和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045

さて、前項から話を広げてみる。

これらの話の延長で墓の副葬はないか?…

前項確認時は経塚やそれに類するものと推定された事例だった。

だが、そんな話以前に、筆者が前日に他県訪問で見つけた事例を話したら驚かれた。

筆者は何度か訪れて毎回目にはしていたが、寺院跡から出土している和鏡。

国見廃寺跡出土の「瑞花双鳥八稜鏡」。

墓の副葬どころか、廃寺跡から。

しかも懸仏的に使ったのか、2つ孔が開けられている。

前項にあるように、宗教具としての意味合いが強いのだろう。

瑞花の意味は「豊年の瑞兆、転じて雪」だそうで、これを懸けて豊作を祈ったのであろうか?

では「国見廃寺」とは?

http://kunimi.kitakami-kanko.jp/sphone/history/index.html

北上観光コンベンション協会様のHP。

現在の極楽寺がある国見山の南山麓に有った寺院群跡である。

極楽寺には、当時のものとされる竜頭頭が四頭、錫杖頭一柄が残される。

一応…

「国見廃寺と周辺の寺院跡」  北上市立博物館  平成29.9.22 によると、考古資料から陸奥六郡俘囚長安倍氏との関係を直接紐付ける物は無かった様だ。

だが遺跡の伽藍の変遷を見ると、

・創成期(9世紀)

本堂のみの小さなお寺

・発展期1(10世紀)

多重塔を含む9棟の礎石建物ら

・発展期2(11世紀)

本堂の巨大化

・衰退期(12世紀)

堂塔がほぼ喪失

こんな風になる。

正に安倍氏の盛衰と重なる変遷を遂げており、北上盆地をその基盤とした安倍氏の中心的宗教施設と捉えられる。

政治的基盤の一つがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

鳥海柵

これより南、奥州市長者原廃寺跡が巨大な儀式空間を有しセレモニーハウス的な意味合いに対し、国見廃寺が修験道場的な修行の場と他の廃寺との配置から守護結界の中心としての意味合いを持つ様だ。

鳥海柵には関連項の通り、空堀で区切られた結界の中に四面庇付建物が検出されており、安倍氏は国見廃寺らの大檀那としての宗教的権威と俗世としての政治的権力を両方握り、祭政一致の支配構造を作っていたものと推定される。

国見廃寺の衰退期には、前九年合戦時に出羽三郡俘囚主とされる清原氏が建立したとされる白山廃寺が建てられる。

安倍氏攻撃の立役者となった清原武則鎮守府将軍を拝命し胆沢に移ったとされるので、概ね話は合致、安倍氏の宗教的権威を自ら建立した白山廃寺へ写したとも考えられる。

 

さて、瑞花双鳥八稜鏡に戻ろう。

先の写真の和鏡はSB014礎石建物跡の近接より出土、その構造から神社遺構とされた近接から出土した様で、神社遺構は概ね10世紀後半~11世紀前半と推定される。

岩手県内の八稜鏡はこの他に、国見廃寺でもう一面、どじの沢遺跡・黄金堂遺跡で一面、昼場沢遺跡で一面、柳之御所遺跡で一面との事で、概ね柳之御所遺跡の12世紀以外は10~11世紀のものと推定される。

仏教遺跡又は鏡面に阿弥陀三尊像線刻があり、安倍氏の時代、安倍氏にとっても重要な仏具の一つであったであろう事が伺える。

又、柳之御所遺跡の八稜鏡は破壊され、

割れ口に摩耗が見られる事から「破鏡」として伝世し井戸状遺構に沈められた可能性があり、奥州藤原氏安倍氏の宗教的側面を継承していた事を示すそうだ。

この時代の仏具や修験に関わるであろうものは北上市立博物館の展示で見学出来る。

・錫杖頭…

・竜頭頭…

・鉄鐘…

・銅小鰐口…

螺髪状土製品…etc…

錫杖らは修験の道具とも知られる。

後代、鎌倉評定衆として陸奥磐井郡を拝領する工藤祐時の一族は、南北朝時に奥州探題葛西氏との抗争に破れその配下に入るが、秀吉の奥州仕置により葛西氏が没落すると浪士となり、羽黒修験の修行の後に修験の道を歩み、その子孫が薬王院法印として明治に至ったとされる。

