだろう。

また、精錬施設と思われるテラスは、コの字型に石積みが施され、柱穴や揺り滓,石臼らが検出。

場所により焼土跡もある。

精錬施設のテラスは石積みの壁と屋根を持つと想定出来る。

採集された陶磁器は、15~16世紀の貿易陶磁器、16世紀の瀬戸,美濃、17~18世紀の肥前ら。

つまり、この金山の運用は室町〜江戸初期位と想定可能。

では、鉱山技術。

採掘は、先の通り露天掘りと坑道(ひ押し掘り跡)が揃う。

精錬前の鉱石の粉砕は?

縄文期の叩き石,石皿によく似ているが、これが磨り石と磨り𦥑のセット。

露天掘りの鉱石の場合は風化が進み、これでも粉砕出来るのだそうだ。

問題はひ押し掘りでの鉱石。

当然風化してない。

そこで石臼が使われたのだが…

実は、ここに技術系譜が出る。

𦥑への供給口の位置(中央かそうでないか)と、上𦥑の留め方が違うらしい。

当然ながらスタートは穀𦥑からスタートするが、後に「湯之奥型」→「黒川型」→リンズ型と変遷している様だ。

リンズ型登場は江戸初期以降。

何故か、同じ甲斐金山のなかでも湯之奥金山は湯之奥型、黒川金山は黒川型と、見事に分かれるそうだ。

これ、両方出土するのは佐渡位の様で、概ねどちらかに限定されるのだそうで。

広域に広がるのは黒川型、局地的なのが湯之奥型の模様。

因みに、遠野市立博物館の展示。

供給口は真ん中、固定軸の部分にあるので、黒川型かリンズ型になるんだろう。

現状、湯之奥形は黒川型に至る過渡期と考えられている様なので、利用期間も短い様だ。

ついでに…

金銀銅の精錬についての話で筆者は「灰吹法」と書いている。

解り易い図があるので紹介しよう。

右上から…

①土器製らの坩堝に灰を敷き詰める

②鉛と和紙に包んだ金鉱石を載せ、坩堝の周りに炭で囲み加熱

③坩堝の上に鉄の棒を渡し、上からも炭で加熱する→金と鉛の合金になる

④フイゴで空気を吹き付ける→不純物や鉛が酸化

⑤鉛と不純物は表面張力が低いので灰に染み込みだす

⑥不純物らが完全に灰に染み込みんでしまう

⑦金は酸化せず表面張力が変わらないので灰の上に玉状の残る

⑧これが吹金で、鋳造した物を甲州金と言う

以上。

信玄時代に作られた甲州金は、⑦の状態で取り出された玉状そのもので、碁石に似ているので「碁石金」と呼ばれるそうだ。

表面は丸いが裏側は灰に当たった面でプツプツがある。

さて、ではこれら湯之奥金山の運用時期は?

先の陶磁器から推定出来る。

・開山→15世紀前半(貿易白磁)

・露天掘りや精錬の開始→15世紀末~16世紀前半(貿易染付)

・最盛期→16~17世紀(瀬戸,美濃)

・終焉→17世紀末頃

・再挑戦→18世紀(肥前)

と、割と傾向が見られ、門西家文書らの記載と概ね合致する様だ。

 

以上、簡単に纏めてみた。

どうやら、甲斐金山では少なくとも湯之奥金山では古代の産金を語る物の出土はなく、室町期以降に限定される様だ。

ここでふと思う。

なら、甲斐金山衆は何処でこれら産金技術を獲得したのだろうか?

武田信玄が生まれたとされるのが1521年。

信玄の隠し金山とは言われるが、陶磁器編年から見れば父の信虎かその前位からの開始なのだろう。

それより古い坩堝らの痕跡が無い。

延喜式での産金は陸奥と下野、古書上は駿河か。

ふと、予備知識…

身延山を介せば、確実に平安以降に産金と精錬or彫金を行っているのは陸奥

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257

根城や三戸南部氏から招聘すればほぼ可能。

まさかね…

ここで問題なのは、金は東>西、銀は東<西である事。

畿内ら西の技術でこれら産金が可能だったのか?

 

また、石塁らの構築は?

野面積みの石垣が出始めるのは鎌倉後期の元寇防塁。

穴太衆は寺社の石塁を手掛けていて、クローズアップされるのは戦国期。

古墳や寺社を除けば、むしろ…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045

払田柵は古い部類で、元寇防塁より古いとくる。

金銀銅にしても、石塁らにしても、技術系譜が何かピンと来ないのだ。

やはり、全国の山々を闊歩していた修験者に関わるのだろうか?

 

と、言う訳で、一つ学べば謎は2~3個は増えていく。

が、真実は一つしかない。

クールダウンの為、この項はここまで。

少しずつ学んで行こうではないか。

 

 

 

 

 

参考文献:

「日本鉱山史の研究」 小葉田淳  岩波書店  1981.4.10

 

「武田軍団を支えた甲州金・湯之奥金山」 谷口一夫  新泉社  2010.7.30