関東視線で見た「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」…赤彩球胴瓷、長い竈の煙道、馬の飼育、黒色土師器、そして「エミシの移配」とは何だったのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/10/180459

以前に報告している「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」の件…

赤彩球胴瓷が関東で検出され、38年戦争の後に始まった東北からの蝦夷(エミシ)の移配先の一つであろうと言う話に触れた。「上っ原遺跡」である。

なら、それを直接発掘した方々らがどんな風に見ていたか?報告したい。

この上っ原遺跡、単独の遺跡ではなく、周囲の遺跡と隣接したものらしい。

と、言うのも、帝京大学八王子キャンパス建設に伴うもののようで、竜ヶ峰遺跡や大塚日向遺跡と合わせて「帝京大学八王子キャンパス構内遺跡群」と呼ばれ、旧石器,縄文,古墳,奈良,平安,江戸,近世,現代と多摩地区の歴史を物語ってくれると言う。

で、前項では、赤彩球胴瓷,エミシの故郷である北上や胆沢の視点で見てみた。

奥州市埋蔵文化財調査センターの常設展示パネル、エミシの移配について。

蝦夷(エミシ)と一口で言っても、実際はこの通り、

まつろわぬ人々→俘囚→移配され移住…

となる為に、別に東北だけの話ではない。

日本各地から他地域へという記載が残り、特に陸奥からは715年には伊予,筑紫,和泉への移送記録があるので、二千人の大規模移配があった阿弖流為降伏以前から、そんな事は種々の理由から行われていた事になる。

特に、715年なら国府多賀城築城が724年なので、朝廷の古代城柵築城以前からやっているのは興味深いところだ。

別に古代城柵という軍事的プレゼンスが無くとも、協力的な長は居た事に。

そりゃそうだ。

東北にも前方後円墳はあるのだから。

 

さて、では実際に発掘した方々、つまり関東視点でそれらを見てみよう。

2021年頃に帝京大学で行われた「エミシ研究講座」の資料が総合博物館館報として纏められていたので、そちらから。

ついでに予め。

我々東北人は極見慣れた「黒色土器,内黒土師器」と言われるものにも触れてみたい。

①発掘時の印象…

実際発掘した平野修氏(当初、山梨にいた)によると大家竪穴住居発掘時、

・石組みした竈の煙道が長く違和感を持った。

・建物から土器と一緒に牛の骨(当初馬と思った)が見つかり、あれ?と感じた。

・土器は南多摩窯跡群の須恵器が概ねを締め当然と思ったが、中に山梨特有の物が一点あり、あれ?と感じた。

・一点だが金属の銙帯の巡方が見つかり、役人が居た事を確認した。

・土師器の瓷が出土したが、作りが古墳期並に古く感じた。また、碗が出土したが、光沢ある内黒で山梨らとは違うと感じた。

・赤彩球胴瓷を見つけた。土器の作りが古く、赤いい装飾がつけられていたのでおかしいなと思った。

との事。

この中で、赤彩球胴瓷に関しては当初、特殊な移入品と考えたようだが、東北の赤彩球胴瓷の事例を知り、9世紀前葉に終焉を向かえる事から彩色のベンガラと胎土を分析したところ、多摩周辺の物と一致し、持ち込まれた物ではなく、その文化を持つ人物がこの地で作ったものと判明した。

また、甲斐の須恵器を伴う為、一度甲斐に派遣された人物が、甲斐経由で多摩へ更に移入したとも考えられるとの事。

記録上、甲斐へは巨麻郡への移入はあるので可能性はある。

巨麻郡は高句麗系渡来人が多く住んだ様で、エミシの移配先は渡来系と重なる事が多いそうで。

また、竪穴住居の長い煙道も、武蔵を含めた関東圏では短い又は殆ど無い傾向だが、東北は長い煙道を持つのが特徴でここも一致。

この煙道の長い竈は多摩丘陵ではポツポツあるそうで、家族や小集団で東北から移り住んだエミシであろうと言う結果へ辿りついた模様。

 

②移配されたエミシはどんな暮らし?…

エミシが居たのかは、移住先の農民に「俘囚料稲」と言う課税の有無でも解るらしい。

国府からエミシの生活用に稲を貸し出し3割を付加し課税、残りは手元へ。

その3割分がエミシへ給料として支払われたとの事。

では、どんな暮らしをしていたか?

