https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738
さて、この件も進めよう。
秋田、山形と来たら、次は岩手県。
同様の中世城館跡報告書を確認せねばなるまい。
前回迄の傾向から鑑みれば、
①羽黒修験系が登場する遠野周辺には、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
石積みはあるのではないか?
②秋田の状況から、鳥海山,出羽三山から離れた地域では石積みは薄くなるのではないか?
こんな事を想定したがどうか?
結論から書くと②になるのだろう。
9/1369になる。
だが、実質として
7/1369なのだろう。
では詳細を報告する。
だが、盛岡城は秀吉の奥州仕置の後に、前田や蒲生らが関与して築かれているので、カウントして良いか微妙である。
・柳田館…紫波町…石積み
主郭最上段の東端に土留状の石列
・岩清水館…矢巾町…石積み?
主郭最先端に2個の巨石、一方に東西一直線にホゾ穴が刻まれる。
・煙山館…矢巾町…石積み
郭内に石組み遺構と唐戸石と呼ばれる巨石が現存し、石組み遺構は古代石神信仰の関与又は狼煙台、唐戸石は朝鮮半島にある「支石墓」に類似するとの指摘あり。
・浮牛城…北上市…石積み
本丸跡に石積みの枡形虎口。
・白鳥館…前沢町…石積み半地下倉庫…※
ここは中世城館跡報告書に石積みの記載はない。
だが、「令和4年度奥州市遺跡発掘調査報告会」において、石積みの半地下倉庫跡(21SK6)が検出されたとの事。
郭Ⅱの虎口への通路確認でトレンチを設けたところ、虎口通路に面し検出。
建物の東壁として20cm程度の石を1m程度積み上げている。
北壁には石積みはなく、そこにある巨石そのものを壁として利用したと見られているとの事で、後の調査結果として追加する。
尚、白鳥館は俘囚長安倍氏の居館、中世は岩渕氏,白鳥氏らも居館としたとされ、古代〜中世と利用されたと考えられている。
・猪川城…大船渡市…石積み
明瞭ではない副郭の北側に複数の空堀跡があり、その中には法面に石積みが見られるが、館そのものの関与ではなく近辺の金山関連遺構ではないかとしている。
・松館…大船渡市…石積み
主郭に八幡神社があり、その参道際に「お墓」と呼ばれる石塚がある。
・九戸城…二戸市…石垣
筆者は昨年訪れている。
この野面積みの本丸石垣は、当初地元では九戸政実のものと考えられていたが、発掘により落城後蒲生レオン氏郷の手で改装された福岡城(南部信直居城)時代のものとされる。
但し、一部は在地系石工による構築も指摘される。
以上の通りである。
一応注釈だが、遠野市の鍋倉城にも古書では石垣との記述がある様だが、確認された中には石垣の記載がないので敢えて除外した。
特に矢巾町点紫波町エリアの岩清水館と煙山館は、従来の石積み,石塁,石垣とは異質なのかも知れない。
また、大船渡市の猪川城は後代の可能性もある。
分布は次の通り。
見て解る通り、大船渡市を除けばほぼ国道4号線、旧街道にそって点在しているのが解る。
この辺は、秋田の事例で推測した通り、人の移動で伝搬した可能性はあるのではないだろうか。
白鳥館同様、発掘で新発見はあり得るのだが、やはり秋田,山形の様に集中する感がないので、非常に薄く感じる。
秋田,山形に比べて平地が少ない割に、土台としての石垣が無いのは何故なのだろう?
岩手でも、石切場近くで尚、石塁が無い所もある。
何らかの条件が揃わないとやらない事になるだろう。
見事に鳥海山,出羽三山から離れれば施さない事がトレースされた結果になった。
また、ここでも石積みと狼煙台の関与。
余市、大崎山の石積みが狼煙台であれば…
まずは、次の青森の事例確認が先であろう。
さて、妙な事に気が付いたので追加しておく。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631
羽黒山にある「蝦夷館」で記事したが、秋田,山形共にそんな風に呼ばれている城館跡はポツポツあり、羽黒山の事例では薬師沢館が蝦夷館なりチャシなりと呼ばれている。
文献確認しつつ、やたら目立つと思ったので数えてみた。
別称も含めエソ館,蝦夷館,狄館,エン館,円館と称される箇所は、
33/1369
に登り、それも盛岡市以北の県北にかなり偏る様だ。
全域概観の解説によるとこれらの特徴は、
・山頂に立地
・頂部の平坦部の周りに空堀,土塁を伴う
・中には竪穴状の凹みを伴う物有り
・向かいあって対に存在する例も多い
・居住者,築城者らの伝承が殆ど無い
らがあるとの事。
これらを踏まえ、こう解説する。
・これらの性格は慎重に検討すべき。
・これらを短絡的にチャシ等と同一視すべきではない。
・江戸期の文書にそれら呼称が見当たらない為に、何時からそう呼ばれているかの確認が必要。
・山頂に立地する小規模施設は、城館付帯の物見台的な物の可能性も大きい。
・上記竪穴状遺構からは古代末の土器が検出される場合が多く、古代に属する可能性が強い。
・向かいあった山頂に立地する一対のものとして存在するものがあり、これは通常の城館には見られない特徴。
・11世紀頃の防御性環濠集落が含まれるだろう。
として、性格規定が必要としている。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507
下北半島のフィールドワークで学んで来ているように、津軽側と違い、南部氏側の公式古書記録上で夷狄とする表現は無いそうだ。
それなのに、何時の間にかそんな呼称がポロポロ出てくる様になる事がおかしいのだ。
以前に報告したが、東北の研究においては、以前一時チャシと表現されてものはその呼称はやめて、発掘の上で中世城館か古代防御性環濠集落かを判断し登録し直している様だ。
某所で雑談でお聞きした通り、「柳田國男博士の弊害」とはこれだろう。
類似するものを「蝦夷館」「チャシ」とごちゃ混ぜにして呼ばれるきっかけを作ってしまった事。
ましてや、本州の中世城館の中には、防御性環濠集落の土塁,空堀を利用点拡張して利用したものもある。
この辺が、定義付けのし難い所なのか。
ここで一考。
土木技術の変遷として、考えた場合どうなのか…
防御性環濠集落と中世城館との間に差はあるのか?