それら伝世品の中にも、鏡から変化する懸仏や錫杖、鰐口らが含まれる。

と、言う訳で、国見廃寺と和鏡繋がりから、東北の宗教観のほんの一端を。

 

では、ここから北海道を含む北の地域で、これら仏具や修験系の道具が研究者にどう捉えられているか?

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀氏によれは、まずその交流は、日本海ルート,太平洋ルートで行われていた交流は、8~9世紀に一度本州側での擦文土器の断絶から日本海ルートつまり秋田城での朝貢活動へほぼ集約され、それが元慶の乱後に崩壊していき、その廃絶や土豪らの台頭と製鉄技術,須恵器窯技術拡散,五所川原須恵器窯跡稼働とそれぞれ土豪間の交易,それら土豪陸奥,出羽国司ら地方官僚との関係へ変貌するとしている。

細かい部分は諸氏に差はあろうが、まずこの取引らのルートは概ね合致する模様。

この辺は我々も前から報告している通り。

 

では錫杖から。

「井上雅孝氏(2002・2004・2006)は、古代北東北を中心に分布する「錫杖状鉄製品」について、「鍛造製で、頭部が左右に円環をなし、鉄輪を掛け、鉄鐸(筒状鉄製品)を装着」すると定義し、形態から I 類(正面形タイプ)とⅡ類(断面形タイプ)に大別した。さらに、「仏具の錫杖と同一のものではなく、錫杖の全体的な形態を模倣し、かつそれに神道具の鉄鐸を簡略化し装着」したものであり、これを「神仏習合の雑密系祭祀具」と結論して、8 世紀後半~ 11 世紀前半の年代観を与えた。一方、小嶋芳孝氏(2004)は、錫杖状鉄製品に伴う鉄鐸(筒形鉄製品)について、「古代北日本の筒形鉄製品は、舌を伴わない」(舌を有する西日本型鉄鐸と相違)=むしろ北方ユーラシアの筒形鉄製品に似るとして、錫杖状鉄製品の系譜を、むしろ北東アジアに広がるシャーマニズムに関連した器具とし、「10 世紀前後の北東北では、シャーマニズム密教系仏教が融合し、蝦夷

社会の固有宗教として展開していたのではないだろうか」とした。しかし、岩手県矢巾町高清水遺跡、青森県蓬田村蓬田大館遺跡出土錫杖状鉄製品の鉄鐸は舌を伴うことから、錫杖状鉄製品のルーツは本州由来とみて差し支えない(井上 2006)。 入間田宣夫氏は、東北地方に分布する錫杖状鉄製品について、その「独自性」は否定できないとしつつも、これらの製品は基本的に南の宗教者たちが持った錫杖とみてよいのではないかとする(入間田 2018)。しかし錫杖状鉄製品は、素材的にも形態的にも、地域的な分布も錫杖そのものとは異質であり、独自性・特異性を軽視できない。

井上氏は、錫杖状鉄製品の起源について、日光男体山山頂遺跡出土鉄製錫杖に全体の形態が類似し、付属する鉄製品も同遺跡から多く出土する鉄鐸を祖形とするとみられることから、雑密系修法をおこなった日光男体山を淵源・発信地として成立したとした。8 世紀後半の長根Ⅰ遺跡(宮古市)、沢田Ⅱ遺跡(山田町房の沢遺跡付近)での出土例が最も古手であり、井上氏は、8 世紀に関東で流行した雑密が太平洋沿岸ルートで早い段階に三陸沿岸に伝播したと推察する(9 世紀前葉の茨城県石岡市鹿の子 C 遺跡で出土例)。これは文献上の「幣伊村」(閉村)に当たる地域であり、留意される。 内陸部での展開はやや遅れ、9 世紀前葉~ 10 世紀代に古代東山道ルート上(米代川流域~津軽地方まで)に拡大する。これを井上氏は、元慶の乱の戦後処理に伴うルート整備によるものと推定するが、基本的に首肯できる。錫杖状鉄製品は、10 世紀代に「北東北で最後の隆盛期」(時枝 2002)を迎え、11 世紀前半代に衰退する。井上氏は、安倍氏の仏教信仰導入によって呪術的雑密信仰がしだいに駆逐された可能性があるとする(井上 2006)。