多摩丘陵地域の小野牧、と言うより武蔵国では古代牧場、それも御牧,御院牧の様な天皇上皇へ収める牧も含め開かれていた。

こと、中堀遺跡は寺社や鍛治工房含めた大集落だが、天皇直接の田や牧が運用され、これが9世紀突如出現し10世紀迄続く。ここに長い煙道の竪穴や「狄」と墨書された土器が出土する。

先の牛の骨を含め、牧での牛馬の飼育や牛の骨を使った皮なめしら工人として従事したと考えられる。

又、鉄器として斧や鎌があり、焼畑らで牛馬用の雑穀栽培らも含めて従事したようだ。

ここで、阿弖流為vs朝廷軍の戦いに於いての坂上田村麻呂が勝利した時の馬の鹵獲数が膨大だったり、延喜式にある陸奥馬の価値の高さを思い出して戴きたい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428

馬については何度か取り上げている。

特に平安で陸奥の馬は最上級で群を抜き、特に軍馬で使える大型を中心に何度も私的取引を止める様に指令が出る程なのは解っている。

品質向上の為の移入としてもおかしくはない。

また、先の金属の銙帯をどう見るか?

昨今、これを低官位の役人と見る説は出てきている。

特にこの銙帯が出土した竪穴住居は平均4m四方位に対して、6m四方と集団の長的な存在なのではないかとされる。

つまり、強制的な移住だけではなく、牛馬の飼育指導の役人としての派遣と言うもの。

この辺はこんな事例も。

六ケ所村郷土館展示パネルより。

ここも牧跡に程近く、一個ではあるが銙帯は白い石帯。

これが牧に携わる者を示すとするなら、かなり高待遇である事も想定せねばなるまい。

 

③牛馬の用途…

これは当然ながら、軍馬,駅馬,牛車ら乗物として、畑や田んぼを耕す農耕用として使われたのがメイン。

西の牛、東の馬のイメージ…昨今考古学研究で出てきた成果では、必ずしもそれは成立しないそうだ。

上記に牛の骨があるように、東日本でも牛は飼われ「蘇」を租税する義務が定められていたのは、北海道,東北,九州を除く関東を含む概ねの地域。また牛皮も納品対象となっていたとあり、牛は飼われていた様だ。

糞は堆肥利用である。

特に馬糞の方が熱を発する為に、北の方では有効だったのではないかとある。

祭祀用としては、こと水に絡む話では牛の首を切り落として捧げる事が行われていた様だが、これは途中で人形に変わるのは以前報告済。牛の埋葬をみると完全にバラした上で、骨を再組立の上でやっているとの事。

その上で、必ずない部位が存在し、それは骨髄の多い部分だそうで。

また頭蓋骨は割られている事が多いとか。骨髄や脳漿は、皮なめしで皮についたタンパク質や脂肪を分解するのを促進させる時に漬け込むのだそうだ。

養老厨牧令には、官馬,官牛が死んだ場合に、皮と脳、角、胃、胆嚢(牛黄)らを取る様に規定されているそうだ。

牛黄は漢方薬である。

で、骨髄が少ない部位、肉がついた部位は?…結局、神に捧げた後にご馳走食べた模様。

奈良〜平安途中迄は食べたたりした記録はある模様で、「肉食は穢らわしい」との記述が出てくるのは中世史料やバテレンの記録だそうだ。

「続日本記」の「伊勢ほか七ヵ国の百姓が漢神に牛を殺して供えるのを禁止」…これも、神への捧げ物を「穢らわしい」とするのもどうか?…最近はこんな解釈もある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/04/194340