勿論、次第変遷で畝状空堀群化したり、畝状竪堀群が出現する時期の特定は進んでいるかと思う。
ここまで中世城館調査報告を並べて読んでみて、県同士のカテゴライズは割とバラバラな気がする。
当然、地形差があるので、山頂平坦部型か?舌状台地切岸型か?ら偏重して当然だ。
また、北海道では似た構造のものをチャシと呼称しているので都道府県間で今迄一様でないのは何となく解った。
ただ、構築技術の系譜を捉えるとしたら、何時かは必要になる作業だとは思うのだが。
この辺は、城郭について筆者も少しずつ学んでいかねばならない宿題でもある。
少しずつやらないと石塁をどう位置づけすべきか手掛かりが無い訳で。
さて、県単位での傾向確認やカテゴライズはこれら文献でも記載される。
土木技術として捉えた場合、北海道は?だ。
何故こんな事を書くのか?
これは、今迄もブログで言ってきた疑問があるからだ。
幕末の状況から鑑みて、果たして前時代にチャシを構築出来たのか?だ。
以前、萱野茂氏のチセ再現過程は紹介している。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
幕末に畑作らを行う時に使ったのは、記録では木の株らの鍬等。
Ta-bら江戸初期の火山噴火前、擦文文化遺跡や降灰直前で鍬先らが検出しているので、チャシ構築はそれらを使えば可能だろう。
擦文文化遺跡と同時期の北東北〜道南では、防御性環濠集落が構築されている。
裏付け出来るであろう。
で、近世では?
帆立貝の貝殻で穴を掘り、木の株で土地を耕す…
隣で本州からの江戸期移住者や請負場所支配人らが鉄の鍬らで土地を耕すのを横目で見ながらだ。
彼らが鉄器を持っていない訳ではない。
間切包丁(マキリ)装備なのだから。
不自然だとは思わないか?
これ、思考を真逆にすると割と説明出来そうなのだが。
防御性環濠集落を作った人々が、北海道で土塁と空堀を構築すれば、何ら問題無くやれるだろう。
まぁ構築前の時代から、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
こんなもんである。
東北からの移住により擦文文化は出来上がる。
そこから行き来し、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
対岸、野辺地の状況を見れば、防御性環濠集落の時代にも塩や鉄器らをベースとして、盛んに行き来しているのは解る。
これらの人々なら、チャシ構築は可能だし、後にそれが技術維持されるのは問題無く可能だろう。
なら近世は?
それらはロストテクノロジーとなり、上記通り。
では…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
少なくとも、ノイアサックの集団とチャシ構築した集団とは別。
ノイアサックは、飢えと寒さで全滅としたが、それ以前にチャシは廃絶され、一度津波に襲われている。
つまりノイアサックはチャシ構築集団が津波に襲われたのを知らない可能性がある。
ノイアサックらは漁民且つ松前藩交易船とのやり取りが生業。
と言うか、フリース船隊のメンバーは樺太や千島も含め、彼らが農作物を作る様子は全く描いていない。
まぁ、普通に解釈すれば、自らチャシ構築集団とは別集団だと言っているのだから、チャシ構築集団が不在になった所へ移住してきたと考えるのが妥当ではないだろうか。
元々農業をせず、チャシ構築技術を持たない集団だから、鍬らを必要とはしないだろう…と、言う訳。
その時代の土木技術の視点を入れれば、そんな所ではないだろうか。
つまり、土木技術を持つ集団と持たぬ集団、2つある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/05/112644
災害の視点を入れれば、土木技術を持つ集団と持たぬ集団の入替えが起こっても、何の不自然もない。
合理的に説明可能。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208
土木技術を持つ集団は、
・仏教を知り
・文字を知り
・馬を知る 集団の可能性が高い事はお忘れなく。
因みにユクエピラチャシ出土の小札だが…
これは一戸城の出土品。
そして、蝦夷館と呼称される割と構造単純なものらは秋田,山形にもあるが、特に岩手県北部に集中する特徴がある。
「糠部」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
わざわざ書いてあるではないか。
「糠部から移住した」と。
これらが土木技術を持つ集団。
さてでは、土木技術を持たぬ集団は?
記録…無し…
まぁ少なくとも、この集団は思い切り北東北と同じ文化を持つ集団である事を付記しておく。
さて、残るは「青森県の動向」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507
少なくとも、下北半島には石積み,石塁,石垣は無さそうである。
これらで青森県の傾向が先の②、つまり、殆どそれらが無い、又は十三湊ら一部に少しだけ分布する…こんな傾向が見られた場合は、答えは見えて来るだろう。
源流を東北に見た場合、鍵は「出羽三山」に有り…と。
だが…
こんなもの、予習に過ぎない。
余市の石塁の探究と同時に、筆者には挑むテーマがある。
石工の存在を明らかにした上で、
秋田に伝わる石竈、そして中世に竈はあったのか?…この謎を解くのがミッション。
バラバラに見えるそれぞれのミッションは繋がっている…いや、勝手に繋がってきたと言うべきか。
少しずつ、学んで行こうではないか。
参考文献:
「岩手県中世城館跡分布調査報告書」 岩手県教育委員会 昭和61.3