近年、北海道でも錫杖状鉄製品の出土例が確認された。千歳市末広遺跡の IH-97 竪穴において、5 点の筒状鉄製品(4 点は一括出土)と、「刀子の未成品か」と別々に報告されていた鉄器(千歳市教委 1985)が、セットで錫杖状鉄製品(Ⅱ類)となることが判明した。IH-97 は、一辺約 5 mの隅丸方形プランのカマドつき竪穴住居で、焼土、鍛打滓から小鍛冶関連遺構と思われ、竪穴および周辺から鉄製品や鉄滓、羽口が出土している。946 年の B-Tm 降下直後に掘開された竪穴であり、カマド出土のロクロ土師器坏、擦文甕などから、10 世紀中葉~後葉と考えて矛盾ない。Ⅱ類の錫杖状鉄製品は、井上編年で 9 世紀前半のタイプとなり、竪穴の年代と合わないが、

井上氏は、10 世紀後半の津軽に分布する「蕨手状刀子」が錫杖状鉄製品と関連する可能性を指摘しており(井上 2002)、Ⅱ類の錫杖状鉄製品が実際には 10 世紀後半まで後続した可能性がある。」

 

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀  『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3  より引用…

 

諸氏の検討から、伝来や運用の中で特異性は生まれた事は無視出来ないとしつつ、錫杖は北方由来ではなく、本州由来とする論で落ち着きをみせた様だ。

それは、日光男体山で生まれた雑密教系から伝搬するが、安倍氏が正規仏教導入した処から呪術的雑密教が駆逐されていくとしている。

つまり、先述の「国見廃寺での修行」が大きな役割を果たしたと言えるだろう。

さて、銅碗。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/22/201652

今迄も取り上げてきた。

「仏具としての鉢・鋺と錫杖のセット関係については、『性霊集』巻第 3・16「恩賜百屯の綿兼ねて七言の詩を奉謝する詩」に、「方袍苦行す雲山の裏 風雪情け無うして春の夜寒し 五綴・錫を持して妙法を観ず 六年蘿衣して蔬湌を啜ふ」とあり、修行僧が山野で「五綴・錫」すなわち鉢と錫杖を携えて瞑想・修行していることが詠われている。鋺と鉢を同列に扱ってよいかは問題であるが、鉢(鉄鉢)はしばしば銅鋺の模倣であったとされるので(原1996)、ここではひとまず共通性の高いものとして取り扱う。原明芳氏は、長野県を主たるフィールドとして、銅鋺は 7 ~ 8 世紀代までは古墳から出土する例が多いが、9 世紀後半から 11 世紀にかけて集落遺跡から出土するようになるとする。当初、中央貴族層や地方豪族層の高級食器であった銅鋺は、9 世紀には食膳具の頂点の座を施釉陶器に譲り、仏具としての性格を強め、とりわけ集落の有力者による現世利益的な仏教呪術の祭祀具となったと推測する(原1996)。
石川県羽咋市の寺家・福水ヤシキダ遺跡(9 世紀後半)では、水場(井戸状遺構)近くの祭祀遺構から錫杖、銅鋺、三鈷鐃がセットで出土している。同様のセット関係は日光男体山山頂遺跡でも確認されている。三鈷鐃は青森県でも五輪野遺跡、山口館跡、蓬田大館遺跡、砂沢平遺跡から出土している。ただし、これらの遺跡においては寺家ヤシキダ遺跡や日光男体山山頂遺跡のようなセット関係は明瞭ではない。また、三鈷鐃の北海道からの出土例はない。北海道内における銅鋺の分布は、恵庭市厚真町平取町釧路市にまたがり、「太平洋沿岸交流」の存在を示唆する分布傾向をみせている(関根 2008、蓑島 2012a)。とくに、胆振東部~日高西部の厚真・平取からの出土例が増えている(表 1)。このように、錫杖状鉄製品、銅鋺のような祭祀関連遺物は、10 世紀前後に津軽海峡を越える分布をみせる。先述のとおり、この時期は、秋田城を舞台とする朝貢交易が終焉し、『新猿楽記』の八郎真人をひとつの典型とするような、新たな「商業的」交易者たちの活動へと切り替わる過
渡期にあたる。こうして生まれつつあった経済は、その成立を可能ならしめる価値観、イデオロギーの共有・広がりを必要とした蓋然性がある。銅鋺や錫杖状鉄製品から推察される、東日本~北奥羽に共有された祭祀・儀礼(具体的には雑密的呪術的信仰?)の広がりの背景の一つには、そのような事情があったのではないか。銅鋺や錫杖状鉄製品が北海道の一部地域からも出土していることは、こうした祭祀・儀礼津軽海峡を越える交流の媒介となった可能性をうかがわせる。とりわけ、銅鋺・錫杖状鉄製品の分布状況から、これらの祭祀・儀礼は、「外ヶ浜」と先述の「太平洋交易集団」を結ぶルートの交流・交易において重要であった可能性が高い。