まぁ現実には、江戸期でさえ野犬が居れば捕まえて犬貝焼きに、鉱山では滋養強壮の薬として医師の処方で食われていたのは知れた話。

我が国は宗教原理主義ではない。

へばれば医師が処方、祭祀なら陰陽師や修験が祈祷の後に。

むやみに殺す事はしない。

まぁ東北にはマタギが居る。

殺してしまった時には一片の無駄なく戴く…「勿体無い」の国だ。

胆嚢は薬として必要なのだ。

だから、それらの仕事には独自の宗教が絡むと、考えればどうか?

勿論、牛馬を供えられるなんて贅沢が出来るのは、御貴族や豪族。

一般庶民にはムリな話、牛馬はそれだけ貴重且つ高価なもの。

次は腱。足首らに刃物傷があるそうで、コラーゲンの塊…膠の材料。

まぁこんな仕事を専門にした人々は工人衆として長吏管轄に置かれ、「中世以降」には一定の権力の下に囲い込まれ、大量の水が必要な為に水場周辺へ…

平安前半迄は、それをエミシが担ったりしていた痕跡ともなるのかも。

たまに書いているが、権力も宗教を含めた権威も、全く聖なるものだと我々は考えてはいない。

光あらば、また影もある。

それは現代も変わらない。

感情論は不要、必要なのは事実のみ…それが学問なればだ。

それを利用したプロパガンダも不要。

 

④内黒土師器について…

これについては、筆者も学び直す必要がありそうだ。

と、言うのも、

これは由利本荘市郷土資料館のもの。

右側にある、内側が黒くなっている土師器がそれ。

黒色土器と言われる方が多いのか?

柳沼賢治氏の「古墳時代の時代区分と土器  北縁の古墳文化とその交流―横手盆地を中心に―」によれば、内黒土師器は信濃の発祥。

後に新潟や関東へ伝搬しそれらが北上したようで、早期では庄内→秋田、関東→福島と伝搬させたとも思わせる。

と言うか、秋田では写真の様に彼方此方の資料館らでボコボコに見られるので、一定比率で日本中あるものと思い込んでいた。

当然北海道にも、内黒土師器はある。

これは江別市郷土資料館のもの。

それどころか内黒擦文土器すらある。

だが、北陸へフィールドワークされた方曰く、北陸に殆ど無いと。

どうやらこんな事らしい。

陸奥国らへ伝搬した内黒土師器は、経由した関東や北陸では須恵器らにとって変わられ、一時全く断絶するのだそうだ。

発掘した平野修氏が古い土器と印象を持ったのはこの為。

そして何故なのか?内黒土師器は東北では古墳期に伝搬、須恵器や木器の伝搬が起こった後の平安期もそのまま作られ続けられる。

それも、古墳期に関東から伝搬した段階では艶が無かったものが、東北では何故かテカテカに光沢を放つ様になっていく。

筆者が見慣れているのはこの光沢のある内黒土師器。

ここで疑問が。

・東北で何故、この光沢ある内黒土師器を必要としたのか?

・何故、移配されたエミシ達はわざわざ須恵器が主流の武蔵国で内黒土師器を作る必要があったのか?

一応、従来より内黒にする理由は防水の為ではないか?とは言われているのだが、ハッキリした理由は解っていない様だ。

 

④関東の北海道,東北への影響…

上記にある、長い煙道の竈の件は、当然ながら西日本〜関東,北陸からの影響で成立する。

これは古墳等北上ら葬送方法も関与してくる。

実際、竈付きの家に住み、屈葬→伸展葬になるのは、これらの影響になる。

当然、これは北海道にも及ぶ…極当然の話なのだ。

この影響を及ぼす伝搬ルートは五つ想定している様だ。

・太平洋ルート①…

常総中央→三八地域へ(6末~7世紀前)