ただし、このような祭祀・儀礼は、広域的な交流を媒介する役割を担った一方で、北海道社会
内部への伝播・普及については、限定的・選択的であった側面も否めない。鈴木琢也氏(2014)は、古代北日本の錫杖状鉄製品・鉄鐸と銅鋺をセットとしてとらえ、「密教(雑部密教)系の儀礼・祭祀具である可能性が高いものであり」「東北北部だけでなく北海道
の太平洋沿岸域・石狩低地帯に流入している」と指摘するが、いうまでもなく、こうしたモノの流入が、それに伴う思想の伝播をどの程度反映するかは、簡単には評価できない。
先述の寺家ヤシキダ遺跡や日光男体山山頂遺跡では、錫杖、銅鋺、三鈷鐃がセットで出土して
おり、古代の東日本~北日本に広がった祭祀・儀礼のひとつの典型・指標を示すものといえよう。
青森市野木遺跡や同高屋敷館遺跡、八戸市林ノ前遺跡では、錫杖状鉄製品と銅鋺がともに出土し
ており、上記のパターンから崩れてはいるが、一定のセット関係の存在を示唆する。しかしながら、北海道で出土する銅鋺は、現状で錫杖状鉄製品と伴わない。このことは、古代東日本に由来・淵源する「雑密系」儀礼具のセット関係とその背景にある思想が、どれだけ体系的に北海道社会に受容されたものだったか、疑問を抱かせる。加えて、東北北部・北海道における銅鋺の出土状況にも留意される。擦文期の銅鋺はほぼ例外
なく破砕を受け、被熱しているものもある(表 1)。青森で出土する銅鋺・銅鏡も大半は破片資料であり、中澤寛将氏は破鏡に類する行為を想定している(中澤2017)。一方、日光男体山山頂
遺跡で出土した銅鏡は、平安期のものを中心として 185 面を数えるが、そのうち小破片は 10 面に過ぎない(中川・降幡 2014)。青森出土鏡との取り扱いの違いは際立っている。日光男体山山頂遺跡では計 13 点の銅鋺・銅盤・銅鉢も出土している。完形のものはみられないが、それは長年の風雪等によるものであり、意図的なものとは思われない。また、これらの銅鋺には鋲を打って補修した痕跡がみられる(日光二荒山神社編 1963)。松本市三間沢川左岸遺跡
の 10 世紀後半の竪穴から出土した銅鋺は、6 片に分かれて出土しているが、これにも銅板をあて五箇所を鋲で打った補修痕のある例がある(原 1993)。銅鋺は、頻繁に補修して使用されるものであったことが推察される。
鑑真が将来した四分律には、先述の「五綴」に関する戒律がある(『仏光大辞典』「五綴」)。僧
は、鉢が壊れても、欠損が五綴(長さの単位)に達するまでは(あるいは 5 回壊れるまでは)、
補修して使わなければならないとするものである。ここから類推して、銅鋺を破砕する行為は、仏教的な鋺・鉢の取り扱いからかけ離れ、文脈が共有されていないことを示唆する。古代の北海道や青森県域において、それらの儀礼を直接執行した人物が、仏教思想を体系的に身につけていたとは考えにくい。すなわち、当時の津軽海峡世界では、仏具としての銅鋺とは違った意味、価値体系のもとで銅鋺が受容されていた可能性が高い。青森市朝日山(2)遺跡第 216 号溝跡では、946 年降下の B-Tm の上層において、破砕された
伯牙弾琴鏡が炭化籾殻の上面で出土し、祭祀行為の存在を示唆する。また、当該遺構近くの住居床面では、錫杖状鉄製品が出土している。厚真町上幌内モイ遺跡では、円形周溝遺構に近い集中区(儀礼場)から炭化イナキビなどとともに破砕され被熱した銅鋺が出土し(11 世紀前半)、朝日山(2)の事例に類似する(蓑島 2012a)。やはり破砕された銅鋺が出土し、儀礼遺構の可能性がある平取町カンカン 2 遺跡の方形周溝(10 世紀後半)も、これらと関連するものかもしれない。
これらはいずれも、東日本的・雑密的な祭祀者が関与した可能性を排除しきれないかもしれない。一方で、両者の様相には、ともに民族誌的なアイヌ文化におけるカムイノミ(神々への祈り)や「送り」儀礼を彷彿とさせる側面もある。この時期の青森や北海道には五所川原産の須恵器甕の流通がみられ、上記の 3 遺跡でも出土している(表 1)。こうした製品はおもに酒の貯蔵・醸造・運搬に使用されたと推測される(鈴木2003)。とすれば、上記のような「祭祀」遺構では、アイヌの民俗事例につながるような献酒儀礼がすでにおこなわれていたという可能性も考えてみたくなる。当時の青森県域で擦文土器が出土することの意味にもさらなる追究の余地がある。これらの問題について現時点で即断はできず、今後の発掘調査事例の増大などを待つべき検討課題として残されるが、いずれにせよ、10 ~ 11 世紀の津軽海峡世界には、かなり独自の文化変容をとげた祭祀・儀礼が存在し、それらが共有され、交流を媒介していたという可能性が推察される。
憶測となるが、当時の北海道内に登場していた有力者・首長たちは、本州との経済交流の進展に連動して、対外的には本州由来の精神文化を受容し、祭祀・儀礼の場を共有したりして、南の社会との交流を実現しつつ、内向きには、それらの要素を選択的に受容しながら、独自の文化を維持し、洗練させていったのではあるまいか。」

 

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀  『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3  より引用…

 

もう、錫杖と銅碗は仏具や修験の道具としての意味合いを濃くしている方向の様だ。

当然だろう。

流れとしてやはり東北からの流入を想定すれば、土豪にして庶民にして、食器より仏具らの方がその意味合いは濃くなる。

しかも、かなり10~11世紀については北東北との関連性が強いものと想定している。

これで、何故我々が製鉄や鍛冶、金銀銅の精錬ら技術伝搬に拘るのか?解って戴けたかと思う。

自ら作るのならその独自性は強化され、同じものでも地域柄の差は大きく出るであろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