煙道が短い竈と張出付土壙末期古墳が特徴

・内陸①ルート…

下野,陸奥南部→胆沢へ(6末~7世紀前)

煙道が長く焚口に横石の竈と土壙型末期古墳が特徴

・内陸②ルート…

南武蔵→胆沢~志波へ(7世紀前半)

礫を使った石室を持つ末期古墳が特徴

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231

北上の江釣子古墳群らがこれに当たるだろう。つまり、赤彩球胴瓷を使う集団。

日本海ルート…

越→出羽,津軽,奥尻島,石狩低地へ(7世紀中葉)

これが「阿倍比羅夫」が通過したルート。

・太平洋ルート②…

三八→石狩低地へ(7世紀後葉)

竈付き竪穴住居と土師器技法が特徴。

 

但し、大量の人の移動を伴うか?は慎重に考えるべきとしている。

ここでこれまで学んだ事を…

これに実際は、文化伝搬の濃いところ&朝廷北進も関与したもので、民間レベルなら既に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

弥生と続縄文文化の繋がりはあり、それで恵山式土器が生まれる。

まぁ縄文で既に道南と北東北(秋田市~盛岡市ライン辺り)で円筒土器文化圏を形成している。

ここまで繋げれば、ある程度納得戴けるのではないだろうか。

元々縄文で既に津軽海峡はしょっぱいデカい川。

地の人々は、渡る手段を知っている。

 

如何であろうか?

陸路ルートの文化伝搬はもう少し複雑の様な気はするし、秋田県内も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033

古墳期遺跡が希薄な秋田。

この鳥海山麓→由利本荘雄物川,羽後→横手,湯沢へ…こんなルートもありそうだ。

海路の場合、途中をスルーし、一気に動く事も出来るので、痕跡が飛び飛びになるのも見えにくい点ではある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325

大清水台Ⅱ遺跡の報告の考察では、陸奥国側は面制圧、出羽国側は湊を押さえる点制圧。

平地を進める陸奥側に対し、朝日山地,出羽三山,鳥海山,白神山地、そして奥羽山脈に囲まれる出羽国側は簡単に陸路では進めない。

そんな地形特性はあるかと我々も考える。

さて、上記の疑問…

内黒土師器,黒色土器と言われるこれ。

何故こうも使い続ける必要があったのだろうか?

陸奥と出羽の特性と言えば蓄財品の宝庫であった事。

米,絹,馬、そしてこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

砂金。

かなり後代にはなるが、尾去沢鉱山歴史館の常設展示なのだが、砂金や粉砕した金鉱石を比重で選り分ける作業の最後はこんな椀を使った。

これ…

内面に黒漆塗り。

当然かも知れない。

黄金色に対して黒は最も対照的。

砂金を目立たせたければ黒い容器だろう。

しかも、墨塗りではなく漆を使っている。

光沢がある方が見易いなら、そうするだろう。

奈良〜平安なら、初期段階の容器は土師器。

これを転用したなら、当然の用途になるのではないか?

椀での選り分けは、中世どころか近世迄行われている。

まぁ、邪推はここまで。

この件は、内黒土師器の伝搬過程や各地の鉱山らの実績を見ていこう。

 

歴史は必然。

なるべくしてなる。

背景の中に必ず理由となる事象は眠る。

必要な部分全てを学ぶしかない。

 

 

 

 

 

参考文献:

 

帝京大学総合博物館企画展  古代多摩に生きたエミシの謎を追え」  帝京大学総合博物館  2019.1.15

 

「エミシ研究講座」八木光則/平野修/荒井秀規/杉本良/植月学 『帝京大学総合博物館館報第4号』  帝京大学総合博物館  2022.3.31

 

古墳時代の時代区分と土器  北縁の古墳文化とその交流―横手盆地を中心に―」 柳沼賢治   2020 年 10 月 3 日