弥生土器の影響で薄くなろうが独自性を残した恵山式土器の様に…

土師器の技法らを取り入れつつも、それ以前の紋様を残した擦文土器の様に…

しかし、金属器はそうはいかない。

須恵器も合わせて、それを超える熱を扱う技術が必要。

作れなければ?買うしかない。

で、その金属器は胆振,日高,石狩低地らを中心に出土している。

その色濃さは別としても、文化受容が無ければそんな物があろうハズ無し。

零:百思考で判断して良い訳がない。

しかも、自ら作る訳でないので独自性は低くなるのも当然だろう。

勿論、北東北を含む破砕行為が意味する物がどんなものか?は検討の余地ありと指摘される。

あれ?

柳之御所遺跡の「破鏡」は?

まぁ北東北は、それでなくともオトモサマ信仰や十八夜観音信仰、イタコら特異性をもつ民間信仰が根強く残る。

これらの起源が最早何処まで遡るのか?現状では全く辿れていない。

これらが国見廃寺らに駆逐された呪術的雑密教の名残とするなら、正規仏教の拠点より離れる程に残る事にはなるだろう。

文化グラデーションがつく。

北海道が如何ほど正規仏教が浸透しえたであろうか?

…古有珠善光寺等の解明、これに掛かってくるのではないだろうか。

当然、胆振,日高,石狩低地より離れた地域で、これら仏具らの出土が薄まれば、グラデーションが掛かる事に。

同論文にある「北海道 東北地方における錫杖状鉄製品、鉄、銅鏡の分布」

当然、これらは発掘の拡大で事例は増える。

更にハッキリとグラデーションが見えてくるだろう。

 

と、特異性を持つもの。

「ここでは、「コイル状鉄製品」について、まず出土例を以下に集成する(出典を明示したものは報告書未掲載。明示していないものは報告書の記載による)。

新十津川村 254 番地(1894 年出土)38 点 墓?(三浦 2001)

千歳市美々 4 遺跡 15 ~ 17 世紀  1 点  墓

平取町二風谷遺跡 10 ~ 12 世紀 6 点 包含層

・札幌市 K501 遺跡 11 ~ 12 世紀 5 点 包含層

常呂町ライトコロ川口遺跡 13 ~ 14 世紀 11 点 墓(廃絶した擦文竪穴住居址内に造成。ガラス玉約 70 点)

余市町大川遺跡 14~15世紀? 16 点 墓(GP-4)  ※明瞭なピットとして検出されず。

ガラス玉 40 点共伴(余市町教委 1990、菊池 1995)

厚真町上幌内モイ遺跡 10 世紀後半~ 11 世紀前半 1 点 集中区 26 ※炭化物集中・焼土

厚真町上幌内 2 遺跡 13 世紀 18 点 5 号墓 方形の竪穴状造成 ※ 12 世紀中葉の秋草双

鳥文鏡、筒状銅製品など

以上のように、年代はおよそ 10 ~ 15 世紀にかけての期間にわたっており、分布はほぼ道内全域におよぶ。

上記のほか、道北の中川町安部志内川右岸遺跡の 2011 年度試掘調査において、近世アイヌの「もの送り場」と推定される遺構から、ガラス玉や赤漆膜片、カワシンジュガイ殻皮などとともに、コイル状鉄製品?とされるものが 2 点出土し、放射性炭素年代測定などから 18 世紀後半の年代が示唆された(田才雅彦「附編 安部志内川右岸遺跡の試掘調査」中川町教育委員会編『オフイチャシ跡―測量・試掘調査報告―』2012 年)。形態的に類似するものの、年代が余りにも離れている。18 世紀後半にコイル状鉄製品が装飾品として普及していたならば、アイヌ絵や民族誌への記述、民俗資料などに類例がないのも不審である。ここでは、中川町出土資料について、「コイル状鉄製品」の範疇には含めないこととする。

「コイル状鉄製品」の用途は、初期に確認された常呂町ライトコロ川口遺跡出土例から、北方ユーラシア的、サハリン的なシャーマンの腰帯の垂飾と関連づけられることが多いが、大川遺跡GP-4 の例から、近年ではタマサイ(アイヌ民族の首飾り)の一部としての用途が示唆されている。特に関根達人氏は、「鉄製コイル状あるいはラセン状垂飾が 15 世紀頃大陸・サハリンからもたらされた北方系遺物とする点に異論はないが・・・大川遺跡やライトコロ川口遺跡において、腰帯に付けるには多すぎる数のガラス玉と共伴している点に鑑みれば、タマサイの部品に転用されていたのではなかろうか」としている(関根 2007)。最近の厚真町上幌内 2 遺跡における出土例から、首飾りとしての蓋然性はより高まった。その起源についても諸説がある。三浦正人氏(2001)は、「イメージや思想を北方や大陸に求めつつも」「鉄を手に入れた擦文人がその象徴として、形態は北方や大陸を意識しながらも、実物を鉄という材質で成立させたのであろう」としている。 一方、関根氏(2014・2016)は、「コイル状鉄製品」は、同時期の鉄製腕輪を含めて、「ワイヤー製装身具」と総称すべきとする。さらに、中澤寛将氏の教示として、クラスキノ土城(8 ~ 10世紀)2010 年第 45 調査区未報告資料にこうした遺物の類例があるとし、これらは「すべて 15

世紀以前の初期アイヌ文化期に限られる」「近世以前の日本の金工品にはワイヤーを素材とする装飾品はほとんど認められず、擦文文化にもそのような遺物はまったく認められない」として、アイヌ文化の形成(関根氏は通説に従い 13 世紀とする)に作用した「大陸からの文化的影響」であると結論する。 しかし、二風谷遺跡、K501 遺跡、上幌内モイ遺跡の例はいずれも擦文期であり(主として 10

~ 11 世紀頃)、コイル状鉄製品が擦文中期にはすでに出現していることの意味は重要であろう。 また、北海道から出土するコイル状鉄製品を「大陸・サハリン・北方系」と断定することも現時点では躊躇される。先述のクラスキノ土城の例は、2010 年に実施された第 45 次調査区の第 5 層から出土したもので、クラスキノ城址でも上層のおよそ 10 世紀前葉頃に相当する(この資料の出典に関して、蓑島も中澤氏から教示を受けた)。当該資料は、円柱状を呈し、頂部の耳がない。「さなぎ」状で耳をもつ北海道の「コイル状鉄製品」とは形態的に相違する。さらに類例として、やや時期が早いが、渤海期(8 ~ 9 世紀)の虹鱒漁場遺跡(上京龍泉府から約 6 キロ)で出土している「鉄螺旋器」にも留意される(黒竜江省文物考古研究所 2009)。やはり形態は円柱状で、頂部の耳もない。また、「鉄螺旋器」以上に「銅螺旋器」が目立ち、それらには筒状の銅製品に溝をつけたものが多い。「コイル状鉄製品」の源流に迫るのは容易ではないが、少なくとも、大陸の金属製「螺旋器」とは形態差が大きく、モティーフとしての影響について想定の余地はあるにせよ、従来言われきたような大陸製品そのものの伝来を想定するのは難しいのではないか。「コイル状鉄製品」が擦文中期から中世(現状で上限は 10 ~ 11 世紀、下限は 14 ~ 15 世紀)にかけて用いられ続けていることは、擦文期と「アイヌ文化期」に連続する文化要素の一つとして注目される。分布の面でも、道央部だけでなく、日本海側やオホーツク海沿岸に及ぶ道内全域に及んでいる。これについて、古代~中世の北海道・アイヌに固有の、近世以後のアイヌ文化には継承されなかった装身具(祭祀具の可能性を排除できない)として位置づけるべきではないか。このように想定した場合、生産地が大きな問題となるが、後世、「蝦夷拵」のエムシ(刀)など、「アイヌ好み」の本州製品が特注されていたことをヒントにすると、コイル状鉄製品が青森の製鉄遺跡などで北海道向けに生産されたという可能性も排除できない。一般に大陸系とされてきたオホーツク文化の曲手刀子について、形態は大陸的であるが素材は本州製である可能性が高いという指摘(天野哲也「討論」『北方世界と秋田城』六一書房、2016)なども参考となる。」

 

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀  『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3  より引用…

 

これは我々も注目していた点。

コイル状のものだ。

ただ、その出現はほぼ擦文文化期に限定され、その後断絶を見る。

数百年後に似たものが出現しても同じ目的,手法とは限らない…至極当然かと思う。

まぁ、大前提として、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

これが横たわる。

そして、絵図らに無いのだから近世アイノ文化には継承されなかった擦文文化期の北海道固有性を示すのではないかと指摘する。

近似の物が、同時代には本州にも大陸にもないのなら、そんな判断が妥当なところだろう。

ふと考える…

これは全く根拠が薄いが、擦文文化期は痕跡の断片が見え、近世には全く断絶するものはまだある…製鉄や鍛冶の技術。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450

製鉄炉跡が見当たらず、鉄滓からも成功した形跡は見えない。

僅かに発生した鉄を貴重なものとして誇示していたとしたら?

まぁ、これは妄想に過ぎないのでここまで。

いずれにしても、この時代に限定且つ北海道のみに限定されるなら、擦文文化末期の固有文化と見なすのが良いのだろう。

大体まだ、アイノ文化が何時から形成されたか?が設定されてはいないし、定義自体が不明瞭。

土器や鉄滓の喪失…つまり、製造技術の喪失を指標と見るなれば、生活物資そのもの一切を本州由来とし経済圏の一部に組み込まれた時点から…とも言えるのではないか?

 

如何であろうか?

まだ解明されるべき問題は山積み。

と、言うより、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

まずは、何を持ってその文化とするか?定義や区分の統一を図るのが先なのではないか?

上記の通り、例えば仏教や修験の一部受容や生活物資の本州依存を鑑みれば、その時代はかなり本州に近い生活となってくるのではないだろうか?

勿論、コイル状製品ら固有の物を持ちつつにはなるが。

以前から言うように、これだけ交流が盛んに行われた事を考えれば、少なくとも日高〜石狩低地までに於いて、言葉も通じなくなるような固有文化化していく傾向になると思えるか?

むしろ、その周辺以北,以東に向かい徐々に本州から離れた文化へグラデーションがついて当然だと思うが。

特に江戸期には口蝦夷、奥蝦夷、赤蝦夷とある程度分別していた傾向は伺える。

それがそのグラデーションを意味するならその辺も定義,区分に組み込む必要があろう。

その場合、口蝦夷は本州文化にかなり近くなる…以前から言っている事。

さて、奈良〜平安期の仏教的アイテムについては、本州からの影響を鑑み、もう少し追ってみたいと考える。

まぁこれ、製鉄,精錬、石工ら技術とは紙一重

どちらか追う内に必ずもう一方もついてくる。

先に述べた大前提がある故にだ。

「製造技術を持てば文化の独自化は進み易い。製造技術を持てなければ持ち込む地域の文化の影響を強く受け同化の方向へ進む。」…

なら、上記のアイテムはなんなのだ?

特異点を除けば、ほぼ共通の物資を検出する…となる。

ならば…?

 

因みに、その国見廃寺らの大檀那を努めた陸奥六郡俘囚長安倍氏の後裔を名乗るのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/07/093808

蝦夷管領や日ノ本将軍と言われ、津軽や秋田を拠点にした安倍姓安東氏。

繋がりは遥か古代から。

 

 

 

参考文献:

 

「国見廃寺と周辺の寺院跡」  北上市立博物館  平成29.9.22

 

修験道資料展  -道具に見るその祈り-」  北上市立博物館  平成29.3.31

 

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀  『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3